沙門空海唐の国にて鬼と宴す 巻ノ二 夢枕 獏 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)玄宗《げんそう》皇帝 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)空海|入唐《にっとう》時 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)みゆき[#「みゆき」に傍点]である。 ------------------------------------------------------- [#挿絵(img/02_000.jpg)入る] 〈カバー〉  劉家の妖物が歌った詩が、李白の「清平調詞」であり、それはこの時代を遡ること約六〇年前、玄宗《げんそう》皇帝の前で、楊貴妃《ようきひ》の美しさを讃えるために歌いあげられたものである——。それを空海に示唆したのは、自居易《はくきょい》という役人であった。当時、李白はこれをきっかけに玄宗の寵遇を得たが、それを妬んだ宦官の高力士《こうりきし》の讒言により、後に長安を追われることとなったという。それを知った空海は、楊貴妃の墓所がある、馬嵬駅《ばかいえき》に赴く。  劉家と綿畑の怪は、安禄山《あんろくざん》の乱における楊貴妃の悲劇の死に端を発すると喝破した空海は、貴妃の墓を暴くことを決意する。墓の前で、空海は白居易——のちの大詩人・白楽天《はくらくてん》と初対面する。白は、詩作の悩みを、空海に打ち明けるのだった……。 夢枕 獏(ゆめまくら・ばく) 1951年、神奈川県小田原市生まれ。東海大学文学部日本文学科卒業。77年、「カエルの死」で作家デビュー。『キマイラ』『闇狩り師』『サイコダイバー』『餓狼伝』『陰陽師』など、多くの人気シリーズを持つ。89年、『上弦の月を喰べる獅子』で日本SF大賞受賞。98年、『神々の山嶺』で柴田錬三郎賞を受賞。 密教法具提供/みのり工房 [#挿絵(img/02_001.jpg)入る] 【巻ノ二】 沙門空海唐の国にて鬼と宴す 夢枕 獏 徳間書店  沙門空海唐《しゃもんくうかいとう》の国《くに》にて鬼《おに》と宴《うたげ》す 巻ノ二    巻ノ二  目 次  第十二章  宴  第十三章  馬嵬駅  第十四章  柳宗元  第十五章  呪俑  第十六章  晁衡  第十七章  兜率宮  第十八章  牡丹  第十九章  拝火教  第二十章  道士  第二十一章 ドゥルジ尊師  第二十二章 安倍仲麻呂 [#改ページ]  ●『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』主な登場人物   ——————徳宗〜順宗皇帝の時代—————— 空海《くうかい》    密を求め入唐した、若き修行僧。 |橘 逸勢《たちばなのはやなり》  遣唐使として長安にやってきた儒学生。空海の親友。 丹翁《たんおう》    道士。空海の周囲に出没し、助言を与える。 劉雲樵《りゅううんしょう》   長安の役人。屋敷が猫の妖物にとりつかれ、妻を寝取られてしまう。 徐文強《じょぶんきょう》   所有する綿畑から謎の囁き声が聞こえるという事件が起きる。 張彦高《ちょうげんこう》   長安の役人。徐文強の顔見知り。 大猴《たいこう》    天竺生まれの巨漢。 玉蓮《ぎょくれん》    胡玉楼の妓生。 麗香《れいか》    雅風楼の妓生。 マハメット 波斯《ペルシア》人の商人。トリスナイ、トゥルスングリ、グリテケンの三姉妹を娘に持つ。 恵果《けいか》    青龍寺和尚。 鳳鳴《ほうめい》    青龍寺の僧侶。西蔵《チベット》出身。 安薩宝《あんさつぽう》   |※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教(ゾロアスター教)の寺の主。 白楽天《はくらくてん》   後の大詩人。玄宗皇帝と楊貴妃の関係を題材に、詩作を練っている。 王叔文《おうしゅくぶん》   順宗皇帝の身辺に仕える宰相。 柳宗元《りゅうそうげん》   王叔文の側近。中唐を代表する文人。 韓愈《かんゆ》    柳宗元の同僚。同じく中唐を代表する文人。 子英《しえい》    柳宗元の部下。 赤《せき》     柳宗元の部下。 周明徳《しゅうめいとく》   方士。ドゥルジの手下。 ドゥルジ  カラパン(波斯《ペルシア》における呪師)。   ——————玄宗皇帝の時代—————— 安倍《あべの》仲麻呂《なかまろ》 玄宗の時代に入唐し、生涯を唐で過ごす。中国名は晁衡。 李白《りはく》    唐を代表する詩人。玄宗の寵を得るが後に失脚する。 玄宗《げんそう》    皇帝。側室の楊貴妃を溺愛する。 楊貴妃《ようきひ》   玄宗の側室。玄宗の寵愛を一身に受けるが、安禄山の乱をきっかけに、非業の死を遂げる。 安禄山《あんろくざん》   将官。貴妃に可愛がられ養子となるが、後に反乱を起こし、玄宗らを長安から追う。 高力士《こうりきし》   玄宗に仕える宦官。 黄鶴《こうかく》    胡の道士。楊貴妃の処刑にあたり、ある提案をする。 丹龍《たんりゅう》    黄鶴の弟子。 白龍《はくりゅう》    黄鶴の弟子。 不空《ふくう》    密教僧。 [#挿絵(img/02_006.png)入る] [#挿絵(img/02_007.png)入る] [#ここから5字下げ] カバー装画/立原戌基 表紙写真/板彫胎蔵曼荼羅(高野山金剛峰寺) 装丁/岩郷重力+WONDER WORKZ。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]    第十二章 宴        (一)  | 橘 逸勢《たちばなのはやなり》は、さっきから、浮かぬ顔で、葡萄酒《ぶどうしゅ》を飲んでいる。  瑠璃《るり》の盃である。  そこに満たされた赤い色の液体を、見つめては口に運び、飲んでは|※[#「土へん+盧」、第3水準1-15-68]《ろ》の向こう側にいる空海を眺めやる。  しきりに空海と話をしたがっている逸勢の様子を知ってか知らずか、空海は、独りで自分の想いの中に入り込んでいる様子であった。  瑠璃の盃に、ほとんど手も触れない。  胡玉楼《こぎょくろう》——  胡姫《こき》が客の相手をする妓楼《ぎろう》である。  床の敷き物は、波斯絨緞《ペルシアじゅうたん》である。  壁にかかっている絵も、置かれている壺《つぼ》も、西域のものであった。  瑠璃の盃——つまり、それは、西域からこの長安《ちょうあん》まで運ばれてきたガラスの盃のことである。  劉雲樵《りゅううんしょう》に会っての帰り、逸勢が胡玉楼へ寄ろうと言い出して、空海は、逸勢と共にここへ上ったのであった。  大猴《たいこう》は、途中、空海や逸勢と別れ、麗香《れいか》がいると思われる道士の家の様子を見に出かけている。 「雲には衣裳を想い、花には容《かんばせ》を想う……」  空海は、低い声でつぶやいている。  それは、その日、劉雲樵から教えられた詩である。  妻の春琴《しゅんきん》が、老婆と化して、詩を口にしながら舞ったという、その時の詩の一節である。  |※[#「土へん+盧」、第3水準1-15-68]《ろ》の上に紙片を置いて、その紙片を眺めては、空海は、その詩句をつぶやいているのだった。  |※[#「土へん+盧」、第3水準1-15-68]《ろ》の上の紙片には、その老婆が口にしたという詩が、書かれているのである。  空海の横に座っている玉蓮《ぎょくれん》は、おとなしくそこに座して、時おり、思い出したように口を開く空海の言葉に、微笑を絶やさずに相槌《あいづち》をうつ。  さっきまで逸勢の横にいた牡丹《ぼたん》が、ふいに何か思い出したように席を立って姿を消してから、もうしばらくになる。  逸勢の浮かぬ顔の原因は、そんなところにもあるらしい。 「なあ、逸勢よ。これはなかなかの詩だぞ……」  空海は、うっとりと紙片に眼をやりながら言った。  そのことを、空海が口にするのは、三度目である。 「そのことなら、よくわかってるさ」  逸勢は、さっき答えたのと、同じような答え方をした。   雲想衣裳花想容   春風拂檻露華濃   若非群玉山頭見   會向瑤臺月下逢  空海が先ほどから口にしている詩は、女性の容姿を詩《うた》ったものである。  雲を見るとあなたの衣裳が想い出され、花を見ては、あなたの容姿が想い出される。  春の風が檻《てすり》を吹き、花の上に降りた露はなんとなまめかしいことだろう。  このような美しい方は、もし群玉山《ぐんぎょくさん》のほとりで見るのでなければ、きっと、瑤台《ようだい》の月の下《もと》で逢えるお方であろう。  そのような意の詩である。  群玉山というのは、美しい仙女が住むと言われる伝説上の山である。  瑤台もまた伝説上の宮殿で、五色の玉《ぎょく》で築かれており、そこにもまた美しい仙女が住むと言われている。  つまり、この詩は、詩に詩《うた》われている女性の容姿を、そのような仙女の美しさにたとえているのである。 「凄いな、これは……」  空海は、溜め息のように言った。 「何がだ?」  逸勢が訊《き》く。 「だから、この詩がだ」 「どう凄い?」 「うまいとか、よいとか、そういうことではないぞ。この詩は、そういう詩の理屈が書かせたものではない。才が書かせたものだ」 「才?」 「才が溢《あふ》れている。流れるような才だな。自然に口から流れ出てくるものだよ。このような才は、たぶん、涸《か》れようがない。酒でも飲みながら月でも眺めているだけで、このような才の持ち主は、ひと晩中でも、口にするのと同じ速さで、このような詩句を書き続けることができるだろうよ」 「それはまた、偉い誉めようだな」 「普通の才であれば、多少の理は必要であろうから、たとえば酒でも入ったら、詩を造ることはできなかろうが、このような才の持ち主は、酒が入れば入るほど、詩が溢れ出てくる人間だろうよ」 「ふうん」 「言うなれば、酒の席での書きなぐりのようなものだ。それが、そのまま詩になってしまうのだ。この�雲想衣裳花想容�のところなどは、凡人であれば、�あなたの衣裳を見ると雲のことを想い出し、あなたの容姿を見ると花のことを想い出す�と、思わず書いてしまうところだ。この詩を書いた人間は、それを、いともかろやかに逆にしている。�雲を眺めるとあなたの衣裳のことを想い、花を眺めるとあなたの容姿を想う�と——」 「そういうものか」 「花というのは、まあ、牡丹の花だろうよ——」  空海は言った。  空海より、しばらく後において、日本で花とあれば、それは、桜のことである。  唐代の中国において、ただ花とあれば、それは牡丹か桃の花のことである。 「逸勢よ。これだけの詩を書く人物のことだから、我等は知らずとも、それなりの人間は、この詩を書いた人物のことを知っているかもしれないな。案外、この詩のことは早くわかるかもしれないぞ」  空海は、逸勢に、というよりは、独り言のように言った。 「それよりも空海よ、牡丹はどこへ行ったのかな——」  逸勢は、その詩よりも、さっき姿を消した牡丹のことが気になっているらしい。  空海が、牡丹の花のことを口にしたので、牡丹のことをまた思い出したらしかった。 「牡丹ちゃん、心あたりがあるかもしれないって言ってたけど……」  玉蓮が言った。  さきほど、牡丹は、空海が紙に書いた詩に眼をやって、 「ふうん」  ひとりでうなずいた。 「心あたりがあるかもしれないから、ちょっとこれを見せてこようかしら……」  そう言って、牡丹は部屋から姿を消したのであった。 「心あたり?」  そう問いかける逸勢に、 「ちょっとね」  と、肩越しに振り返って見せ、牡丹は背を向けたのであった。  それからしばらくの時間が過ぎている。  逸勢が、所在なさそうに溜め息をついた時、廊下に足音が近づいてきて、部屋に牡丹が入ってきた。 「さっきの詩のこと、わかっちゃった」  明るい声で牡丹は言うと、右手に持った紙片をひらひらとさせた。 「これが、あの詩の続きよ」  それを聴いて、空海は、眼を輝かせた。 「それは凄い。ぜひ見てみたいな」  牡丹は、逸勢の横に座りながら、 「はい」  空海にその紙片を手渡した。  空海は、その紙片を受け取って広げた。  逸勢が、身を乗り出して、横からその紙片を覗《のぞ》き込む。 �清平調詞《せいへいちょうし》�  と、その詩の題が記されている。  清平調《せいへいちょう》というのは、唐代の音楽の調子の名である。  それに�詞�とついているから、清平調で歌われる唄の歌詞というほどの意味であろう。 「その詩は、全部で三首あって、空海さんが持っていた紙に書いてあったのは、その一首目らしいの。それで、二首目と三首目を書いていただいたのよ」  牡丹が言った。 「誰に書いてもらったの?」  玉蓮が訊いた。 「後で話すわ。まず、それを、空海さんに読んでいただいてからね」  牡丹もまた、身を乗り出して、その紙片を覗き込んだ。  まだ、墨の匂いの残る、実直そうな字で、そこに二首の詩が記されていた。  見覚えのある字であった。  しかし、その字が誰のものかを考えるより先に、空海はそれを読みはじめていた。 [#ここから2字下げ] 清平調詞 二 一枝紅艶露凝香   一枝《いっし》の紅艶《こうえん》 露《つゆ》 香《かお》りを凝《こ》らす 雲雨巫山枉斷腸   雲雨巫山《うんうふざん》 枉《むな》しく断腸《だんちょう》 借問漢宮誰得似   借問《しゃもん》す 漢宮《かんきゅう》 誰《たれ》か似《に》るを得《え》たる 可憐飛燕倚新粧   可憐《かれん》の飛燕《ひえん》 新粧《しんしょう》に倚《よ》る 清平調詞 三 名花傾國兩相歡   名花傾国《めいかけいこく》 両《ふた》つながら相歓《あいよろこ》ぶ 長得君王帶笑看   長《なが》く君王《くんのう》の笑《わら》いを帯《お》びて看《み》るを得《え》たり 解釋春風無限恨   春風無限《しゅんぷうむげん》の恨《うら》みを解釈《かいしゃく》して 沈香亭北倚閑干   沈香亭北《じんこうていほく》 闌干《らんかん》に倚《よ》る [#ここで字下げ終わり]  そのような詩であった。  空海は、それを読みながら、 「いや、逸勢よ。なんともあでやかではないか。ここまでくると、もはや才の浪費だな。しかし、浪費しても浪費しても涸れることがないというのも才のひとつだ」  詩そのもののできよりも、このような詩を書いた作者について、空海は感心しているようであった。  逸勢も、詩については、そこそこ理解がある。  空海の言う意味は、それなりにわかる。 「おまえは、その詩よりも、詩人の才に感心しているようだな」  逸勢が言う。 「まあ、そうだな」 「しかし、空海よ。おまえの言い方は、おれには、どこか、皮肉っぽく聴こえるな——」 「聴こえるか」 「聴こえる」 「いや、逸勢よ。その通りだよ。はっきり言って、これは、お愛想《あいそ》の詩だな。しかし、ただのお愛想も、才ある人間が詩にすると、これだけのものになってしまう。なんともったいないことよと思いかけたのだが、そうではない。どれだけ水を汲み出そうとも、この才という泉は涸れることがないのだからな……」  空海は、微笑しながら言った。 「さすがは唐の長安《ちょうあん》よ。かような詩を、いともかろがろと書く才子がいるものだなあ」  そう言った空海に、 「なあ、空海よ——」  逸勢が声をかける。 「才の浪費がもったいないと思うのは、その思う人間に才がないからだと、そういうことにもなるのかな——」 「さあて——」  空海は、逸勢の言葉をはぐらかすという風でもなく、話題をかえた。 「牡丹ちゃん、この詩は、誰の詩なんだい?」  空海が訊いた。 「李白《りはく》という人の詩だって——」  牡丹が言うと、 「おう……」  と、小さく空海が声をあげた。 「……なるほど、そうか。これは李白翁の詩であったのか」  ひどく得心がいった様子で、空海は自分でうなずいた。  この当時、李白の詩は、まだ、本格的には日本に紹介されてはいなかった。  空海|入唐《にっとう》時(八〇四)、すでに李白はこの世の人ではなく、それより四十二年前(七六二)に、六十二歳で生涯を閉じている。  その李白の詩が、日本の記録に残っている最古の例は、寛平《かんぴょう》年間(八八九〜八九八)の藤原佐世撰《ふじわらのすけよせん》になる『日本国|見在書《げんざいしょ》目録』である。同書に、「李白詩歌行三巻」が載せられており、この書が仮に、寛平年間の最初(八八九)にできたとしても、その時、すでに空海はこの世の人ではない。  空海が死んで、五十四年後のことである。  李白が死んで、空海が入唐するまでの間に、二度、遣唐使船が出ている。  それ等の遣唐使船が、李白の詩のいくつかは、日本に持ち帰ってきたこともあろうから、希代《きたい》の文章家である空海は、入唐以前に、李白の詩を読んでいた可能性はある。しかし、それにしても、後に唐で編纂《へんさん》された|魏※[#「景+頁」、第3水準1-94-5]《ぎこう》の『李翰林集』、および李陽冰《りようひょう》の『草堂集』などのような、全集的な詩文集は眼にしていないはずであった。  空海が、李白のことについて、知識を仕入れたのは、唐に渡ってからのことである。  しかし、この時期、まだ、李白の詩文集は編纂されてはおらず、この「清平調詞」を、空海が眼にしていなくとも、それは無理からぬことであった。  しかし、詩人としての李白の評判は耳に入っていたろうし、すでに、杜甫《とほ》の「飲中八仙歌」にある、 [#ここから1字下げ] �李白|一斗《いっと》、詩百篇。長安市上、酒家《しゅか》に眠る。天子《てんし》呼び来《きた》れども船に上らず。自ら称《しょう》す、臣《しん》は是《こ》れ酒中《しゅちゅう》の仙と� [#ここで字下げ終わり]  くらいは、その知識の裡《うち》であったろう。 「なるほど、謫仙《たくせん》どのの詩とあれば、かくもあろうよ」  空海は、紙片を見つめながら言った。  謫仙——すなわち、天上から流刑《るけい》されて、地上に住む仙人のことである。  李白の詩才に驚嘆した賀知章《がちしょう》が、李白をその謫仙《たくせん》に譬《たと》えて、そのように呼んだのである。 「いったい、誰が、牡丹ちゃんにこの詩のことを教えてくれたんだい」  空海が訊いた。 「白《はく》さんよ」  牡丹は言った。 「あら、くだんの方は白さんだったの?」  玉蓮が、納得したような声で言った。 「白さんというと、この前見せていただいた、あの詩をつくった白さんのことですか——」  空海はいった。  しばらく前に、逸勢と共に、この胡玉楼に上ったおり、玉蓮のお客で、いつも玉蓮に墨と筆と紙を用意させては、ここで詩のようなものを書いてゆく人物のことを、空海は玉蓮と牡丹のふたりから耳にしている。  その客の名が、白であった。  その白が、書いてそのまま捨てていったという、詩の書かれた紙片を空海は見た。  長い長編詩の、出だしの部分とおぼしきその詩は、その数行を見ただけで、その詩人が、まだ書きあげられてないその詩に、どれだけの意気込みを持って取り組んでいるかが、推し量られるものであった。 「そうよ」  牡丹はうなずいた。 「なるほど、見覚えがあるわけだ」  その男なら、李白の詩を諳《そら》んじていても不思議はないという顔で、空海はつぶやいた。 「この詩を見た時、わたし、白さんならきっと知っているんじゃないかと思って——」  牡丹は、明るい声で言った。 「——ちょうど、白さんがお帰りになる頃だったから、帰る前にと思って、空海さんから戴《いただ》いた詩を見ていただいたの。そうしたら……」  牡丹は、その時の、白の口調を真似るように声色を変えて言った。 「ああ、それは、李白翁の�清平調詞�ですよ」  そのように、白は言ったという。 「白さんは、その詩を、全部御承知でいらっしゃるの?」  牡丹は訊いた。 「知っていますよ」  と答えた白に頼んで、墨と筆を用意して、くだんの詩を書いてもらったというのである。 「それで、白さんは?」  空海は訊いた。 「これを書いて、すぐにお帰りになったわ。ゆくところがあるって——」 「この詩が、どういう時に書かれたものか、それは聴きませんでしたか」 「あら、ごめんなさい。わたし、うっかりしちゃって、そこまでは……」 「いいんだよ、牡丹ちゃん。李白の�清平調詞�ということがわかっただけで、たいへんありがたいのだから。その後のことは、こちらで調べられると思いますよ」 「空海さんに喜んでいただけると、嬉しいわ——」 「この白さんは、確か、お役人だと言っていましたね」 「ええ」 「白《はく》が姓で、名前は何というんですか?」 「居易《きょい》さんよ。姓が白で、名前が居易」 「白居易……」  空海はつぶやいた。  白居易——字《あざな》は楽天《らくてん》。  この時より一年後に、白居易は、その白楽天《はくらくてん》の名で、長編詩「長恨歌《ちょうごんか》」を発表し、長安の詩壇に、その名を知らしめることになる。  しかし、この時、まだ白楽天は、白居易という無名の役人である。  そして、空海もまた、この時、東海の小国、倭国《わこく》からやって来た、まだ無名の一|留学僧《るがくそう》であった。 [#ここから2字下げ] 漢皇重色思傾国 漢皇色《かんこういろ》を重《おも》んじて傾国《けいこく》を思う…… [#ここで字下げ終わり]  すでに、空海が眼にしている詩のこの一行こそが、その「長恨歌」と題された、玄宗《げんそう》皇帝と楊貴妃の愛憎の物語詩の、その書き出しの部分であることを、空海はまだ知らない。  白楽天、この時三十四歳。  沙門《しゃもん》空海、この時三十二歳。  白楽天は、まだ、「長恨歌」の構想を胸に秘め、己れの詩才で世に駆け出ようとする、無名の青年であった。  空海もまた、この宇宙の法を知るべく長安に訪れている、無名の沙門である。  空海が、やがて日本国にもたらすことになる密教の体系が、その後の日本の宗教史を大きく変えてゆく力になろうとは、その場にいた逸勢でさえ、まだ夢にも思ってはいない。  ただ、空海のみが、その野望を胸に秘めている——        (二) 「馬嵬駅《ばかいえき》へゆく」  と、空海が言い出したのは、翌朝であった。 「何故また急にそんなことを——」  逸勢は驚いた。  昨夜、空海が灯火を点《とも》して、寝ずに何やら調べものをしていたのを逸勢は知っている。  昨夜、「清平調詞」の作者が李白と知ってから、空海と逸勢は、早々に、胡玉楼を出ている。  逸勢は、そこで空海と別れている。 「捜しものがある」  空海は、逸勢にそう告げて姿を消した。  空海がもどってきたのは、夕刻である。  暮鼓《ぼこ》が鳴り始め、坊門がやがて閉まろうかという頃であった。  帰って来た空海は、大きく懐をふくらませて逸勢の前に立った。  見れば、空海の懐には、たくさんの書が入っている。 「どうしたのだ?」  逸勢が問うた。 「借りてきたのだ」  空海は、あっさりと言った。 「借りてきた?」 「これから、この書を読まねばならぬ」 「全部か」 「全部だ」  そう言って、空海は、食事もせずに、部屋にひきこもってその書を読み始めたのである。  逸勢が、眠る時にも、傍《かたわら》で、まだ、空海は灯火の元で書を読み続けていた。  翌朝、逸勢が眼を覚ますと、空海はそこからいなくなっていた。  いつも空海が眠るあたりに眼をやっても、そこで、空海が眠っていた風はない。  外へ出た。  空海の姿は庭にあった。  牡丹が植えられているその中に立って、牡丹の枝のひとつに、空海が手をかざしているのが見えた。  陽は、地平から顔を出しているらしく、空は青く、明るい光を放っていたが、庭にはまだ陽光は差していない。  しんとした夜の冷気が、まだ、庭には残っている。  その中に、逸勢は、空海の姿を見つけたのである。 「空海——」  逸勢は声をかけた。 「おまえ、昨夜、眠らなかったのか?」 「ああ、寝なかった」  とても、寝ていないとは思えぬ明るい声で空海は答えた。 「どうしたのだ」  逸勢は、空海へ歩み寄った。 「だから、本を読んでいたのだ」 「朝まで?」 「朝までだ」  空海の答えにはよどみがない。 「まったく、おまえというのは、どこか人間離れしたところがあるな」  そう言って、あきれてみせた逸勢に向かって、 �馬嵬駅《ばかいえき》へゆく�  と、空海が言い出したのである。 「しかし、空海よ、馬嵬駅というのは、長安から、だいぶあるのではないか」 「あるな」  馬嵬駅は、長安の西、およそ八〇キロのところにある街である。  街といっても、村に近い街だ。  何故、そんな場所に、空海は出かけてゆこうというのか。  それで、逸勢は、 �何故また急にそんなことを——�  と、問うたのである。 「昨夜、本を読んでいてな、急に思いついたのよ——」  空海は言った。 「本か。そう言えば、李白翁の本も、昨夜の本の中には混じっていたな——」 「李白というのは、まるで、才能の塊《かたま》りだぞ。奔流《ほんりゅう》のように、惜し気もなくその才を溢れさせている。昨夜は本当に興奮した。しかし、読んだのは、それだけではない」 「他にも、読んだのか——」 「ああ」  そう答えた空海を、驚嘆の眼で逸勢は見た。  空海が、ひと晩のうちに、あの本を全て、本当に読んでしまったらしいからである。 「何かあったのか」 「あったというより、わかったのだ」 「わかった?」 「だから馬嵬駅までゆくのだ」 「おいおい、空海よ、少し教えてくれ、何がわかったのだ」 「『清平調詞』のことがだ」 「なに!?」 「あの詩が、どのような状況で作られたものか、わかったのだ——」 「玄宗皇帝と楊貴妃のために作られたものだという話だが——」 「そうだ。まあ、聴け、逸勢よ——」  そういって、空海は、話を始めたのであった。  李白が、「清平調詞」を書いたのは、天宝二|載《さい》(七四三)、空海入唐時より六十一年前の時である。  李白、この時四十三歳。  玄宗皇帝、この時五十九歳。  楊貴妃、この時二十五歳。  長安という都が、まさに大輪の花として盛りの頃であった。  道士の|呉※[#「竹かんむり/(土へん+鈞のつくり)」、第3水準1-89-63]《ごいん》の推薦によって、李白が長安に上ったのが、この年の前年であった。  楊貴妃が、玄宗の寵愛《ちょうあい》を受けるようになって三年目である。  その年の春、玄宗は、楊貴妃をともなって、興慶池《こうけいち》の東、沈香亭《じんこうてい》に出かけている。  牡丹の名所であった。  その牡丹を、貴妃と愛《め》でるためのみゆき[#「みゆき」に傍点]である。  それに従って共をしたのが宮中の歌舞団である。その歌舞団の中から、特別にすぐれた者を選び、十六部の楽《がく》をしたてての演奏会を、沈香亭で催したのである。  歌い手は、当代随一の歌手である李亀年《りきねん》である。  李亀年が、手に檀板《たんぱん》の拍子木《ひょうしぎ》を取って、まさに歌を唄おうとした時、玄宗がそれをさえぎった。 「妃を前にして、かように美しき花をめでるに、なんで古い歌を唄おうとするか——」  つまり、楊貴妃のために、新しい歌詞を造り、それをここで歌ってこそ、この宴《うたげ》の価値があるのではないかと、玄宗が言い出したのである。  気まぐれ、おもいつきと言ってもよい。  気まぐれにしろ、おもいつきにしろ、皇帝が言い出したことである。  そこで召し出されたのが李白である。  かくて、二日酔いで居眠りをしていた詩人が、急ぎ、その宴の席に呼び出されることになったのである。  この気まぐれな皇帝の注文に、李白の才は充分に応えた。  この詩の天才にとっては、ほんの座興にすぎない。  その座興に、惜し気もなく自分の才を披露してみせるのだ。  駆けつけた李白は、 「まず、酒を一斗《いっと》ほどいただけますか——」  そのくらいは言ったであろう。  皇帝と貴妃の眼の前で、李白は、悠々と一斗の酒を飲み干してみせる。  その間に、すでに李白は詩想を練っている。  練るといっても、始まりの一行か二行かを決めるだけのことだ。  それさえ決まれば、あとは自在である。  一斗——十升分の酒である。  それを飲み干して顔をあげた時には、詩想はできあがっている。  その間に、すでに墨が磨《す》られ、筆の用意も整っている。  李白は、渡された金花箋《きんかせん》を自信たっぷりに左手に持ち、右手に筆を握って、たちどころに三首の詩を書いてみせた。  ほとんどが、即興である。  そうして、書きあげられたのが、「清平調詞」三首である。  その新しい詞を持って、李亀年が唄った。  楊貴妃の美しさを、あでやかに李白の才が歌いあげた詞である。  まさに、天才詩人李白の、面目躍如というところだ。  しかし、この時の詩が、後に、李白が長安を追われる原因となった。  この、新参者である李白が、長安に来てからたちまち玄宗の寵遇《ちょうぐう》を得てゆくのを、おもしろく思わぬ者がいた。  それが、高力士《こうりきし》である。  高力士は、玄宗の信の篤《あつ》い、宦官《かんがん》であった。  沈香亭の宴のおり、李白は、酔った勢いで、この高力士に自分の靴を脱がさせたことがある。  しかも、玄宗の見ている前である。  そのことも、原因のひとつとなった。  その高力士が、後になって、この天才詩人の書いた「清平調詞」を批判した。  その詩中において、李白は、楊貴妃の美しさを、いやしい身分の生まれであり、しかも最後は平民に落とされて自ら生命を断った趙飛燕《ちょうひえん》になぞらえたというものだ。これは、貴妃をいやしめるものであると——  ほとんど言いがかりである。  しかし、この言いがかりのため、李白は、黄金を賜《たま》わって、長安を出ることになったのである。  それが天宝三載——李白が「清平調詞」を書いた翌年のことである。  そのことを、空海は、短く逸勢に語った。 「ふうん……」  逸勢は、わかったような、わからないような返事をした。 「しかし、空海よ。李白翁のことはわかったが、そのことと、馬嵬駅へゆくこととは、どのような関係があるのだ」  問われて、空海は、意味ありげに微笑してみせた。 「おい空海、どういうことなのだ。もったいぶらずに、おれに教えてくれよ」  そう言った逸勢に、空海は、もう一度微笑してみせ、そして言った。 「馬嵬駅にはな、逸勢よ。かの楊貴妃さまの墓所《ぼしょ》があるのだよ」 [#改ページ]    第十三章 馬嵬駅        (一)  春の、野であった。  大地には、淡い緑が萌《も》えている。  いったい、大地の中に、これまでどれだけの力が眠っていたのだろうか。  その力が、日毎《ひごと》に、大地からその表面に滲《し》み出てくる。それが、淡い緑となって、姿を現わしてくるかのようであった。  街道の左右には、柳樹《りゅうじゅ》が植えられている。その緑の葉が風に揺れている。  春であった。  野面《のづら》を吹いてきた風は、草の匂いを含んでいる。  時おり道の左右に、桃の樹が植えられており、そのあでやかな色が、空海と逸勢《はやなり》の眼を飽きさせない。  徒歩である。  長安《ちょうあん》を出てから二日目。  空海と逸勢は、馬嵬駅《ばかいえき》まで、もう一里ほどの所にいる。  馬嵬駅には、楊貴妃の墓がある。  楊貴妃——姓名を楊玉環《ようぎょくかん》。  唐の開元七年、蜀州司戸《しょくしゅうしこ》楊|玄※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《げんえん》の末娘としてこの世に生を受けたのが、この楊玉環である。  幼くして、父と死別し、叔父の楊|玄※[#「激」の「さんずい」に代えて「おうへん」、34-7]《げんきょう》の養女となった。  開元二十三年、十七歳の時に、時の皇帝|玄宗《げんそう》の第一八皇子|寿王李瑁《じゅおうりまい》の妃《きさき》となったが、開元二十八年二十二歳の時に、玄宗皇帝に召された。  李瑁にとっては、実の父である皇帝の玄宗に、無理やり、妻を奪われたことになる。  この時、玄宗五十六歳である。  もっとも、玄宗も、さすがに息子の嫁をあからさまに奪うことが気になったのであろう、いったんは玉環を女冠《じょかん》(女道士)とし、ひとまず俗世を捨てさせ、太真《たいしん》の名を与えている。宮中に玉環を入れたのは、三年後の天宝二年のことであった。  その玉環が正式に貴妃となったのは、さらにその翌年の、玉環が二十七歳のおりのことである。  政務に飽いていた玄宗の心は、この玉環——楊貴妃に奪われ、貴妃は娘子《じょうし》と呼ばれて、皇后に等しい待遇と権力を与えられた。  このような待遇を受けたのは、玉環本人ばかりではない。  一族みな高官に列し、皇族と通婚し、三人の姉は、それぞれ、韓国《かんこく》、|※[#「埒のつくり+虎」、第3水準1-91-48]《かく》国《こく》、秦国《しんこく》夫人の称号を賜《たまわ》り、族兄《ぞくけい》の|楊※[#「金+りっとう」、第3水準1-92-92]《ようしょう》は国忠《こくちゅう》の名を賜った。  この再従兄《さいじゅうけい》の楊国忠は、財務に異能ぶりを発揮し、それまでの宰相であった李林甫《りりんぽ》亡き後、宰相《さいしょう》として実権を握った。  一族の大邸宅は、甍《いらか》を接して豪華を競い、行幸に従う時は、各家がそろいの衣装で隊伍を組んだ。  一族の女たちは、胡風《こふう》の裾の長いあでやかなズボンを穿《は》き、西域の革の長靴を履《は》いて、馬に乗った。  楊一族のこの栄華は、多くの人の反感を買った。  もとより、宮中で生き残ってゆくための権力闘争の凄まじさと陰湿さは、常人の想像を越えている。負けた者の運命は、悪ければ一族ごとの死であり、良くて地の果ての役人、普通でも、それまで貴族の暮らしをしていた人間が、ただの平民になってしまう。  ここでよい、ということがない。  欲望で権力への階段を登りつめる、というよりも、一度、その道に足を踏み入れたら、自分の身を守るために、その階段を登らなければならなくなるのである。  玉環にしても、一族の者で自分の周囲を固めねば、自分の身が守れない。  噂や、中傷《ちゅうしょう》で、たやすく人が誅殺《ちゅうさつ》される。  楊貴妃の敵は、まず、宮中の、それまで皇帝から寵愛《ちょうあい》を受けていた女たちであった。  その女たちの何人かは、楊玉環との権力争いに敗れ、殺されている。  争いに負けた者の一族が自分を恨むのであっては、後に禍根《かこん》を残す。だから、葬る時には一族ごと葬り去るのである。  楊一族は、そういう権力争いをくぐり抜け、登りつめてきたのである。  玄宗は、楊貴妃に溺《おぼ》れ、必要以上の権力をその一族に与えた。  為政者としての眼は曇り、周囲に不満が満ちる。  ここに、安禄山《あんろくざん》という男がいた。  漢人ではない。  ソグド人の父と、突厥《とっけつ》人の母との間に生まれた胡人《こじん》——雑胡《ざっこ》である。  北方辺境の節度使《せつどし》であったが、辺境の治安の乱れを治めてゆくうちに武人として名をなし、ついには楊貴妃の養子となり、楊貴妃の従兄である楊国忠と計って、実力者であった李林甫を追い落とした。  その後、その、宰相となった楊国忠と反目し合うようになってゆく。  それが原因となって、天宝十四年、安禄山が、挙兵した。  これが、後に言われる安禄山の乱である。  安禄山は、ついに大唐帝国の東都である洛陽《らくよう》にまで攻めのぼって、洛陽を落とした。  安禄山は、そのまま洛陽に居を構え、あくる天宝十五年、自らを大燕《だいえん》皇帝と称し、年号を聖武と改元することを発表した。  唐軍の攻撃を、安禄山は次々に退《しりぞ》け、ついに六月、哥舒翰《かじょかん》に率いられた二十万六千の唐軍の兵までも、安禄山に破れるという事態となった。  長安は、乱れに乱れた。  やがて来る戦火を避けるため、家財を持って逃げ出す者で大街《たいがい》はあふれた。  ついに、玄宗皇帝は、臣下、一族と共に、長安を逃れて蜀《しょく》へ落ちる決心をした。  玄宗に従う者は、宰相楊国忠、楊貴妃をはじめとして、親王、妃、公主《こうしゅ》、皇孫、他に護衛にあたる近衛《このえ》の兵を合わせて、その数、およそ三千人。  暗いうちに、延秋門《えんしゅうもん》から長安を出た。  微雨であった。  渭水《いすい》を越え、咸陽《かんよう》の望賢駅《ぼうけんえき》に着く。  その時の玄宗の食事は、粗末な胡餅《こべい》であった。  この日、宮中がもぬけのからになっているのを知った民が、争って宮中に押し入り、金銀財宝を奪って王宮に火を点《つ》けたという。  玄宗たちは、小雨の降る、夏枯れの原野の中を歩いた。その原野に、漢代の、王の陵墓《りょうぼ》が点々と小雨に煙《けぶ》っている。  一行が、馬嵬駅《ばかいえき》に着いたのは、翌日の夕暮れであった。  一行がゆく土地の県令や県民は、すでに逃げてしまっている。馬嵬駅も例外ではない。  食糧はない。  途中で、逃げ出した臣下や兵もいる。  統率はとれていない。空腹と不安とで、兵は苛《いら》だっている。 「楊国忠がいけない」  ということを言う者がいる。  宰相の楊国忠が、安禄山とうまくやっていれば、こんなことにはならなかった。 「楊貴妃がいけない」  そう言う者も現われた。  あの女に、皇帝が骨抜きにされて、| 政 《まつりごと》をおこたったのだ。  そうだ、という意見があちこちにあがる。 「楊国忠を殺せ!」  誰かが叫ぶ。 「楊貴妃を殺せ!」  誰かが叫ぶ。 「楊一族の者は皆、ここで誅殺してしまえ!」  護衛として従っていた竜武将軍、陳玄礼《ちんげんれい》とその兵たちが、口々に同様のことを叫び出した。叛乱がおこった。  たちまち、兵たちは、楊一族を殺していった。  楊国忠とその家族。  楊貴妃の三人の姉たち。  玄宗皇帝と楊貴妃は、それを駅の館の窓から見た。  自分の従兄の首、姉たちの首が、兵士の槍の穂先に貫かれて、天高く掲げられている。 「残る賊根、ただひとつ、今は館の中にあり——」  陳玄礼が、扉の前で声高に叫ぶ。  賊根——それは、楊貴妃のことである。  楊貴妃に、罪はあるとも、無いとも言える。  楊貴妃があったからこその、楊国忠であり、楊一族の栄達があったわけである。  しかし、その時、事態は事の原因や善《よ》し悪《あ》しを判断している場合ではなかった。  陳玄礼は、すでに、楊一族の者を殺しているのである。  ここで、玄宗が楊貴妃を許せば、皇帝の傍に、楊一族の生き残りがいることになり、楊貴妃が、やがては、一族の敵である陳玄礼に仇《あだ》をなそうとすることは明らかである。  陳玄礼にとっては、楊一族を根だやしにする以外に自分の生きる道はなくなっている。  答はひとつである。  玄宗皇帝は、楊貴妃を殺すことを、ついに、宦官《かんがん》の高力士《こうりきし》に命じた。  高力士は、館の中庭へ貴妃と共に出、小さい仏堂の前で、白い貴妃の頸《くび》を、一枚の布で締めて殺した。  その屍体を、外で陳玄礼が確認をし、ようやく、兵士たちから憑《つ》きものが落ちたようになって、その場が治まった。  貴妃の亡骸《なきがら》は、駅の館から遠からぬ原野の土中に葬られた。  蜀へゆく街道から少しはずれた場所にある小さな丘の裾であるという。  この後、玄宗皇帝は、無事に蜀へとたどりつき、そこで一年余りを過ごした。  安禄山は、洛陽の都において失明し、なお、疽《そ》をわずらった。  嬖妾段《へいしょうだん》氏が、そのおり、子を産んでいる。安禄山は、太子|慶緒《けいちょ》に替えて、その子を太子にしようと計ったが、その企てが慶緒に知れて、逆に慶緒に殺されている。 『新唐書《しんとうじょ》』は、それを次のように伝えている。 [#ここから2字下げ]  この夜、厳荘《げんそう》、慶緒とともに、兵を持して門外に立つ。猪児《ちょじ》、帳下《ちょうか》に入り、大刀を以ちて禄山の腹を切る。禄山、枕旁《ちんぼう》の刀を把れども振ひ得ず。柱にすがって曰く「家賊なるべし」と。腸|俄《にわ》かに破れ、遂に牀上《しょうじょう》に死す。年五十余。 [#ここで字下げ終わり]  玄宗が、再び長安にもどったのは、至徳《しとく》二年の十一月のことである。  玄宗は、都へもどると、貴妃の屍体《したい》を改葬しようとしたが、周囲に反対する者があって、これを思いとどまったと言われている。  以上が、空海が知った、史書に書かれていることであった。  その馬嵬駅は、もうじきであった。        (二) 「なあ、空海よ」  逸勢が横を歩いている空海に声をかけた。 「お幸福《しあわせ》であったのかな?」  いつになくしみじみとした口調である。 「何がだ?」  と、空海は言った。  空海は、歩きながら見るともなく、淡い野面《のづら》の緑を眺めている。 「だから貴妃の楊《よう》玉環がだ——」  道々に、空海は、自分が調べたことを逸勢に語っている。その物語に、逸勢は何か思うところがあるらしい。 「どうであったろうかな」 「貴妃といえば、栄華の極みを味おうたわけであろうが——」 「うむ」 「しかし、あのような死に方をするのであってはなあ」 「あのような死に方をしなかったとしたらどうなのだ」  問われて逸勢は、 「むうむ……」  首をひねった。  しばらく口の中で唸《うな》ってから、 「やっぱりおれにはわからんな。おれのことではないからな。おれは、おれ自身のことでさえ時々わからなくなるというのに、ましてや、身分も違う、男でもない女のことは、よくわからん——」 「ふうん」 「なあ、空海よ。あの国にいる時、おれは、不幸な男だったよ。心の中には、いつも、不平や不満があった。自分の才をひけらかしたくてたまらず、そのくせ、本当におれの才を理解できる人間なぞ、この世にはおらんと考えていた——」 「——」 「あの国で、おれは、不幸だったよ……」 「——」 「唐土なればと、ここへ来るまでは、そんなことも考えていたが、来てみれば、己れの卑小さに気づかされるばかりだ。おれほどの才能は掃いて捨てるほどもいる。思い出すのは不幸であったはずの日本のことばかりよ。しかし、今が不幸なのかというと——」 「どうなのだ」 「よくわからんのだ」 「——」 「わからぬが、しかし、空海よ、おれはおまえに会えてよかったと、本当にそう思っているよ。少なくとも、おまえという人間を知っている分、おれは、あの時より幸福と言えるかもしれぬな——」 「——」 「おれは、思うのだがな、空海よ。貴妃も幸福ではあったろうさ。不幸せでもあったろうさ。人の中には、いつも、そのふたつが棲んでいるのではないか。銭のことを考えればわかる。銭があれば、生活のいらぬ苦労がなくなるかわりに、こんどはその銭が失くなることを心配せねばならぬ。愛しい女子《おなご》と添《そ》うのは嬉しいが、長くいれば、またどちらかの気持ちも移ろうてゆこう」 「うむ」 「誰ぞの一生が、不幸であったか幸福であったかなぞ、なかなか、わかるものではない」  空海にというよりは、逸勢は、自分に向かって独言しているようであった。 「しかし、それでも、人というものは、幸、不幸ということを考えてしまう」 「楊貴妃どのか……」 「うむ」  うなずいて、逸勢は黙《もく》した。  黙して、春の野を歩いてゆく。  その逸勢に、 「なあ、逸勢よ——」  と、空海が声をかけた。 「もしかしたら、おまえ、おれなどよりずっと良い漢《おとこ》であるのかもしれぬな」 「空海よ、それは、おまえは馬鹿だと言われているような気もするぞ」 「いやいや、言葉通りのことだ」 「良い漢か」 「うむ」 「素直に喜んでよいか」 「よい。おまえは良い漢だ」  逸勢は、ふいに子供のようにはにかんだ表情をしてみせ、 「もうよせ、空海」  真顔になって言った。 「もう充分に喜んだ」  逸勢は深く吸い込んだ息を、あらためて、しみじみと吐き出した。        (三)  坂は、思いの他、急であった。  土を掘って、階段状にし、雨で土が流れぬように、切った丸太でその土の階段を押さえている。  しかし、その階段の半分以上が、壊れていた。雨で、土と丸太が流されてしまっているのである。  その道を、空海と逸勢が登ってゆく。  槐《えんじゅ》の森だ。  萌《も》え出したばかりの、淡い新緑が、階段を登ってゆく、空海と逸勢の上にかぶさっている。  午後の陽差しが、その新緑にあたってきらきらと光っている。  その下の、木漏れ陽の中を登ってゆく。 「貴妃の墓所《ぼしょ》というても、特別な装いをしてるわけではないのだなあ」  逸勢が言う。  そこらの山道よりは、いくらかましといった程度の道であった。  貴妃とはいえ、�賊根�として殺された女の墓所である。そうそうは、派手なことはできない。  途中、足を止めた逸勢が、横手の空海を見やり、 「おい……」  低く声をあげた。 「あれが聴こえるか」  と、そう言った。  もちろん、しばらく前から、それは空海の耳にも届いていた。  それは、人の声であった。  男の声——それが、何か、呪文のようなものを、低い声で唱えているらしい。  その声が、上方から、途切れ途切れに聴こえてくるのである。 「人の声だ」 「ああ、そうだな」  と、空海が答える。  それは、どうやら、何かの詩句のようであった。上にいる男は、詩を唱えているのである。だが、それは、声が小さく、吟じているのではなく、途切れ途切れであり、唱えられる詩句も一定していない。  繰り返し、繰り返し、同じ箇所を唱えたりもする。  何やら覚えのある詩句であった。   漢皇重色思傾国   御宇多年求不得  その声を聴きながら、空海は、ゆっくりとまた歩き始めた。  その後方に、逸勢が続く。  上へ、着いた。  上といっても、丘のてっぺんではなく、斜面の途中である。  そこの樹が切り倒され、整地されて、小さな広場になっていた。  その広場の真中あたりに、ひとつの碑《ひ》が建っていた。  黒っぽい、御影石《みかげいし》でできたその表面に、 �楊貴妃墓�  と、刻んである。  その、墓の前に、ひとりの男が立っていた。  その男は、墓石の前で、ある時は墓石を見つめ、またある時は、周囲の槐《えんじゅ》の樹や梢に眼を向けたりしながら、口の中で詩句をつぶやいているのであった。  逸勢と、空海が登ってきたことにも、気づいている風はない。  槐の梢を抜けてきた木洩れ陽と影とが、半々に、そこにそそいでいた。  男は、墓の石に、愛しいものを愛撫でもするように手をあて、その感触を味わっているようであった。  墓の横に、大きな岩が、地中から顔を出していた。  男は、疲れたのか、その岩の上に腰を下ろして、墓を見つめながら、重い溜め息をついた。哀しみとも、傷《いた》みともつかない、深い苦悶《くもん》の表情が、男の顔にたち現われてきた。  ちょうど、男の顔の上に、光の斑が、影を落としていた。それが、一瞬、男を哭《な》いているようにも見せた。  しかし、もちろん、男は泣いているわけではなかった。  空海と逸勢は、自然に、男から姿が見えぬよう、槐の幹の陰に立っている。  やがて、男が、静かに、またあの詩句を、低い声で呪文のように唱えはじめた。   漢皇重色思傾国   御宇多年求不得  その時、空海が、幹の陰から足を踏み出し、   楊家有女初長成  男の詩句の続きを口にしながら、男に向かって歩き出した。  男は、驚いたように顔をあげて空海を見た。 「養在深閨人未識……」  空海がその詩句を口にすると、 「天生麗質難自棄……」  と、男がつぶやいた。  男は、眼の前に立った空海を見つめ、 「あなたは、どうしてそれを御存知なのですか。今、あなたが口にしたそれは——」 「まだ完成してない詩の一部だとおっしゃりたいのですか」 「いや、そうです。その通りです」 「あれだけ、ここで独り言のようにつぶやいておられれば、誰でも覚えてしまいますよ」 「いや、誰もここには来ないものと考えておりました」  男は言った。  男は、色白の、どこかやつれたところのある顔をしていた。  どちらかと言えば、面《おも》だちも、身体つきも、痩せている。どこか危《あやう》げな、黒い瞳を持っていた。  そのくせ、ひどく情根のこわい[#「こわい」に傍点]ものを、その心の裡《うち》に秘めているような、そういう唇のかたちをしていた。 「すみません、お邪魔でしたか、白《はく》さん——」 「それは、わたしの名だ。どうしてそれを」 「いや、驚かしてすみません。あなたのお名前は、�胡玉楼《こぎょくろう》�の玉蓮姐《ぎょくれんねえ》さんからうかがいました。�胡玉楼�では、よく、墨と筆を用意させて、詩をお書きになるとか。その時、書き損じて、お部屋にお捨てになられていったものを、先日拝見させていただきました、それが、今、白さんがつぶやいておられた詩ですよ」 「おう……」 「申し遅れましたが、わたくしは、倭国《わこく》からやってきた、留学僧《るがくそう》の空海と申します」 「おお、それでは、あの玉蓮の腕を、治された方ですね」 「はい」 「あなたのことは、玉蓮からうかがったことがあります。それにしても、ずいぶんと唐語がお上手だ。唐は長いのですか」 「いえ、まだ、やってきて七カ月ほどでしょう」 「あなたの唐語は、我々と同じです」  そこへ、橘逸勢がやってきて、空海の横に並んだ。 「わたくしの友人で、やはり倭国から来た、橘逸勢という留学生です」 「橘逸勢です。儒学を学んでおります」 「わたしは、白、白居易《はくきょい》といいます」 「あなたの詩を、もうひとつ、読ませていただきましたよ。白楽天《はくらくてん》作の�西明寺《さいみょうじ》の牡丹《ぼたん》の花の時、元九を憶《おも》う�——」  と、空海は、その詩の題を口にした。 「あれをお読みになったのですか」 「今、私と逸勢は、西明寺にいるのですよ」 「志明《しみょう》ですね。西明寺の志明が、あなたにあれを見せたのですか」 「はい」  空海がうなずくと、白居易——白楽天は、溜め息をついて上を見あげた。  何か、深く思うところがあるらしい。  空海と逸勢は、白楽天がそれを口にするのかと、しばし黙して待ったが、白楽天は、その想いを口にはせずに腹の底に呑《の》み込んだようであった。 「しかし、何故、倭国の方が、このようなところへいらしたのですか」  白楽天が、想い出したように訊《き》いた。 「いえ、昔日の佳人の墓所を、急に見たくなりまして——」 「昔日とは言っても、まだ、ほんの四十九年前のことです」  白楽天が言った通り、すでに、楊貴妃がこの場所に葬られてから、四十九年の歳月が過ぎ去っている。  空海も、逸勢も、すでに玄宗皇帝と楊貴妃については、そこそこの知識を持っている。 「実を申しあげますと、あなたに教えていただいた、李白翁の�清平調詞《せいへいちょうし》�ですよ。あれを読んで、急にここへやって来ようという気になったのです」 「ほう……」 「楽天さんは、どうしてここに。あの二日前の晩には、我々と同じように胡玉楼にいらしたのではありませんか」 「同じですよ」 「同じ?」 「わたしも、あなたに見せられた�清平調詞�で、貴妃のことを思い出してしまい、それで、急にここへ来る気になったのです。身分は秘書省の一|官吏《かんり》ですから、出世さえ望まねば、こういうこともできるのです」 「もともと、貴妃に興味をお持ちで——」 「いえね、ちょっと思うところがありましてね。時々、こうやって、楊玉環に関わりのあった土地へやって来るのですよ。あなたがたも、玄宗と貴妃の物語に興味をお持ちで——」 「はい」  空海が答えると、白楽天は、また、深い溜め息をついた。 「ほとぼりが冷めたせいか、世間では、これを、哀しい美的な恋の物語にしたてあげようとしているようです」 「そのようですね」 「それはねえ、少し、違うのです。いえ、だいぶ違います」  白楽天の声が急に大きくなった。  内部にある何かえたいのしれない、高ぶりを、白楽天がふいに見せたようであった。 「違うのですよ」  と、白楽天は言った。 「何がですか?」 「哀しい恋ではあったのかもしれませんが、それは、美しいものではなかった。美しいというなら、かの項羽《こうう》どのが、その最期に、虞美人《ぐびじん》を己《おの》が剣で切り殺したという、あれこそが美しいというのです。己が身が切られるような哀切感と、潔《いさぎよ》い美があります。その時の項羽どのの、自らの腹わたを、己が手で掴《つか》み出すような、火を吹くような哀しみと苦悶も、わたしにはわかります。自分が死ぬ身であったればこそ、できたことでしょう。しかし——」 「貴妃と、玄宗皇帝のことはわからないとおっしゃるのですか——」  空海が問うと、詩人は、微《かす》かに首を左右に振った。 「違うのです。項羽どのと虞美人の場合は、その美が、そこで、美しく完結しているのです。もはや、それ自体が、一編の詩といってもいい——」 「——」 「そこに、わたしの出る幕はありません」 「貴妃と玄宗皇帝の物語なら——」 「わたしの出る幕があるかもしれません。玄宗は、貴妃を殺さねばならない時に、じたばたと迷いぬき、おろおろと皆に貴妃の弁護をし、そのあげくの果てに、よいですか、我が身を生きながらえさせるために、つまり、保身のために、貴妃を殺すのです。しかも、項羽のように、自分の手でやったのではない。宦官の高力士にそれをさせたのです。なんという滑稽《こっけい》、なんという見苦しさ……」 「——」 「しかし、わたしは、妙に、そのあたりの人間臭いものが好きなのです。気にかかるのですよ。ここになら、わたしの出る幕があるかもしれない。いや、あるのですよ。わたしの、この胸の中に、この腹の中に、それはあるのです。苦しいくらいにあるのですよ——」  詩人の声が、大きくなっていた。 「——しかし、わたしは、それを言葉にできないのです。わたしは、それを、どういう物語にしていいのかわからないのです」 「貴妃と玄宗皇帝の物語を、詩になさろうとしているということですか」  空海が問うと、ふいに、白楽天が口をつぐんだ。  憑《つ》きものが、落ちたような顔になった。 「いや、少し、しゃべりすぎたようです」  と、白楽天は真顔になって、立ちあがった。 「すみません、楽天さん。お急ぎでなければ、少しおたずねしたいことがあるんですが——」 「何でしょう?」 「貴妃が、高力士に首を締められて殺された時、その首に巻かれた布は何であったのでしょう——」 「絹ですよ」  白楽天が言った。 「絹!?」  声をあげたのは、逸勢であった。 「さらしであったという説もありますが、わたしは絹であったという説をとります。しかし、絹がどうかしたのですか」 「いえ、それからもうひとつお訊ねしたいのですが、あの、李白翁の�清平調詞�は、実際に、貴妃が踊られたのですね」 「見たわけではもちろんありませんが、そうであったと思いますよ」  白楽天は言った。 「どのような踊りであったかは——」 「わかりません」  言った後で、いぶかしげな顔で、白楽天は空海と逸勢の顔を見つめ、 「なにか、貴妃のことで、わたしの知らぬことを御存知のようですね」 「もし、お時間があれば、色々お話をしたいのですが、今夜はどちらにお泊まりですか」 「馬嵬駅の飯店《はんてん》に泊まろうかと」 「我々もそこに泊まりますので、その話は、今夜にでもいかがですか——」 「それは、ぜひ」 「ところで、楽天さん、今、あなたが座っておられた石ですが、前からここに?」 「そうですね、わたしは、昨年も二度ほど、三月と、五月にここには来ているのですが、この石はここにあったようですね。ああ、しかし、そうですね、もしかしたら、この石は、少し低くなっているかもしれません。座った感じが、以前と違うようです」 「低くなった、というより、地面の方が高くなったと、そういう風には考えられませんか——」  と、空海は、石の周囲の地面を指差した。 「この石の周囲、というよりは、貴妃の墓の周囲の土の色——感じが、他と少し違うように思えませんか」 「なるほど、そう言われてみると、そうですね」 「空海よ、おまえ、何が言いたいのだ」  逸勢が言った。 「楽天さんがここに来た、昨年の五月以降に、墓どろぼうか誰かが、貴妃の墓を掘ったかもしれないということだ」 「なに!?」 「その時掘り出した土が、この、少し色が違う分だろう」 「とんでもないことをいう」 「おれだって、そう思ってるさ。半分はまさかと思って来てみたのだが、ここはひとつ、そういうことも、はっきり考えに入れねばならなくなったようだな」 「何を言っているのだ、空海——」  逸勢の言葉を、空海は聴いているのか、いないのか。  碑に触れたり、その周囲を歩きまわって、地面に腹這いになって、地に手をあてたりしながら、独りでうなずき、溜め息をつく。  それを、白楽天と、逸勢が見つめている。  やがて、空海は、ふたりの所へもどってきた。 「決めたぞ」  空海は言った。 「決めた?」 「うむ。今夜ここを掘ってみる」 「掘るだって!?」 「掘るのですか!?」  逸勢と、白楽天が、同時に口にした。 「掘る」 「見つかれば、たいへんなことになるぞ」 「見つからぬさ」  空海は、平然と言った。 「もし、見つかったとしてもだ。我らには大義名分がある」 「それは何だ?」 「天子《てんし》さまを、お守りするという大義だ」 「楽天さん。あなたも、今夜、ご一緒にいかがですか」 「墓を暴《あば》くのにですか?」 「そうです。これまでのことについては、今夜の食事のおりにでも、ゆっくりお話しします。その話に興味を持ったら、今夜、ご一緒にいかがですか?」  空海が言うと、 「わかりました。とにかく、お話をうかがって、その上で——」 「おい、空海、おれはな——」  逸勢はそこまで言いかけ、言うことの無駄を覚り、口をつぐんだ。 「勝手にしろよ、もう。空海、おれは知らんぞ。本当に何があってもおれは知らん——」        (四)  空海、橘逸勢、白楽天の三人が、馬嵬駅《ばかいえき》の飯店を出たのは、皆が寝静まってからであった。  月夜であった。  綺麗《きれい》な半月が、空に浮かんでいる。  風が出ていた。  その風に、片々《へんぺん》と空に浮いた雲が東へ流れてゆく。  その月が、時おりその雲に隠れ、また現われる。空を駆けるけものの群が、次々に雲を呑み込んでは、また、吐き出しているように見える。  街道を、西へ——  昼に比べて、風は冷たい。  それぞれが、近くの農家から借りてきた鍬《くわ》を肩にかついでいる。  月明りで、道は充分すぎるほどによく見える。 「おい、空海よ」  逸勢の声は、興奮のためか、心もち震えを帯びている。 「本当にやるつもりなのか」 「やるつもりだ」  と、空海は、無造作に答えた。  空海の横に並んでいる白楽天の緊張は、逸勢以上である。  白楽天——白居易は、役人である。  秘書省の官吏だ。  その官吏が、こともあろうに、貴妃の墓を暴こうというのである。  見つかれば、首が飛ぶ。  白楽天がその気になったのは、空海から聴かされた話に、たまらぬ興味を覚えたからである。  劉雲樵《りゅううんしょう》の屋敷の妖物の話。  徐文強《じょぶんきょう》の畑のあやかしの話。  しかも、このふたつは、どこかでつながっているらしい。  劉雲樵の屋敷に出た猫の妖物は、徳宗《とくそう》皇帝が倒れる日を予言し、徐文強のあやかしは、徳宗の息子である李誦《りしょう》が倒れる日を予言した。  しかも、そのふたつの予言は、みごとに事実を言いあてたのである。  そして、猫が憑《とりつ》いた劉雲樵の妻は、�清平調詞�の詞を自ら口ずさみながら、かの楊貴妃が舞ったのと同じ曲を舞ったという。 �絹の布よ。この絹の布で、あんたをくびり殺してやるわ。絹はとてもよく締まるのよ�  妻は、夫の雲樵に、そう言ったという。 �あなたは、あとですぐに掘り出してやるからといって、わたしを埋めて、何年も土の中に放っておくなんてこと、しやしないわね�  これらのことの中に含まれるもの。 �清平調詞�と舞い。  絹の布で首を締めたこと。  女が、埋められたらしいということ。  このどれもが、楊貴妃と無関係ではない。  それへの、あふれるほどの好奇心がふたりにはある。  その好奇心で、顔がだらしなくふくれあがっているのではないかと考えているのか、白楽天は、ことさらに表情を顔に出さない。  それに、白楽天という男そのものが、このようなこと——深夜に佳人の墓を暴くという行為を、どうやら、その心の深い部分ではおもしろがっているらしい。  白楽天が、この企てに参加したことの、もうひとつには、空海の存在というものがある。  白楽天は、倭国から来た、この留学僧に、妙な興味を覚えているらしい。  磁場に引き込まれるように、空海の誘いにのってしまった。  しかし、官吏という自分の立場もわかっている。好奇心もあるが、これからやろうとしていることが、どれほど大それたことかもわかっている。白楽天は、そのふたつの思いに心を悶えさせつつ、自分の内部に緊張を溜めているのである。 「おまえが、何故、貴妃どのの墓を見に、馬嵬駅までゆこうと言い出したのか、今はおれもわかっているが、ここまでやらねばならぬのか——」  逸勢が言う。 「やらねばならぬということはないが——」  空海が答える。 「ここまできたら、やらねばならぬだろうな」  空海が言った時、ちょうど、楊貴妃墓の丘の前に着いていた。        (五)  下から見上げると、夜の天空で、槐《えんじゅ》の枝が、風に、ざわり、ざわりと鳴っている。 「むむ——」  と、思わず逸勢が声を洩らす。 「怖いのか、逸勢——」  空海が倭国語《わこくご》で声をかけると、 「怖くはない」  逸勢が、やや怒ったような口調で答えた。 「あまり、いい気分ではないだけだ」  逸勢が言ったその時、 「おい、おまえさんたち、そりゃ、倭国の言葉だな」  登り口に近い槐の樹の陰から、ひとりの男が出てきた。  さらに、その後方から、ふたりの男が姿を現わした。  三人の男が、空海たち三人の前に立ち塞《ふさ》がった。  屈強そうな男たちであった。  いずれも、腰に剣を下げている。  兵士でも役人でもない。  飯店の一階の酒楼《しゅろう》でたむろしているような、ごろつきの男たちであった。 「そちらの坊主が西明寺の空海、そっちが、橘逸勢だな」  ひとりの男が、睨《にら》むように空海と逸勢を見つめながら言った。 「鍬《くわ》を持って、何をしようってんだ。墓荒しでもやろうってのかい」  その男が、空海たちが持っている鍬に眼をやった。 「もうひとりいるぜ。どうやらこっちは唐人みてえだが——」  別のひとりが言った。 「ひとり増えたって、どうってこたあないさ——」  もうひとりが、そう言って唾《つば》を吐いた。 「何の御用ですか?」  空海が、怖《おそ》れた風もなく、なめらかな唐語で訊ねた。 「ちょっと、痛い目をみてもらいたいんだよ」  男たちのひとりが、腰から剣を抜いた。  続いて、残りのふたりも、剣を抜き放った。  月光に、刃の鋼《はがね》が触れて、冷たい光を放った。  逸勢は、声をあげそうになったが、それをこらえ、腰に差していた脇差《わきざし》を抜いた。  倭国から持ってきたものであり、逸勢が常に身につけているものだ。 「危ないぜえ、そんなものを出すと。おとなしくしてれば、手か足を一本失くすだけですむところを、生命まで失くすことになる」 「この男たちは、本気だ。気をつけろ、逸勢——」  空海が、そう言った時、 「おまえたち、おれの先生に何をする気だね」  男たちの後方から声がかかった。  男たちが、驚いて後ろを振り返った。 「誰だ!?」  男たちの動きに合わせ、月光の中で、しらしらと刃が動く。  そこに、巨大な人影が、ぬうっと天から降りてくる月光を塞ぐようにして立っていた。  ほれぼれするほど、大きな男だ。 「大猴《たいこう》!」  逸勢が声をあげた。  そこに立っていたのは、蓬髪《ほうはつ》を、無造作に頭の後方で束ねた、長安にいるはずの大猴であった。 「空海先生、こいつらを、やっちまってもいいのかい」  大猴が訊いた。 「かまわないが、しかし、口が利《き》ける人間を残しておいてくれ」  空海が言い終らないうちに、大猴は、一番近い所にいた男に襲いかかった。  男が、慌《あわ》てて、大猴に向かって剣を打ち下ろすのを、大猴は、右手で受けた。  がつん、  という、金属と石とがぶつかる音があがった。  大猴が、右手の中に石か何かを握っていて、それで、剣を受けたらしい。  大猴は、左手で、剣を握っている男の右手首を握り、右手の中に握っていた石で、ごつん、と男の頬を横殴りに叩いた。  男は、声もあげずに、大猴の足元に崩れ落ちた。  大猴の左手に、男が持っていた剣が握られていた。 「お、おまえ、よくも」  残ったふたりは、大猴を睨み、剣を構えて大猴の隙《すき》をうかがって、その周囲をまわり出した。 「次は誰だい?」  大猴は、息も乱さずに、男たちに声をかけた。 「来ないんなら、おれが選ぼうか——」  大猴が足を踏み出すと、ふたりが、それにつられたように、左右から襲いかかってきた。  右から来た男に向かって、大猴は、ひょい、と、無造作に、持っていた石を投げつけた。  大人の拳《こぶし》より、ひとまわりは大きい石が、男の剣をはじいて、男の顔面に正面からぶつかった。  いい音がした。  その男も、そのまま、地に倒れ伏した。  もうひとりの男が打ち下ろしてきた剣を、大猴は、持っていた剣で、横にはじいた。いくらも力を込めたようには見えないのに、はじかれた剣は、大きく横へ流れ、男の身体がよろめいた。  その首を、大猴の左手が伸びて、鷲掴《わしづか》みにした。  男は、剣をとり落として、自分の喉《のど》をしめつけてくる大猴の左手に両手をかけた。しかし、大猴の片手は、男の両手をもってしてもひきはがせない。 「よかったなあ、口が利けるのは、おまえのようだぜ」  その時には、男の両足は、半分宙に浮いて、爪先だけが、地面にかろうじて触れているだけの状態になった。呼吸ができないらしく、男の顔がたちまちふくらんで、眼が飛び出そうになった。  大猴が、男の足を地面に下ろし、手の力を緩めてやると、男は、音をたてて息を吸い込んだ。 「助かったよ、大猴」  空海が言った。 「大猴、凄いぞ、おまえ!」  逸勢は、自分が闘ったばかりのように、呼吸を荒くして、賛嘆の響きのこもった声で叫んだ。 「お知り合いですか——」  白楽天も、ほっとした声で言った。 「大猴といいます。後ほど、ゆっくり、あらためて御紹介しますが、こんどの件では、この大猴に、色々働いてもらっているのですよ」 「わたしは、剣を持って争うというか、そういうことが苦手で、一時は、どうなるかと思いましたよ」  白楽天は、地面に転がって、声もたてずに気絶している男たちを見下ろしながら、言った。  ひとりの男は、顎《あご》がひしゃげ、ひとりの男は鼻が潰《つぶ》れて前歯の半分近くが折れてしまっている。 「このふたりは、当分は気がつかないよ」  大猴が言った。 「ところで、大猴、どうしておまえがここにいるのだ」  空海が訊いた。 「いえね、二日前の昼近くだったかな、空海先生が長安を出た日のことですよ。おれが、あの道士の家の前を見張っているとね、この男たちが、あの家の中に入っていくじゃありませんか——」 「うむ」 「見た通り、胡散臭《うさんくさ》い連中なんで、ほんとうは、家の中に潜《もぐ》り込んで、色々こいつらの話を聴き込もうとしたんですけどね」 「潜り込んだのか?」 「潜り込みませんでした。空海先生から、あの家には近づくな、遠くから見ているだけでいいからと言われてましたからね」 「それはよかった」 「でね、この男たちが、しばらくして出てきたんですよ。懐具合がよさそうな面《つら》をしてね。それで、どうも、これは何かあるなと思って、この男たちの後を尾行《つ》けてみたんですよ」  大猴は、自分が喉をつかんでいる男に、言い聴かせるように言った。 「そうしたら、案の定というか、平康坊《へいこうぼう》にある�妙薬《みょうやく》�という酒楼に、こいつら潜り込んだんですよ。金が入ったら、だいたい考えることは、酒と喰いものか、女なんだから——」 「それで?」 「おれは、とぼけてね、こいつらの後ろの椅子に腰を下ろして話を聴いてたんですよ。そうしたら、空海先生の名前が出てきたじゃありませんか——」  大猴の話では、男たち三人は、酒を飲みながら、だいたい次のような話をかわしていたというのである。 「ようするに、西明寺にいる倭国の人間ふたりを、馬嵬駅まで追っかけりゃ、いいんだろう」 「空海という坊主と、橘逸勢という儒生《じゅせい》だ」 「しかし、倭国の人間が、何だって馬嵬駅までゆくんだ」 「そんなことまでわかるか。とにかく、話としたら、どうというこたあない。あいつらが、貴妃の墓に、何かちょっかいを出そうとしたら、襲って腕の一本も叩き切ってやりゃあいいのさ」 「場合によったら、殺しちまってもいいと言ってたな」 「ああ。しかし、そのちょっかいというのはどういうことなんだ?」 「墓荒しだよ」 「墓荒し? 何か、金目《かねめ》のものでも埋まってるのか?」 「埋まっちゃいねえよ。埋まってたとしても、とっくに誰かが掘り出しちまってるよ」  それで、大猴は、空海たちに、危害が及ぼうとしているのを知ったのであった。 「でね、その場で、こいつ等を張り倒して話を訊いてもよかったんですがね、それだと、その後、この場でどうとりつくろおうかというのがわからなくてね。ま、とにかく、こいつらの後を尾行《つ》けていって、いよいよとなったら、自分が飛び出してゆけばいいと、勝手にそう決めて、こいつらの後を追っかけてこの馬嵬駅まで——」  来てしまったんでさ——と大猴はいうのである。  男たちと大猴が馬嵬駅に着いたのは、この日の夕刻であった。  飯店に空海たち一行が宿をとっているのを知り、さぐっていると、密かに鍬などを手に入れている様子である。夜、人が寝静まった頃に、飯店を抜け出して、�墓荒し�にゆくつもりらしい。  それならと、男たちは先まわりをして、ここで空海たち一行を待っていたということのようであった。 「何故、すぐ我らに知らせに来なかったのだ?」  逸勢が、大猴に訊いた。 「そうして、空海先生が墓荒しをやめたら、こいつらが、空海先生を襲うのをやめてしまうじゃありませんか。そうなったら、こいつらを締めあげて、話を聴き出そうってわけにはいきません」 「——」 「それに、危ないってところで、おれが飛び出した方が、ありがたみがあるでしょう」 「こら、おかげで、危うくもう少しで、おれは、剣で切られるところだったぞ」  逸勢が、軽く怒ってみせた。 「まあ、待て逸勢。ともかく、大猴のおかげで我等は無事だったのだ。それよりも、この男に、何で我々を襲ったのか訊いてみようじゃないか」  空海が言った。 「おい、聴いていたろう。どうなんだ?」  男の喉と顎にかかっていた大猴の指に力がこもった。みしり、と、顎の骨が軋《きし》み音をあげた。  男は、口を半開きにして、息を吸い込もうとしているらしいが、空気がまるで男の肺の中へ入っていっていないのは明らかだった。 「それじゃあ、言いたくても言えないな。少しゆるめてやったらどうだ」  空海の言葉に、大猴が、指にこもっていた力をゆるめると、男は、夢中で、貪《むさぼ》るように息を吸い込んだ。 「さあ、言え」  大猴が言った。 「た、頼まれたんだ……」 「誰に?」  訊いたのは空海である。 「お、女だ」 「女?」 「あの屋敷に住んでる女だ。綺麗な女だったよ。どうも、漢人じゃない人間の血が混じってるみたいだった」 「麗香《れいか》と言わなかったか?」 「な、名前は知らない。言わなかったんだ」 「どうして、あの女のことを知った?」 「ね、猫だ」 「猫?」 「おれたちが、金がなくて、酒楼の前でうろうろしてると、黒い猫が一匹、やってきたんだ」 「ほう……」 「猫は、酒の入った瓢箪《ひょうたん》を咥《くわ》えていた。それを、猫がおれたちの前に置いて——」  飲め——  そう、猫が言ったのだという。 「おれたちは、驚いたよ。猫が、どうして口を利くのかってな。ひとりが、瓢箪を拾って開けてみると、中に酒が入ってた」  男たちは、その酒を、猫の前で飲んだ。  すると、猫が、 �もっと酒が欲しくはないか�  そう訊いた。 「欲しい」  と、そう答えると、猫は、 �酒はもうやらぬが、金をやろう。いい儲《もう》け仕事がある。酒を飲みたくば、儲けたその金で酒を買え�  そう言った。 「それで、猫が、あの屋敷のある場所を教えてくれたんだ。言うだけ言うと、猫はすぐにいなくなった。おれたちは、とにかく、猫が言っていた屋敷まで行ってみることにした。それで——」 「あの屋敷で、女に会ったのだな」  空海が訊いた。 「そ、そうだ」 「女は何と言った」 「それは、さっき聴いた通りさ。西明寺の空海と橘逸勢が、馬嵬駅へむかっている。楊貴妃の墓に悪さをしようとしているらしいから、ふたりがそうしようとしているのがわかったら、脅してやってくれと言うのさ——」  腕の一本くらいは、切るなり折るなりしてもいい。それだけで、充分、ふたりにはわかるだろうからと—— 「何がわかると?」 「楊貴妃のことに、かまわぬ方がよいということがわかるのだと……」 「ついでに、場合によっては、相手の生命を亡《な》きものにしてしまうことがあっても、それはそれでかまわんとでも言ったかよ」  逸勢の問いに、男はうなずいた。  男に、逸勢は何か言いたそうにしたが、先に口を開いたのは空海であった。 「ところで、あの屋敷で会ったのは、女だけだったのか」 「そうだ」 「他には、誰かいなかったか」 「いない」 「いるような様子は?」 「独り暮らしには見えなかったよ。おれたちが入ったのは、ごく普通の部屋だったが、奥の方の部屋が、ちょっとかわっていたよ」 「どんな風に?」 「厠《かわや》へ行くつもりでね、こっちの方だろうと勝手に見当をつけて、厠はこっちかって奥の方へ行こうとしたら、慌てて女が追っかけてきて、そっちは違うって——」 「それで——」 「その時に、奥の部屋がちょっと見えたんだ。炉のようなものが置いてあったり、胡風《こふう》の祭壇《さいだん》みたいなものがあったよ」 「ほう」 「それから、でかい、俑《よう》が置いてあったな」 「俑!?」 「ああ、そうだ」  俑というのは、人型《ひとがた》の像のことである。  陶《とう》——つまり、焼きものであったり、木製の人形であったりする。殉死者《じゅんししゃ》のかわりに、王や皇帝の墓に、王や皇帝の屍体と共に埋められたりした。 「でかい俑だったよ。おれなどより、ずっと大きかった。兵俑《へいよう》だな。その俑は戦袍《せんぽう》(軍服)を身につけていたからな」  男は、それ等の言葉をなめらかに口にしたのではない。  常に、大猴の指が、喉と顎にかかって力が込められているから、荒い呼吸と共に、しゃべったのである。  男が言いよどむと、大猴が力を込める。  すると、男がしゃべり出す、といった具合であった。  それからも、空海は、しばらく男に問いかけたが、特別に新しいことは、もう、男の口からは出てこなかった。 「よし、大猴、そろそろこの男を放してやろう」  と、空海は言った。 「いいんですか。あとで、色々とうるさいことを言われるより、三人とも、ここで、埋めちまいましょうか」  あっさりと、大猴が言った。  男が、くぐもった悲鳴をあげた。 「いやいや」  と、空海は首を振り、 「聴きなさい」  と、男に声をかけた。 「女にたぶらかされましたね。我々は、内密に、天子さまの御命令でここに来ているのです。今聴いたおまえの話はたいへん興味深かった。だから、今回のことは不問にいたしましょう。今夜のこと、くれぐれも、他言は無用ですよ。もっとも、我々は、まだ何もしてはおりません。ここで、たまたまあなたと会っただけのこと。あなたは、何か言うにしても、我々が何もしていなかったということを言うしかないということです」 「わ、わかった」  男は、絶えだえの声で言った。  放してやりなさい、と空海が眼で合図をすると、大猴は、ようやく男を放した。  男は、慌てて、落ちていた剣を拾いあげ、倒れている男たちを、蹴とばした。  ふたりの男は、それでようやく蘇生《そせい》した。  顔面はひどい有様になっているが、男たちの足や手は無事であった。  呻《うめ》きつつ、男たちは起きあがった。  ゆっくりと、男たちは、そこから姿を消した。 「さて——」  と、空海はつぶやき、 「我々は、我々の仕事を続けましょう」  そう言って、白楽天を見やった。 「いかがですか、白さん。お気持に変化があれば、ここからお帰りになるのもかまいませんし、ここで待っていていただいても結構です。しかし、もし、気持が萎《な》えておいででなければ、御一緒にいかがですか——」 「もちろん、御一緒させていただきますよ。ここまできて、引き返すわけにはいきません。そのかわり、後で、詳しい話は聴かせていただけるんでしょう?」  白楽天は、顔を、やや紅潮させて言った。 「もちろんですよ、白さん。お話しできることは、ちゃんとお話しするつもりです」  と、空海は言った。        (六)  灯りを、点《つ》けている。  炎が燃えている松明《たいまつ》を持った大猴を先頭に、槐《えんじゅ》の森の中を登り始めた。  槐の新緑の香りが夜気に溶けて、息を吸う度《たび》に、鼻孔にその芳香が届いてくる。  木《こ》の間隠《まがく》れに月は見えているが、さすがに森に入ると、灯り無しでは歩き辛かった。  それで、用意してきた松明に、火を点けたのである。  大猴の後ろが空海、その次が逸勢、最後が白楽天の順である。 「なあ、空海よ」  逸勢が、後方から、空海に声をかける。 「どうした?」 「おれはどうも、こうして歩いていると、いよいよ、深みにはまってしまったという気持が、しみじみとしてくるのだがね」 「ああ。はまってしまったな」  と、空海は、逸勢に言った。 「馬鹿。空海よ、おれは、おまえにそう言われたくて言ったのではないぞ。そんなことはない、心配するなと、おれは、おまえに言って欲しかったのだ」  逸勢の言葉に、空海は、楽しそうに笑った。 「おまえの性格が、おれはうらやましいよ」  と、逸勢は、鍬《くわ》を杖がわりにして登ってゆく。  と——  先頭を歩いていた大猴が、足を止めた。 「どうした?」  空海が声をかける。 「蟾蜍《ひきがえる》が……」  大猴が、横へ身体をずらした。  空海が、その横に並ぶ。  それは、確かに蟾蜍であった。  土の崩れた階段の途中に、一匹の蟾蜍が、二本の後肢で立ち、左右に突き出た眼で、空海たち一行を、睨みつけていたのである。  その蟾蜍は、大猴の持った炎の灯りに照らされて、体表のイボや、斑模様《まだらもよう》の浮いた黄色い腹を見せていた。  その腹や、背に、炎の赤い光が、てらてらと映っている。  しかも、なんと、その蟾蜍は、兵士のいでたちをしていたのである。  頭には、小さな兜《かぶと》をつけ、甲冑《かっちゅう》を身につけている。腰には、一本の剣を下げていた。  見ているうちに、その蟾蜍が、腰の剣を引き抜いて—— 「おまえたち、何をしに参ったか」  小さな高い声で叫んだのであった。 「貴妃どのの墓所へ——」  と、空海は言った。 「墓所へ行ってなんとする。墓荒しか!?」  蟾蜍は、剣を振った。 「帰れ」  そう言った。  すると、森の闇の中から、 「帰れ」 「帰れ」 「帰れ」  と、同様の声が響いてきた。  見ると、似たような蟾蜍が、森の中から、さざめくように姿を現わした。  身体が小さいため、声が極めて高い。  気をつけて聴かないと、  ちい、  ちい、  と、さえずるような声にしか聴こえない。  空海の後方にいた逸勢も、白楽天も、何ごとかと近寄ってきて、それを見た。 「く、空海、蟾蜍がしゃべったぞ」 「ああ、しゃべったな」 「どうなってるんだ」 「さて——」  と、空海はその蟾蜍を見た。 「蟾蜍どの、あなた方は何者でござりまするかな?」 「応」  と、蟾蜍は答え、 「我等は、この墓所の守りをおおせつかったもの」  そう言った。 「空海先生、面倒ですから踏み潰しちまいましょうか?」  大猴が、軽く前に足を踏み出すと、ふいに、ぐうっと、その蟾蜍が大きくなった。  もう一歩。  すると、蟾蜍どもがさらに大きくなり、猫ほどの大きさになった。 「や、やあ。これはどういうわけだ。こやつらめ、大きくなりましたぞ」  大猴が声をあげた。 「たぶらかされるな、大猴。いいか、こやつらとは、もう、決して口を利くな。口を利くのは、わたしがする」  空海は、そう言って、前へ出た。  右手を伸ばして、猫ほどの大きさの、その蟾蜍を、ひょいと掴んだ。  掴んでみれば、蟾蜍は、猫の大きさではなく、もとの大きさである。  左手で、空海が、蟾蜍の背から、何か、紙のようなものを、ひきはがした。  すると、蟾蜍が身につけていた鎧《よろい》や兜が、あっという間に消えた。  空海が、右手の蟾蜍を外に投げ出すと、やはりそれは、ただの蟾蜍であった。  その蟾蜍は、のそのそと森の中へ消えた。  空海は、そうやって、五匹の蟾蜍を、もとにもどした。  空海の左手に、六枚の、紙片が残った。 「何なのだ、その紙片は?」  逸勢が訊く。 「誰かが、この紙片で、蟾蜍に呪《しゅ》をかけていたのだよ」 「誰が?」 「さあて」  空海は、首を振った。  大猴と、逸勢と、白楽天が、空海の手の中の紙片を覗《のぞ》き込んだ。  文字が書かれていた。 「それを、ちょっと見せていただけますか」  白楽天が、手を伸ばして、その紙片を受けとった。 �身口意招魂《しんくいしょうこん》�  そう書かれてあった。 「これは——」  白楽天が問う。 「身口意は、仏教の言葉で、招魂とは魂を招くことですね」  と、空海は言った。 「これは、どうも、なかなかおもしろいことになってきたようだぞ」  と、空海は、階段の上方の闇を見あげた。  風が出てきたのか、頭上の闇の中で、ざわざわと、しきりに槐の梢がさわいでいた。 「さて、無事に上までたどりつけるか?」  他人《ひと》ごとのように空海は言って、微笑したのであった。        (七)  ようやく、上に着いた。 「おい、空海、着いたぞ」  逸勢の声が、緊張のため、こわばっている。  周囲は、槐《えんじゅ》の木立ちに囲まれて暗く、頭上では、その梢が、風に吹かれてざわざわと不気味にうねっている。  雲に呑み込まれ、また吐き出されるたびに、月光が、ほそほそと、梢を透して下まで降りてくるが、明りは、逸勢と大猴が手に持っている松明の他は、ないも同じであった。  風で、松明の炎が揺れるたびに、その炎が造っている影が、大きく揺れる。  互いの顔に浮いた影も、炎の動きと揺れに合わせて、動き、揺れる。 「大猴《たいこう》よ、そこが、貴妃どのの墓所《ぼしょ》だ」  と、空海が、大猴に、石碑の場所を示した。 「その碑の下を、少し、この鍬《くわ》で掘ってみてくれないか」  鍬を受け取った大猴が、その鍬を握って、碑を見あげた。  ちょうど、大猴と同じくらいの高さの、御影石の碑であった。 「空海先生、この碑の下を掘るには、この碑が邪魔だね、ちょっと、こいつを動かしてもかまいませんかね」 「いや、大猴、ちょっと、ちょっと待ってくれ」  そう言ったのは逸勢であった。  逸勢は、空海を見つめ、 「なあ、空海よ。墓をこれから暴《あば》こうというのは、おまえに何やら考えがあるようなので仕方がないにしても、仮にも、これは貴妃さまの墓所だぞ。しかも、おまえは僧だ。暴く前に、経のひとつもあげてやったらどうなのだ——」  そう言った。  言われて、空海、 「それもそうだ。いや、うっかり気がつかなかったが、おまえの言う通りだよ、逸勢」 「気がつかなかった!?」 「ああ。死者にとってはもう、経だの何だのと言うても、それは届かぬものなのだが、おまえがそれで納得するというのなら、生きている者のために、経を読むのも悪くはなかろう」  そう答えた。 「なに!? 死者にとって、もう、経は届かぬと言ったか、空海よ——」 「まあ、そうだ」 「本当にそうなのか」 「そうさ。経というのは、生きている者のためにある」  きっぱりと空海は言った。 「おまえの自信のありそうな顔を見ていると、なんだか、おれの方が間違っているかのような気になってしまう。何でもいいから、とにかく、経をあげてくれ——」 「逸勢よ、おまえの言うことが正しい。おれは時々、こういう俗事のことに疎《うと》くなる時があるのだ。いや、うっかりしていた」  空海と逸勢のやりとりは、日本語でかわされている。  この日本語のやりとりを、白楽天と大猴は、何事かといった体《てい》で聴いている。  そのうちに、空海が前に進み出て、貴妃の碑に向かって立ち、両手を合わせた。  空海の口から、静かに、低い韻律《いんりつ》がこぼれ出てきた。 [#ここから2字下げ] 観自在菩薩《かんじざいぼさつ》 行深般若波羅蜜多時《ぎょうじんはんにゃはらみったじ》 照見五薀皆空《しょうけんごうんかいくう》 度一切苦厄《どいっさいくやく》 舎利子《しゃりし》 色不異空《しきふいくう》 空不異色《くうふいしき》 色即是空《しきそくぜくう》 空即是色《くうそくぜしき》 [#ここで字下げ終わり] 『般若心経《はんにゃしんぎょう》』である。  空海の、心地良い韻律《リズム》を持った低い声が、夜気の中に流れてゆく。  それをひとしきり唱え終えて、空海は合掌《がっしょう》を解いた。 「さあ、済んだぞ、これでよい」  空海が言った。 「ならば、空海先生、始めるぜ」  大猴が、鍬を手にして、碑の根元の土に、鍬の刃先を打ち込み始めた。  碑の根元の土を少しどけておいてから、碑をひとまずどかそうという心づもりらしい。  しばらく、鍬を打ち込んでいた大猴の手が、鍬を打ち下ろした姿勢で止まった。  鍬の刃が、土の中に深く潜り込んで抜けなくなった——そういう体に見えた。 「おや——」  鍬の刃が潜り込んでいる、深くなった穴の中に、何気なく眼をやった大猴が、わ、と声をあげて後方に腰を引いた。  鍬から、手を放している。 「どうした!?」  逸勢が声をかける。 「松明で、その穴の中を照らして下さい」  と、大猴が言った。  逸勢が、持っていた松明で、穴の中を照らした。  しかし、そこには、鍬の刃があるばかりで、他には何も見えない。 「どうしたのだ!?」  空海が訊《き》いた。  白楽天も、何事かと穴のそばに寄ってきた。 「いえね、今、こうやって鍬を打ち下ろしたら、土の中から、白い腕が伸びてきて、鍬の刃の根元のところを掴んだんですよ。それが、凄い力だったもんで——」  大猴の言葉に、逸勢のその顔から、すうっと血の気がひいた。 「空海」  逸勢の言葉が高くなった。 「ふうん……」  と、空海は思案の体で、 「経が足りなかったか……」  そうつぶやいた。 「まあよい、とにかく続けてくれ、大猴よ」  空海の言葉に、気をとりなおした大猴が、また、鍬を土に打ち込んでゆく。  それを、松明を手にした逸勢と空海が、近くから眺めている。  二度、三度と土に鍬が打ち込まれ、四度目の時——  ふいに、鍬の刃が潜り込んだ土の中から、すうっと白い手が伸びてきて、刃の根元に近い鍬の柄《え》を掴んだ。 「わっ」  と、声をあげたのは、逸勢であった。  空海は、まじまじと、松明をかざしながら穴の底を見つめ、 「ナウマク・サンマンダ・ボダナン・バン・バク・ソワカ——」  口の中で、低く呪《しゅ》を唱えた。  開敷華王如来《かいふけおうにょらい》の真言《マントラ》である。  左手に松明を握ったまま、それを唱えながら穴の縁に膝を突き、鍬の柄にからみついた、蒼白《あおじろ》い手に右手を伸ばした。 「空海!」  逸勢が、悲鳴のような声をあげた。  空海は、その白い手の手首を握り、それを鍬の柄からもぎ離して、 「大猴、その鍬で、この腕の肘のあたりを切り落とせ——」  そう言った。  大猴は、驚きながらも、鍬を握り、空海が手首を握っているその白い腕の肘のあたりに、刃先を打ち下ろした。  ぶっつりと、腕が切れた。  空海は、立ちあがり、 「正体はこれさ」  まだ右手に握っていた腕を、炎の灯りの中にかざした。  すると、それは、腕ではなく、一本の、樹の根であった。 「どういうことだ、これは?」  逸勢が、額に汗を浮かべ、呼吸を荒くしながら訊いた。 「だから、何者かが、この貴妃どのの墓をあばくのをやめよと、そう言っているということだな」 「誰だ、そいつは?」 「わからぬ」 「むむう……」  逸勢が唸った。 「続けますかね、空海先生——」  大猴が言った。 「ちょっと待ってくれ。この後も、色々と邪魔が入るんではかなわないから、なんとかしよう」  空海は、周囲を見回してから、 「白さん、しばらくこれを持っていてくれませんか」  持っていた松明を、白楽天に渡した。  白楽天が、その松明を持つと、空海は、貴妃の碑を中心に、腰をかがめて、その周囲を歩き出した。 「うむ、ここだな」  空海が足を止めたのは、その墓碑の後方にまわった時であった。  右手を、墓碑の後ろの根元に近い土の上にかざしている。 「大猴、軽くここを掘ってみてくれないか」  空海に言われるままに、大猴が鍬を打ち下ろすと、すぐに、その刃先が、何か、堅いものにあたった。 「それだ」  と、空海は言った。 「今、刃にあたったものを、ゆっくり掘り出してみてくれ」  大猴が、注意深く、それを土の中から掘り出した。  白いものだ。  大猴が、土にまみれたそれを、穴の中から拾いあげると、 「むうむ……」  逸勢が、思わず、唸り声のような声を洩らしていた。  大猴が手にしているそれは、白い、動物の髑髏《しゃれこうべ》であった。 「犬の髑髏だな」  と、空海は言った。 「何か、文字が書いてあるようですぜ」  大猴が言った。 「それを、ちょっと見せてもらえるかい」  空海が、大猴からその犬の髑髏を受け取り、 「白さん、すみませんが、灯りを——」  白楽天が、炎をかざし、自身も、その炎の灯りの中に浮かびあがった、空海の手の中のものに視線を向けた。  空海は、その髑髏についた泥を、手と袖とで払い落とした。  たしかに、その頭蓋骨《ずがいこつ》に、何やら文字が書かれていた。 「唐の文字ではないな」  と、空海は言った。 「こいつは、胡《こ》の文字だな。なんとか、読めぬこともないが、大猴よ、これはおまえの方がよかろう。ここに何が書いてあるか、唐語で、言えるか?」 「ええ、わかりますよ。こいつは、波斯《ペルシア》の文字ですね」 「波斯《ペルシア》ですか」  と、白楽天。 「何と書いてあるのだ」  逸勢が訊く。 「この地を穢《けが》すものは、呪われよ。この地を荒らすものに、災いあれ。大地の精霊の御名《おんな》において、それ等のものどもに恐怖を与えよ——」  大猴が、感情を殺した声で言った。 「お、おい。空海よ、今、大猴が言ったことは本当なのか」  逸勢が、炎の灯りの中でも、それとわかるほど、顔を青白くさせて言った。 「ああ、確かに、そのようなことが書いてある」 「だ、だいじょうぶなのか?」 「ふふん……」  と、空海は唇に小さな笑みを浮かべ、 「心配はいらん。これでは、せいぜいが、このくらいのものだ」  まだ手に持っていた木の根を、指先で回した。 「し、しかし——」 「安心しろ、逸勢——」  空海は、そう言って、歩き出し、墓碑から距離をとってから、そこに立ち止まった。  しゃがんで、持っていた木の根の切り口を地面にあてて、線を引きながら、墓碑を中心に、輪を描くように歩き出した。 「何をするのだ、空海よ」 「つまらぬものに邪魔をされぬようにする。逸勢は、そこで安心して見ておればよい」  空海は、木の根の先で、大きく、墓碑を中心にして、地面に輪を描いた。  その輪の内側に、さらに輪を描き、顔をあげて、 「白さん、東はどちらでしたっけ」  そう訊いた。 「確か、こちらの方角と思いますが」  白楽天が言うと、 「ああ、そうでしたね」  空海は、墓碑を中心に、東にあたる場所まで歩き、そこに足を止めた。大きな輪と、小さな輪との間にできた空間に、文字を書いた。 �持国天�  さらに、南へ移り、そこにまた文字を書く。 �増長天�  そして、西へ回って、 �広目天�  北へ回って、 �多聞天�  の文字を書いた。  仏教を守護する、尊神の名であった。  もともとは、天竺《てんじく》の神々であったものの名であり、四神合わせて四天王の名で呼ばれている。  仏教世界の中心にそびえていると言われる須弥山《しゅみせん》の、東西南北を守る神——天《てん》である。  東が持国天《じこくてん》。  南が増長天《ぞうちょうてん》。  西が広目天《こうもくてん》。  北が多聞天《たもんてん》。  その四神の間の空間に、空海は、さらに、口の中で低く何やらの呪《しゅ》を唱えながら文字を書き込んでゆく。  空海が、その作業をやり易いように、大猴が、松明をかざして、空海のすぐ横についている。 「何を書いているのだ、空海よ」  逸勢が訊く。 「�孔雀明王咒《くじゃくみょうおうじゅ》�——孔雀明王の真言《マントラ》だ」  書き終えて、空海はそう言いながら顔をあげた。 「さあ、大猴、続けてくれ」  空海が言うと、 「よし」  と言って、灯りを空海に渡し、大猴が墓碑に歩み寄って、 「もう、面倒だから、いきなりこうしちまいますぜ」  やおら、墓碑にしがみついた。 「くむう……」  太い呼気を、大猴は、喉の奥で押し潰した。  大猴の全身の筋肉が、瘤《こぶ》のようにふくれあがった。  その時、大きく墓碑が動いた。  大猴は、その墓碑を地面から引き抜いて、歩き出した。  そうとうに重いものを抱えているため、大猴が足を踏み出すたびに、地面が低く音をたてて揺れるようであった。  輪の外に出て、大猴は、それを、地面の上に建てた。 「これでいいかね」  大猴が言った。 「充分だ」  そう言った空海の声には、賛嘆の響きがこもっていた。        (八)  何事もなく、掘り進んだ。  途中で、誰かと代わろうかと声をかけても、 「このくらい、どうってことは、ありませんよ」  大猴は気にもとめずに、黙々と土を掘った。  ちょうど、大猴の腰の深さまで掘ったかと思われた頃、鍬の刃が、何か、堅いものを叩いた。 「何かありますぜ」  大猴が、鍬を動かして、ていねいに、その堅いものの上から土をどけてゆく。 「こりゃあ、石でできた棺《かん》ですぜ」  大猴が言う。  上から見降ろせば、なるほど、それは確かに石の棺であった。  松明《たいまつ》を、空海と逸勢がかざすと、その、土をこびりつかせた石棺の表面に、炎の色が妖しく揺れ動く。  頭上の闇の中では、ざわざわと、槐《えんじゅ》の梢が音をたてている。  白楽天は、穴の縁に、両手と両膝を突いて、その棺を見降ろしていた。 「これが、貴妃どのの……」  そうつぶやいて、白楽天は、口の中に湧いた唾《つば》を呑み込んだ。  湿った土の匂いが、夜気の中に濃く溶けていた。 「空海先生、どうしますかね」  大猴が訊いた。 「開けてみてくれ」  空海の言葉に、大猴は、棺の横に、鍬で自分の足場を造り、鍬の刃先を、棺と棺の蓋《ふた》との間にこじ入れた。  そこに、指が入るくらいの透き間を造り、鍬を穴の外に放り出して、その透き間に指を差し込んだ。  さらに、石蓋を大きくずらして、両手をかけ、それをひといきに持ちあげた。  石蓋を、穴の外の地面の上に置いた。 「な、無い!?」  声をあげたのは、逸勢であった。  逸勢の言う通り、その、石棺の中には、何もなかった。  ただ、大猴が、蓋をとる時に落ちた土が、ひと握り、ふた握りほど、棺の中に落ちているだけであった。 「やはりな」  と、空海はつぶやいた。 「やはりって、おまえ、ここに貴妃どのの屍体《したい》がないことを知っておったのか?」  と、逸勢。 「知ってはおらん。こういうこともあるかと想像はしていたがな」 「どうなっているのだ」  逸勢が言った時、 「むうむ……」  白楽天が、低く、獣のような声をあげた。 「どうされました?」  空海が声をかける。 「これを見なされ」  白楽天が指差したのは、棺の中ではなく、今しがた、大猴が穴の外に出したばかりの、棺の蓋であった。  その棺の蓋は、内側を上に向けて、そこに置かれていた。  石蓋のその内側表面を、白楽天は指差していたのである。  その表面に、ぞっとするような模様が描かれていた。  掻《か》き傷?  それは、そのように見えた。  石蓋の表面に、無数に、茶褐色の筋が走っているのである。  血の跡であった。  どうして、このような傷がついたかは、誰でもすぐにわかる。  この、棺の中に入れられていたものが、土中で、外へ出ようと、この棺の表面を掻き毟《むし》ったのだ。  その時、指の爪がはがれ、血がこぼれ、その血が、この棺の蓋の内側の表面についたのだ。それが、乾いたものが、今、空海たちが眼にしているものであった。  夥《おびただ》しい数の、掻き傷であった。  この土中で、この傷を付けたものは、どれだけ長い間、この石の表面を、睨み続けていたのだろうか。  思わず、首筋の毛がそそけ立つような、光景であった。  逸勢が、首をすくませ、冷たいものが背を疾《はし》り抜けたように、ぞくりと身体を震わせた。 「むう……」  と、空海が、低く声をあげた。  逸勢がごくりと音をたてて、口の中に溜ったものを呑み込んだ。 「おい、空海よ……」  石蓋の、内側の表面を眺めながら、囁《ささや》くような声で言った。 「おれが死んでも、棺の中に入れずに、焼いてくれよな」 「ああ、わかった」  空海はそう答えた。  その時——  空海は、何ごとか、気がついたように顔を上げ、後方を振り返った。  振り返った空海の動きが、そこで止まった。 「どうしたのだ」  そう言って、振り返った逸勢も、そこで動きを止めていた。  大猴と、白楽天が、空海と同じ方向へ視線を向けた。  ふたりも、そこで、身体の動きを止めた。  その視線の方向に、さきほど、大猴が移動して置いた、楊貴妃の墓碑が、危いバランスで建っていた。  その上に——  人がいた。  やや傾いた墓碑の一番上に、ほっそりした身体の人間が、腰を下ろし、踵《かかと》をその墓の上部の縁に乗せ、両腕をだらりと膝に乗せて、四人を見下ろしていたのである。  老人であった。  黒い、ぼろのような方士《ほうし》の着る服を着ていた。  ぼうぼうと伸びた蓬髪《ほうはつ》は、全てが白髪である。鼻の下から、顎の下まで、全体に生えている髯《ひげ》までが白い。  細面《ほそおもて》のその顔に、深い皺《しわ》が刻まれている。  その老人が、口元に、柔和《にゅうわ》な笑みを浮かべて、四人を眺めていた。  ふたつの松明の灯りが、下から、その老人を照らしている。  その老人の頭上で、うねうねと、槐の梢が風に身を揺らしていた。  口に、微笑は浮いていたが、しかし、その皺に埋もれた眼の中に、笑みの色はない。  炯《けい》とした、強い光を放つその瞳の表面に、ふたつの灯の色が揺れているばかりである。 「おう、これは孔雀明王どの——」  空海は声をかけた。 「わかっていたか」  と、老人は、乾いた声で言った。 「あの節は、貴重なご忠告をいただきました」  空海は言った。 「何のことだ、空海よ?」  逸勢が、空海に訊く。 「しばらく前に、西明寺の庭で、孔雀明王どのに会《お》うたと話をしたろうが」 「それがこの——」 「そうだ」  と、空海は短く言った。 「西明寺でも言うたはずだ。何故、早く青龍寺《せいりゅうじ》へゆかぬ。このような、つまらぬことに関わっているより他に、ぬしにはすることがあるであろうに——」 「さようでございますが、しかし、もう、退《ひ》けぬところまで関わってしまったようで——」 「それは、ぬしの思い込みよ。このままここを去り、これまでのことは全て忘れて、倭国からの留学僧として、やることをやるがよい——」 「それが、この件、入り込めば入り込むほど、何やらおもしろうございまして」  あくまでも、空海の言い方はひかえ目だが、どこかに、妙にとぼけたような響きがある。  その時になって、ようやく、何やら理解したように、逸勢が、声をあげた。 「く、空海——」  逸勢が、空海の肩に手をやった。 「こ、こ、この老人は、あ、あの時の——」 「そうさ。洛陽《らくよう》の都で会うた、丹翁《たんおう》どのよ——」  空海が言うと、 「久しぶりだのう……」  と、その老人——丹翁が言った。 「まさか、あの時は、かような場所で、このように相まみゆることになろうとは、思うてもおらなんだわ」  と、丹翁は言った。  空海と逸勢は、昨年、この長安に入るまえに、洛陽の都に立ち寄っている。  空海と逸勢は、ふたりで洛陽の都を歩いたのだが、そのおりに、この丹翁と出会ったのである。  場所は、南市《なんし》の一画である。  そこで、この丹翁が、大道芸人として立ち、人を集めて植瓜《しょっか》の術を見せていたのである。  瓜《うり》の種を、地面に播《ま》き、その場で芽を出させ、葉を生やさせ、実をならせてそれを売っていたのが丹翁であった。  その術を、空海が見破り、丹翁がそれに感心をして、空海に瓜を土産《みやげ》に持たせた。  ところが、瓜と見えたそれが、実は犬の首であったという、空海が、すっかり騙《だま》された一件が、洛陽であったのである。 「わたしも、まさか、あの孔雀明王どのが、丹翁どのとは、思ってもみませんでしたよ——」  空海は言った。  ふたりは、そこで見つめあった。 「丹翁どの、ひとつ、お訊きしたいことがあるのですが、さきほど、我等を襲うた者たちは、あなたのお仲間ですか?」 「違うよ」 「では、あの、蟇《ひき》を使って、ここから立ち去らせようと計ったのは?」 「あれは、わしが仕業《しわざ》よ」 「ならば——」  と言って、空海は、足元に置いていた、胡《こ》の文字の書かれた、犬の髑髏《しゃれこうべ》をその手に拾いあげた。 「——これは、あなたの仕業ですか」 「それは、わしではない」 「では、どなたの仕業なのですか」 「さあて」  丹翁の顔から、表情が消えてゆく。 「最近、この唐には、胡の方から、様々な宗教、邪教《じゃきょう》の徒が入り込んでおりますそうで——」 「そうらしいな」 「その中に、火を崇《あが》める拝火教《はいかきょう》というのがありますが、その火——光の神の教えと共に、闇の神に仕える輩《やから》も、長安には入っているとか——」 「——」 「その輩、どうやら、ヤートゥとか、カラパンとか呼ばれているらしいのですが——」  空海が言うと、丹翁は、低い声で嗤《わら》った。 「わしはな、ぬしの才を惜しめばこそ、言うておる。急ぐことだ。ぬしがぐずぐずしておるうちに、とり返しのつかぬことがおこるやもしれぬ」 「とり返しのつかぬこと?」 「おう。たとえば、青龍寺の恵果《けいか》和尚よ——」 「恵果和尚が……」 「その恵果和尚が死ぬやもしれぬ。そういうことになったらどうする」 「——」 「ぬしに、誰が密《みつ》を授《さず》けるというのだ——」 「——」 「いや、わしが言うておるは、ぬしのためだけではない。密のために言うておるのよ。天竺より、ここまで渡ってきた密の大系が、この天地の秘密を解く教えが、誰にも伝わることなく、この地で果つるか——」 「——」 「わしは、密を惜しめばこそ、ぬしに急げと、そう言うておるのだ」  丹翁は、高い場所から、切々と、空海に言った。 「まるで、あなたのお言葉では、恵果和尚が、明日にでも死んでしまうようですね」 「そうは言うてはおらぬ。しかし、そういうことがおこらぬとは言えまい」 「何か、知っているのですか?」 「知らぬ知らぬ。ぬしに教えねばならぬようなことは、わしは何も知らぬわい」  丹翁は、ゆっくりと、碑の上に立ちあがった。  風が強くなっていた。  丹翁の頭上で、槐の梢が、黒ぐろと、大きく揺れ動いている。  丹翁は、空海を見降ろした。 「お待ち下さい。この墓所に埋められていた貴妃どのを、掘り出したのは誰なのですか——」  空海は、数歩、前へ歩み出た。 「貴妃どのを掘り出した連中は、いったい何を考えているのですか。それとも、ここから貴妃どのを掘り出したのは、あなたなのですか——」  空海が問うても、もはや、丹翁は答えなかった。  丹翁は、頭上で揺れ騒ぐ槐の梢を見あげた。 「貴妃どのは、今、どこにいるのですか?」  空海が問うた時、一瞬、丹翁は、空海を見降ろし、 「惜《お》しいかな、空海。才のあまりに、己《おの》れの身を亡《ほろ》ぼす道を選ぶか……」  そうつぶやいた。  ふたたび、頭上へ顔を向け、腰を低くしたかと思うと、次の一瞬、ふわりと、丹翁の身体が宙に飛んでいた。  頭上で揺れる槐の枝のひとつを、丹翁の手が掴《つか》んだ。  丹翁の身体の重さで、枝が、大きくしなって沈んだ。  それが、強い勢いで、再び上に跳《は》ねもどってゆく。  その反動を利用して、丹翁が、手を放した。  ざっ、  と、槐の梢が鳴った。  丹翁の身体が、暗い、森の宙空に飛んで、そのまま、姿を消していた。  あとは、空海たちが見あげる槐の梢が、風に、強く、身をうねらせているばかりであった。 「空海よ——」  逸勢が声をかけた。  しかし、空海は答えなかった。  空海は、闇の中でうねる、槐の梢を、ただ見あげていた。  空海は、遠い、虚空《こくう》を見ていた。 [#改ページ]    第十四章 柳宗元        (一)  春風の中を、馬でゆく。  空海と、| 橘 逸勢《たちばなのはやなり》は、馬上の人であった。  ふたりの先を、やはり、馬に乗った張彦高《ちょうげんこう》がゆく。  張彦高は、金吾衛《きんごえい》の役人であった。  三人の後方に、馬に乗った大猴《たいこう》がいる。大きな体躯《たいく》の大猴が馬に乗ると、その馬が小さく見える。  さらに、大猴の後方には、七人の役人が続いている。  一行は、張彦高の案内で、驪山《りざん》の麓に向かっているのである。  張の幼なじみの、徐文強《じょぶんきょう》が、驪山の北の麓に、綿の畑を持っている。その畑に、あやかし[#「あやかし」に傍点]が出るというので、それを見にゆくために、空海と逸勢は、今、その驪山の北の麓へむかっているところであった。  長安城を出てから北へ向かって半日——  張が、空海に声をかけてきたのは、ほどなく、途中の宿駅《しゅくえき》である優渓《ゆうけい》へ着く頃であった。 「空海さん——」  馬上から振り返って、張が空海を見た。 「実は、故あって、これまで隠していたことがひとつ、あるのですが——」  張は、申しわけなさそうにそう言った。 「何でしょう」 「ある方を、一緒に、驪山の麓まで、お連れ願いたいのです」 「もちろん、かまいませんが、それはどういうお方なのですか」  空海が問うと、張は、数瞬迷い、口ごもってから、あらためて口を開いた。 「ある方のお傍《そば》にあって、色々と| 政 《まつりごと》の相談にのっているお方です」 「ある方?」 「皇帝のお傍に仕える碁打ちの——」  空海は、その言葉を最後まで言わせなかった。 「ほう。あの、王叔文《おうしゅくぶん》様の——」 「はい。その方が進言《しんげん》なされば、その言葉は、王叔文様を通じて、順宗《じゅんそう》皇帝のお耳にまで届きます」 「何というお方ですか」 「御名前くらいは、お耳に届いているかと思いますが、柳宗元《りゅうそうげん》というお方です」 「その方なら知っていますよ。『江雪《こうせつ》』の詩は、拝見させていただきました」  空海は、その詩を、そらんじた。 [#ここから2字下げ] 千山 鳥飛ぶこと絶《た》え 万逕《ばんけい》 人蹤滅《じんしょうめっ》す 孤舟《こしゅう》 蓑笠《さりゅう》の翁《おう》 独《ひと》り釣《つ》る 寒江《かんこう》の雪 [#ここで字下げ終わり] 「よく御存知ですね」  張は、空海が吟じた詩を、反芻《はんすう》するように、小さく唇の先でつぶやいた。  張は、空海の左に馬を並べ、 「実は、柳宗元様が、昨夜、わたしの所へやってきたのですよ」  柳宗元は、張を傍《そば》に呼んで、 「明日は確か、倭国《わこく》の僧が、共にゆくと言っていたな」  そう訊《き》いたというのである。 「その僧の名が空海というのであれば、わたしも一緒にゆこう」  柳宗元はそう言った。 「突然だったのですが、まあ、そういう理由《わけ》で、今、柳宗元様が、お知り合いと優渓であなたを待っているのです」  と、張は、空海に言った。 「知り合い?」 「ええ。名前は存じあげませんが、その方から柳宗元様は、空海さんの名前を聴いたとかで——」  空海は、しばし考える風であったが、 「見当がつきませんね」 「今日は、柳宗元様は、お忍びです。こちらへ来ていることは、我々と、王叔文様の他は、誰も知りません。柳宗元様は、人眼を避けて、その方とふたりで、今朝早くに長安をたたれ、今、先に優渓に着いて、我々を待っているはずなのです」  その優渓は、もう、眼の前であった。        (二)  空海と、逸勢は、優渓の宿駅にある小さな飯店《はんてん》に、張に伴われて入って行った。  飯店の主人が、何もかも心得ているらしく、 「お待ちしておりました、こちらへ——」  店を通って奥の部屋へ、空海たち三人は、主人に案内された。  部屋の入口の左右には、屈強そうな男がふたり、腰に剣を下げて立っていた。  そのふたりの間を通って、空海と逸勢と張は、店の主人と共に、その部屋に入って行った。  部屋には、卓《つくえ》が置かれていて、その卓を囲むように並べられた椅子のふたつに、それぞれ、男が腰を下ろしていた。  そのふたりとも、空海は見覚えがあった。 「空海さん、逸勢さん、また会いましたね」  あの白楽天《はくらくてん》が、空海を見つめて微笑していた。 「楽天さん」  空海は、さすがに、驚いた声をあげた。 「こちらが、柳宗元です。同じ役人で、詩を書いている仲間なのですが、空海さんの話をしたら、空海さんに非常な興味を持たれてね。ぜひ、今日は御一緒したいと——」 「話を?」  空海は、楽天の言葉に、念を押すように訊いた。  話というのは、どこまでのことか。  あの、楊貴妃の墓所《ぼしょ》でのことまで話したのかと、空海は、暗に楽天に問うたのである。 「ほら、胡玉楼《こぎょくろう》で、玉蓮《ぎょくれん》さんたちと楽しくやった時があったでしょう。あの時に、色々と詩の話をしたじゃありませんか。そのことをお話ししたのですよ」  楽天は、貴妃の墓所の話はしていないと、暗に、空海に告げた。  空海は、白楽天から、もうひとりの、髯《ひげ》をはやした男——に向きなおり、 「お久しぶりです。覚えておいでですか。倭国から来た、留学僧《るがくそう》の空海です。確か、あの折は、子厚《しこう》さんと名告《なの》られたように記憶していますが——」  と、空海は言った。 「覚えてますとも。倭国の僧が、驪山へゆくと聴いていたのですが、やはり、あなただったのですね」 「はい」 「あの時の子厚は字《あざな》です。本当の名は、柳宗元といいます」  と、その男、柳宗元は、なつかしそうに言った。  この時、柳宗元、三十三歳。  空海よりも、一歳年長であった。 「おふたりは、お知り合いだったのですか?」  張彦高が言う。 「あれは、一月——徳宗《とくそう》皇帝が崩御《ほうぎょ》される六日ほど前でしたか——」  空海は言った。 「平康坊《へいこうぼう》の、紅龍《こうりゅう》という酒家《しゅか》であったと思います」  よどみなく、柳宗元は言った。 「胡玉楼であなたがお書きになったものを拝見しましたよ」  馬嵬駅《ばかいえき》からの帰りの道々に、色々やりとりした話や、詩文を書きかわしたことが、皆、胡玉楼でのことのように、白楽天は、柳宗元に伝えているらしい。 「長安でも、あれだけの文と字を書く者は稀《まれ》です。あなたは、本当に、倭国の方なのですか——」 「ええ、わたしは倭国から来ました」  空海は、日本国の言葉でそう告げて、すぐに、それと同じ言葉をなめらかな唐語で言った。        (三)  ふた月ほど前。  一月十八日——  その時、空海と橘逸勢は、東市のざわめきの中にいた。 「おい、空海、あれを見ろよ」  珍しいものを見つけるたびに、逸勢は空海を肘で突いて、自分と同じものを見ろと言う。  すでに、何度かこの東市に足を運んでいるが、いつ来ても、逸勢にとっては、この市のざわめきは新鮮に映るらしい。  それは、空海にとっても同じである。  碧《あお》い眸《め》の胡人《こじん》や、吐蕃《チベット》の方から商《あきな》いにやってきた者たちも、その市には店を広げている。  波斯《ペルシア》の絨緞《じゅうたん》を売る者、胡の壺《つぼ》を売る者——異国の衣服や、長靴を、運んできたばかりの駱駝《ラクダ》の背から下ろして、それを露店に並べている商人たち。  こういう風景もあったのかと、眼を平手で叩かれるような思いが、逸勢にも、空海にもある。  と——  あたりのざわめきが、ふいに、静かになっていった。  あちこちの店の商人たちが、せわしく店の品物をかたづけ始めた。  市の喧騒《けんそう》のかわりに、そのあわただしい物音が、周囲に満ちた。 「何ごとだ、空海よ」  逸勢が視線を転ずると、後方から、きらびやかな衣装を身にまとった数人の男たちが、後方に多くの人間をひき連れて、市の大道を歩いてくるのが見えた。 「宦官《かんがん》だぞ」  と、逸勢が言った。  徳宗皇帝に拝謁《はいえつ》したおりに、空海も、逸勢も、宦官を見ている。  宦官——つまり、男根を去勢《きょせい》された男たちである。  後宮《こうきゅう》にいる、皇帝の愛妾たちと関係をもったり孕《はら》ませたりすることのないように、その性の能力を奪われてしまった男たちであるが、皇帝や、皇帝の妻や愛妾たちと近く接しているため、宮中での発言力には、並ならぬ強いものがある。  貴族であっても、皇帝と面会をしたくば、この宦官を通じて頼むことになる。  皇帝に会いたがっている人間は無数におり、会う順番を早めてもらうために、気の遠くなるような額の賄賂《わいろ》が彼等から宦官に支払われたりするのである。  宮中の人事、| 政 《まつりごと》にまで、宦官の発言力は及んでいる。  男としての能力を失っているため、そのたたずまいには、どこか中性的な、人とは異質の雰囲気が漂っている。笑っていようと、怒っていようと、常に、ぬめりとした表情がその顔にある。  宮廷《きゅうてい》から外へ出る時には、貴族の女と見まごうばかりの衣装を身につけ、足には胡人の長靴を履《は》いたりする。  どこで会っても、まず、宦官と普通の人間とを見間違えたりすることはない。  六人の宦官が、後方に、二〇〇人以上はいると思われる男たちを従えて、道を歩いてくるのである。  その男たちが、ひとりずつの宦官と共に、市の四方へ散ってゆく。  馬に牽《ひ》かせた、空の車が十台余り——  その車も、男たちと共に四方へ散った。  空海と逸勢のいる方へは、三〇人近い男たちと、一人の宦官が歩いてきた。  宮中で必要なものを、市へ、集めに来た男たちである。  たとえば、宴会があれば、その宴会の酒や肴《さかな》は言うにおよばず、食器から絨緞に至るまで、男たちを引き連れた宦官が、めぼしいものを市場から調達《ちょうたつ》してゆくのである。  向こうの方で、 「宮市!」  と叫ぶ声と、商人らしい男の絶望の声が響く。  空海の横を通り過ぎた宦官が、すぐ先の胡人の店で、壺の品定めを始めた。  店の主人らしき男が、怒りを隠した声で、 「うちには、たいした壺はない。がらくたばかりだよ」  品定めをしている宦官にそう言うが、宦官は、気にも留《と》めない。  壺を手に取り、それをしげしげと眺め、 「なかなかの品ではないか——」  つぶやいた。 「よし」  と、主人を見つめ、男たちに振り返ると、 「宮市!」  声をあげた。 「三〇か四〇ほどもあればよかろう」  男たちが、たちまち店に並べてある壺に手を伸ばし、車に積んでゆく。  店の主人の絶望的な声が、異国の神の名を呼んだ。  店を手伝っている、その主人の娘らしい、若い二人の女が、異国の言葉で、何やら男たちに言い始めた。  男たちを、非難しているのだということくらいはわかる。  三〇個の壺が、荷車に積み込まれた。  主人に向かって、宦官が言った。 「金《かね》は置いてゆく。盗んでゆくわけではない」  そう言って、宦官は、懐から一〇〇銭の金を出して、胡人の店主の手にねじ込んだ。  実際の値段の、何十分の一の値段である。  まともに購《あがな》えば、何十両も払わねばならぬだけの量と質の壺であった。 「これでは、少なすぎます」  怒りを堪《こら》えて、主人が言った。 「さっき、がらくたと言ったではないか。がらくたを買う値段だ。一〇〇銭でどこが悪い——」  宦官はとりあわない。  その宦官は、異国語で声をあげている娘たちを見やり、 「そこな娘も売りものならば、買いとってつかわそうか」  ぬったりと嗤《わら》った。  すると、声をあげていた姉妹らしい二人の娘のうちの、若い方の娘が、 「お馬鹿さん。買っても入れるような持ちものがあるの!?」  唐語で叫んだ。  宦官の顔色が変わりかけたその時、 「馬鹿とはおそれいりますね。入れるものなら持って来ましたよ」  宦官の後ろにいた空海がそう言いながら前に進み出ていた。  宦官に声を出させる隙《すき》を与えず、 「この経典《きょうてん》なら不足はないでしょう」  空海は、懐から一巻の経典を取り出した。 「玄奘三蔵《げんじょうさんぞう》どのが、天竺より持ち帰って、唐語に訳された『般若経』です。これなら、その箱に入れるにふさわしいものと思いますがね」 「誰だ、おまえ!?」  宦官が空海に問うた。 「倭国から来た留学僧です。いえね、昨日この店へ来たら、あそこに綺麗《きれい》な箱がありますでしょう。それが気に入ってしまって、ぜひ売ってくれと交渉したのですが、それは売りものではないから売れぬと言われまして——」  空海は、店の奥に置いてある、螺鈿《らでん》の紋様の入った箱を指差した。 「しかし、どうしても欲しいと申しましたら、この店の主人が言うのでございます。�この品は、死んだ母親が、身の回りの小物を入れておいた箱である。大事な母の形見であり、仮に売ったとして、めったなものを入れられるのでは、死んだ母に申しわけがたちませぬ。どういうものを入れるおつもりなのか、明日、またここまでいらして、その入れるものというのを見せてもらえますか。それ次第では考えましょう�と——」  空海は、しげしげと店の奥に置いてあるその箱を見つめた。 「おお、なるほど。仏の御教《みおし》えの書かれた仏典であれば、不足はございませぬな」  すかさず、店の主人が、その螺鈿の箱を手にとって、空海の前に出てきた。 「それはありがたい。で、いかほどになりましょうや」 「なんの、ありがたい経典を入れていただくのに、こちらから値をつけられるものではありません。そちらの言い値で結構でございますよ」  店の主人の胡人は、訛《なま》りのある唐語で、空海にそう言ったのであった。        (四) 「しかし、驚いたな、空海よ。とっさによくあのような嘘が言えたものだ。おれは見ていて、はらはらしたよ」  逸勢は、空海に向かって言った。 「なあに、主人が合わせてくれたからどうにかなったのさ。しかし、偶然に経典を持っていてよかった。そうでなければどうにもしょうがない」 「だが、本当にその箱を買ってしまったわけだからな」  逸勢が言うように、空海は、胡人の店の奥に置かれていた螺鈿の箱を、その手に抱えている。  いささか白けた体《てい》の宦官が帰った後、空海は、本当に、その箱を買いとったのであった。  主人は、空海の出す銭を、最初は受けとろうとしなかったが、空海が無理に銭を置いて、店を出てきたのであった。  そして、今、平康坊の大路を歩いている。 「しかし、宦官とは、横暴なものだな。それに加えて、税の高さも、そのとりたても、なかなかのものだというぞ」  逸勢の言葉に、空海はうなずいた。  たしかに、当時の長安の税制は、評判が悪く、でたらめと言えた。  徳宗皇帝は、皇帝に即位してすぐに、安史《あんし》の乱で乱れに乱れた敗政の建てなおしをはかり、税法の改革をして「両税《りょうぜい》法」を断行した。  これが、人民にとっては、改悪であった。  この両税法は、それまでの租庸調《そようちょう》法とはかなり異なっている。労働力と資産にもとづいて、納税額の等級を決めた。地租《ちそ》や夫役《ふえき》に分けて徴収するのではなく、諸税を一体化し、主に貨幣に換算して徴収するというものであった。  両税法の名は、夏と秋の、年二回の徴収があることからつけられたものである。  徳宗は、この両税法を施行するにあたって、この税以外に、なにかの名目を設けて税を取り立てる者がいたら、厳罰に処《しょ》すというおふれを全国に発令したが、それを先に破ったのは、他ならぬ徳宗自身であった。  両税法で、朝廷の税金収入は二倍以上に増えたが、それでも、巨額の軍事費をまかなうことができなかったのだ。  そして、次々に、徳宗は税の対象を増やしていった。  茶税。漆《うるし》税。木税。家屋税。賃貸税。交易税——  さらには、長安の市場では、取り引き額の四分の一を税金として取り立てるということまでした。  また、さらに、商業税や、官営の塩の値段を吊りあげ、商人にむりに国債《こくさい》を売りつけたりもした。  ほとんど、あらゆる手段を使って、民衆から金をしぼり取ったのである。  このため、無一文になって自殺する人間が無数に出ている。  これは、都長安だけのことではなく、地方においても、あちこちのめぼしい場所には税関が設けられ、野菜を売って歩く|行 商 人《ぎょうしょうにん》までもが税金を取られた。  果ては、死人にまで死人税をかけたりしたのである。  こういう時期に、空海は、長安を訪れたのであった。  まさに、長安は、腐る寸前の熟《う》れに熟れた落ちる寸前の果実であった。  宮中で必要なものは、宦官が、長安の市場で集めることになっていたことから、さきほど、空海と逸勢が眼にしたようなことが、日常として行われていたのである。  宦官は、そうした買いつけの時に、ほんのわずかの銭しか払わないばかりでなく、代金を払わないこともあった。さらには、逆に、運び賃と称して、金をとる宦官までいたという。  地方長官たちは、中央に引きあげてもらおうと、さかんに皇帝に貢物《みつぎもの》をした。  四季ごとに届けるもの、月ごとに届けるもの、毎日届けるもの——その贈り物に使われる銭は莫大なものであったが、それは全て、人民の税金から賄《まかな》われたのである。  その貢物の額によって、皇帝から授《さず》けられる官位が決まったのである。  しかし、それでも、なお、この時長安は、世界一の都会であり、人口一〇〇万人という、世界史の奇蹟《きせき》のような都であったのである。  その、奇蹟の都市、長安の平康坊の大路を、空海と逸勢は歩いている。 「腹が減ったな」  と、先ほど逸勢が言い出して、今、ふたりは、食事のできる酒家か飯店を捜して、道を歩いているのであった。  ゆくうちに、前方の街並みの中に、 �紅龍酒家�  と、朱書《しゅしょ》された文字のある看板が見える。 「おう、あったぞ、空海——」  逸勢の足が速くなった。  その紅龍酒家の前まで来た時に、店の前に人だかりがあった。  まず、その酒家を、通行人らしい人間たちが、遠巻きに見つめている。そして、その酒家の入口のすぐ前に、三人の男たちが立って、店に向かって何か叫んでいるのである。 「なんだろうな、あれは——」  逸勢と空海は足を止めた。  三人の男たちには、酒が入っているようであった。  顔が赤く、叫んでいる声や言葉が、酒気を帯びた人間特有のものになっている。  良く見ると、店の入口の前の土の上に、細長いものが、動いている。 「ありゃあ、蛇だぞ、空海」  逸勢は言ったが、むろん、それは、同じものを見ているわけだから、空海にもそのくらいはわかる。  三人の男のうちのひとりが、店の中へ声をかけている。 「おい、この蛇さまはな、天子《てんし》さま——つまり皇帝陛下に鳥を捕えて献上しているのだ。この蛇さまが、腹を減らしたりしないよう、よく面倒を見るんだぜ」  男はそう言っているのである。 「何者なのですか、彼等は……」  空海は、近くにいる男のひとりに訊いた。 「五坊小児《ごぼうしょうじ》ですよ」  男は答えた。 「あれが——」 �五坊�というのは、五種の生き物——皇帝の鷲《わし》、隼《はやぶさ》、鷂《はいたか》、鷹《たか》、犬を飼っているところである。�小児�とはそこで働いている人間のことだが、空海は、ここで初めて、五坊小児という人間たちを見た。 「ああやって、いつも、いやがらせをしているのですよ」  と、空海に五坊小児を教えてくれた男は、顔をしかめた。  店で飲み喰いした銭をただにするだけでなく、銭を受け取るまで、彼らはそのいやがらせをやめようとしないのだという。  皇帝のもとで働いているとは言っても、あれではまるで、 �街のごろつきとかわらぬではないか�  そういう印象がある。  そういう意味では、さきほど見た宦官たちの様子も、街のごろつきのようである。  五坊小児たちは、たとえば、金をせしめるためには、信じられないことまでしている。  人が通らねばならない通りの入口、住民がいつも使っている井戸の上などに、鳥を捕えるための網を張り、誰かがこれに近づくと、皇帝に献《けん》ずる鳥を逃がしたという罪名をきせて、殴り、金をまきあげるのである。  この時期、長安——唐という歴史の果実は、その内部から腐臭を放ちつつあった。  この果実に巣喰う寄生虫にとっては、甘い蜜のような味のする、発酵《はっこう》した酒のような匂いを放つ果実である。  史書には、次のような記載がある。  その頃の、陝西《せんせい》の、ある郷《きょう》の統計数字である。  |※[#「門<受」、126-3]郷《じゅきょう》という土地は、もともと戸数三〇〇〇戸を数える郷であったが、ひどい民衆のしぼりあげに耐えられずに、その三分の二の村民が、逃げ出すか死亡をしている。  また、渭南県《いなんけん》の長源郷《ちょうげんきょう》という戸数四〇〇戸の村では、村民の九割以上の人々が、死亡するか外地へ逃げ出している。  徳宗が、両税法を施行したおり(七八〇年)には、大唐帝国の戸数(つまり税を払うべき戸数)は、それでも四百十余万戸はあった。これが二十五年後の空海入唐時には、その総戸数が二四〇万戸に減っていたという。  ひとつの帝国の住民のおよそ四割が、死亡するか、土地を持たない流民《るみん》となっていったのである。  住民は疲弊《ひへい》し、大唐帝国という国家そのものが、もはやかつての力を持ちえなくなっていた。  しかし、なお、この時、長安は、世界史が生んだ絢爛《けんらん》たる歴史の果実であった。  この時、まだ、なお、空海はこの長安という世界史の舞台に登場したばかりの、東洋の小国、倭国からやってきた、一|沙門《しゃもん》であった。  インドに生まれた密教という大系を、日本国という温室の中で、仏教史上|稀《まれ》にみる完成度の高さで結実させる役を担《にな》うべく、空海はこの舞台に登場したのである、まだ、逸勢も、歴史も知らない。  密教にとって、ひとつの奇跡のような幸運は、その滅びる寸前に、東洋からやってきたこの野心に燃えた、空海という天才との出会いを得たことであろう。  逆に言うなら、密教は、この空海という沙門に出会い、東洋の島国日本において、ひとつの宝石のような果実として結実するために、天竺に生じ、長大な刻《とき》を越えてシルクロードを渡り、この長安にやってきたのだともいえる。  密教というのは、人間を、その善も悪も何もかもを含めて、宇宙を丸ごと肯定するための思想体系であるといってもいい。  空海とこの密教との出会いを考えると、運命というか、この宇宙や人の世を動かしてゆく法則の如きものが、この世にはまちがいなくあるのではないかとさえ思えてくる。  空海が担うべきその歴史的な役割を、この時、もし、自覚しているものがいたとすれば、それは、他ならぬこの空海自身であったろう。  いや、それは、自覚というにはまだ距離があるだろう。空海の内部では、それはまだ、野心と呼ぶ方がふさわしいかもしれない。        (五) 「なるほど、天子《てんし》さまのために、鳥を捕える蛇でございますか」  空海が言った。  その声に驚いたように、五坊小児《ごぼうしょうじ》の男たちが空海に視線を向けた。 「おい、空海……」  逸勢は、驚いたように、小声で空海に声をかけた。  逸勢は、まさか、空海が、彼等に声をかけるとは考えてもいなかったのだろう。  三人の視線が、空海に集まったその時、三人の呼吸に合わせるように、空海が足を前に踏み出した。 「なるほど、それで、その蛇には翼があるのですね」  三人を見つめながら空海が言った。 「翼だと?」  男たちが怪訝《けげん》そうな顔になった。 「はい」  涼しげな顔でうなずいて空海は、無造作に地面の蛇をつかみあげ、 「ほれ、ここに、このように翼が畳《たた》まれているではありませんか」  空海は、左手に持った蛇の背を指で示した。 「翼があればこそ、この蛇は、鳥を捕まえることができるのでござりましょうな」  とんでもないことを空海は言い出した。  逸勢には、その時、空海にかける言葉もない。空海の様子を、ただ、見守っているだけである。 「ほれ、たたまれていた翼が出てまいりましたぞ。おう、純白の美しい翼でございますな。さすがは、天子さまの蛇——」  空海が言うと、 「おう」 「おう」  男たちは、一様に声をあげた。  三人の男たちは、蛇が翼を広げる様《さま》がそこに見えているように、空海の左腕にからみついた蛇に眼をやっている。 「これは、南の山海《せんがい》州に棲む、翔蛇《しょうだ》という瑞獣《ずいじゅう》でございます。かようなものをどこで手にお入れになられました?」 「い、いや、それは——」  男たちは、驚嘆のあまり、言葉を発せられなくなっている。 「翼を、ほれ、かように振っておるは、何かめでたきことの知らせのようでございますな——」 「おう、確かに翼を振っておる」 「これが、空を飛んでゆく時、その後を尾行《つ》けてゆけば、またとない重宝《ちょうほう》の在《あ》り処《か》を、教えてくれるとか。ほれこのように、翼を——」 「む、むうう……」 「おう、飛びましたぞ。向こうへ、西の方向へ飛んでゆきますぞ」  空海が、眼を宙に向けて、空を飛んでゆくものを追うように視線を動かしてゆく。 「おう、本当だ。飛んだぞ。向こうだ。追え——」  三人は、あたふたと、宙を飛んでゆくらしい、翔蛇の後を追って走り出した。  そこへ、空海がひとり、ぽつんと残された。 「まあ、こんなところでどうだ、逸勢よ——」  空海は、悪戯《いたずら》っぽい笑みを浮かべて、逸勢に向かって軽く頭を下げてみせた。  見物人たちの視線も、空海に注がれている。 「空海よ、おまえ、今の蛇に何をした? おれも、今、あの蛇が宙を飛んでゆくのを見たぞ——」  逸勢が、空海の傍《そば》にやってきた。 「なに、おまえも洛陽《らくよう》で見たろう」 「洛陽でだと?」 「丹翁《たんおう》という方士がやって見せた、植瓜《しょっか》の手妻《てづま》を、やってみせたのさ——」 「あれをか?」 「そうだ」 「おれはまた、本当にあの蛇が空を飛んだかと見えたぞ」 「飛びはしない」 「では、あの蛇はどこに行ったのだ——」 「それより、逸勢よ、食事はあきらめて、ひとまず、ここから去ろう。人目が多い。それに、あの五坊小児の男たちがもどってきたら、面倒なことになるからな——」  空海は、逸勢をうながして歩き出した。  それに、逸勢が続く。  しばらく、視線でふたりを追っていた見物人たちも、空海たちが通りの角をひとつ曲がると、気にならなくなった。  ほどよく歩いたところで、空海は、一本の柳の樹の下に立ち止まった。  柔らかな緑が風に揺れているなかで、空海は、左袖の袂《たもと》の中に、右手を差し込み、そこからさっきの蛇を取り出した。 「そんなところに入れていたのか、おまえ——」 「そうだ。この蛇は、ここで放してやろう」  空海が、その蛇を地面に置くと、蛇は、するすると地面を這って、近くの家の陰に隠れて見えなくなった。 「空海よ、おまえ、怖ろしい男だな」  蛇が、見えなくなるのを待って、逸勢が言った。 「何故だ?」 「そんなことができるからだよ。うっかりおまえに近づけなくなりそうだ」 「逸勢よ、それは違うぞ」  と、空海は言った。 「何が違う」 「だからよ。何かができることと、その人間が恐いということとは別の問題なのだ」 「おまえ、また、難しいことを言おうとしているな」 「難しいことではない。たとえば、ここに、一本のよく切れる刀《とう》があったとするだろう」 「うむ」 「その刀が恐いか?」 「恐くはない。まさか、ただそこにあるだけの刀が、おれに襲いかかって来るわけもないだろうからな」 「では、その刀を、誰かが持っていたとすると、どうだ」 「その刀を、誰が持っているかによるだろうな——」 「その通りさ、逸勢」 「何がその通りなのだ」 「つまりだ、逸勢よ、おまえに対して、危害を加えてやろうとか、おまえから銭を奪ってやろうという人間が、その刀を持っているから恐いのだ。おまえと親しい人間が、いくら、どのような刀を持っていようが、槍を持っていようが、それは恐くはないであろうが——」 「それは、その通りだ」 「だから、逸勢よ、刀が恐いのではない。おまえが恐いという時、それは、その刀を持つ人間の心根が怖いということなのだ。刀そのものが恐いというのではない——」 「なるほど——」 「植瓜の術と同じだ。植瓜の術そのものは、刀と同じだ。それ自身に恐怖を抱く必要はない。誰が、その刀を、技術《わざ》を持っているのかという、そのことをこそ、心配すべきなのだ」  と、空海は言った。 「うむ」 「逸勢よ、安心しろ。おまえがおれを怖れることは何もない——」  空海は、逸勢の肩を軽く叩き、微笑した。  声がかかったのは、その時であった。        (六) 「もし、御坊《ごぼう》——」  男の声であった。  空海と、逸勢が、その声のした方を向いた。  すると、そこに、ひとりの男が立っていたのである。  実直そうな、意志の強そうな貌《かお》をしていた。  その男が、微笑しながら、歩み寄ってきた。 「いやあ、そういう理由《わけ》だったのですか。驚きましたな、わたしには、宙に翔《と》んだ蛇と、あなたが袂にお入れになった蛇と、二匹が一緒に見えてしまい、どちらがいったい本物の蛇であるかよと、考えていたのですよ」 「おや、どちらもお見えになっていたのですか——」 「ええ。しかし、あなたが今、あそこでやったあれは、おおいに、胸のつかえをとりましたよ、わたしは、彼等のやり方に、我慢がならなくてね」  言ってから、彼は、あわてたように頭を下げ、 「失礼いたしました。自己紹介が遅れて申しわけありません。わたしの名は子厚《しこう》と言います」  そう言った。 「空海です」 「橘逸勢です」  と、空海と逸勢は名告《なの》った。 「あまり、耳にしない御名ですね。唐の方ですか?」 「いえ、わたしは倭国から、お国にやって来た、留学僧《るがくそう》です」 「わたしも、倭国から、儒学を学びに来た、留学生です」  ふたりは言った。 「しかし、それにしても、空海さんは唐語がお上手ですね」 「いいえ、まだ、とても、お国の方のように使いこなすまでにはいきません」 「それよりも、さっきは、お食事をされようとしていたわけですね」 「はい。でも、喰べそこねました」 「それなら、この先に、わたしの知人がやっている酒家があります。そこで、お食事でも一緒にいかがですか——」  空海と逸勢は、誘われるままに、子厚と共に行き、入ったのが�青山《せいざん》酒家�という、店であった。  そこで、空海は、子厚と名のる男と話をしたのであった。 「空海さん、今の唐の政治をどのようにご覧になりますか」  と、子厚は言った。 「難しい御質問ですね」 「では、こう訊きましょう。この国の民は幸福に見えますか?」 「それもまた、難しい質問のようですね。わたしのいた倭国よりも、唐は——いえ、この長安は、ずっと先に進んでいます。暮らしぶりも倭国の感覚からすれば、豊かな人々が多い。同じ貴族でも、長安の貴族と倭国の貴族とでは、その華やかさは比べものになりません。しかし——」 「そうです。しかし、暮らしぶりが進んでいるということと、人が幸福であるかどうかということとは、また別のことです」 「はい」 「今、唐の民は、疲弊しています。民は重い税に苦しめられ、貴族は貴族で、保身と出世で躍起《やっき》となっており、民のことまでは、とても頭がまわりません」 「ええ」 「唐は、その盛りをもはや過ぎてしまったのではないかとわたしは思っているのですよ。今は、やっと、洛陽と長安だけが、その華々しさを残しているのですが、その実情は、先ほど、あなた方がご覧になった通りなのです」  子厚は、情よりも、理によって言葉を選びつつ話す人間のようであった。  しかし、その理の裏側には、胸が苦しいほどの、情が溜められている——そのように見えた。 「機会さえあれば——」  と、子厚は言った。 「機会ですか?」 「はい。もし、わたしに、そのような機会さえあれば、わたしは、この国を、今よりはもう少し、それは、ほんのわずかかもしれませんが、今よりは、もう少し、民にとって住みやすい国にできると思うのです。少なくとも、そのことに生命をかける機会さえあれば、わたしは、喜んで、そのことのためにこの生命を捧げますよ——」  酒が入り、やや饒舌《じょうぜつ》になった子厚は、熱い胸の裡《うち》のものを吐き出すように、そう言った。 「機会さえ、あれば……」  ひとしきり、空海と逸勢は、子厚と唐の話をし、詩の話をし、そして倭国の話をした。  酒がすすむうちに興がのって、店の者に硯《すずり》と墨を出させ、筆と紙を用意させて、子厚がさらさらと詩を書きつけた。  その詩に、空海が詩で返す。  逸勢もまた、珍しく筆をとって詩をひねり出す。   |倭 国一片雲《やまとのくにいっぺんのくも》  という詩句で始まり、「青風尽きるとも我が志の尽きること無からん」で終る、なかなか歯切れのよい詩であった。  子厚は、空海と逸勢の字の巧みさに驚き、特に、空海の詩句を造り出す才の鮮やかさには、賛嘆の声を惜しまなかった。  ほどなく——  店の前で別れた。 「民の幸福《しあわせ》か……」  子厚の背を見つめながら、空海は、ぽつりとつぶやいた。 「何が幸福かどうかを考えるのは、難しい問題だな」 「何故だ?」  と、逸勢が空海に言う。 「人の欲望は、果てしが無いからだ……」 「——」 「心に志を抱くという生き方もまた厳しいものだな……」  空海の言葉に、 「ふうん……」  逸勢は、何やら自分なりに思うところを納得したようなうなずき方をしたのであった。        (七)  柳宗元《りゅうそうげん》、字は子厚。  中唐《ちゅうとう》を代表する文人である。  先祖は、河東《かとう》すなわち後《のち》の山西省に住んでいた。  宗元の何代か前から長安に住むようになり、宗元自身も、長安で生まれている。  生まれたのは、唐の大暦八年| 癸 丑《みずのとうし》(七七三)である。  同時代の文人、韓愈《かんゆ》より五歳の年少であった。  劉禹錫《りゅううしゃく》の『柳宗元集』の序に、 �子厚始め童子を以て貞元《ていげん》の初めに奇名《きめい》有り�  と記されている。  貞元の初め、貞元元年(七八五)には、柳宗元は十三歳である。その頃から�奇名�があった——つまり、目立った存在であったと、その序は記しているのである。  それは、決して世辞ではなく、若いうちからその才は他人より秀《ひい》でていたらしい。  事実、宗元は、貞元九年、二十一歳のおりに科挙《かきょ》の試験を受け、進士《しんし》に及第している。  あの才人韓愈が二十五歳で及第したのよりも、四歳早い。  しかし、その年に、宗元は父を亡くしている。  それから五年後の貞元十四年には、博学宏詞科に合格し、集賢殿正字《しゅうけんでんせいじ》、図書|校勘《こうかん》係を命ぜられている。  翌十五年、宗元二十七歳のおりに、妻の楊《よう》氏が死んでいる。子はなかった。さらに翌十六年、二つ歳上《としうえ》の姉が死に、さらに十九年には、長姉が死んで、三十一歳にして、宗元はきょうだいを全て亡くしたことになる。  その十九年に、監察御史裏行《かんさつぎょしりこう》となり、宗元は、一年足らずの間、韓愈と机を並べている。  その年の冬に韓愈は陽山の令に左遷され、その韓愈と入れ代わるようにして、劉禹錫が監察御史となったのである。  この頃、柳宗元らを始めとする若手官僚たちが、皇太子の李誦《りしょう》の信任のあつかった王叔文《おうしゅくぶん》、|王※[#「にんべん+丕」、第4水準2-1-35]《おうひ》等を中心にして、ひとつの政治勢力を作っていたのである。  空海が長安に入ったのは、翌二十年の十二月であった。  そのさらに翌年の一月、徳宗皇帝が崩御《ほうぎょ》して、李誦が順宗皇帝となったのである。  それが今年だ。  それによって、李誦に近かった王叔文や、王|※[#「にんべん+丕」、第4水準2-1-35]《ひ》が重い役にとりたてられたのである。  王叔文と関係の深かった柳宗元も、これで政治を動かす側の人間となったのである。  そして今、柳宗元は、優渓《ゆうけい》の宿駅《しゅくえき》にある小さな飯店《はんてん》で、空海と向きあっているのである。  柳宗元の隣りには、白楽天が座している。  空海の隣りには、橘逸勢が座している。 「機会を手になさったようですね」  空海は言った。  一月に会った時、柳宗元は、空海に、自分はもう少しこの国をよくしたいのだと、告げている。機会さえあれば、自分は喜んで、そのことに生命をかけるつもりでいるのだと。  その言葉をふまえての、空海の発言であった。 「ええ。しかし、その機会は、長くはないでしょう」 「皇太子——いえ、順宗皇帝の御病気のことを言っておられるのですね」 「はい」  柳宗元は、うなずいた。  前の年の九月に、李誦は脳溢血《のういっけつ》で倒れている。  その後遺症で、皇帝となった今でも、自由に身体を動かすこともできず、ほとんど口も利《き》けない状態であった。  この時、王叔文はすでに、翰林学士《かんりんがくし》、起居舎人《ききょしゃじん》となっている。  王|※[#「にんべん+丕」、第4水準2-1-35]《ひ》も、すでに、その時、左散騎常侍《ささんきじょうじ》になっている。  王叔文がなった役職�起居舎人�というのは、天子の傍にあって、天子の言行を記録する係である。常に、天子のそばにいるため、それだけでもかなりの実権を握っていることになる。  王叔文は、もともとは皇太子李誦の碁の相手として登用された人物である。その王叔文が、天子となった李誦の言葉をじかに聞き、天下を動かすことのできる立場になっている。  王叔文も、王|※[#「にんべん+丕」、第4水準2-1-35]《ひ》も、それまで権力をほしいままにしていた京兆尹《けいちょういん》——つまり長安市長であった李実《りじつ》の失脚後、かなり強引な改革を行なっている。  後宮の女たちを自由にし、�宮市�を廃止し、賄賂《わいろ》を受け取っていた役人たちの多くを左遷した。  それで、改革派の王叔文たちは、旧体制派の人間たちに、だいぶ恨まれている。  もし、順宗皇帝が死ぬか、自分の皇帝の位を誰かに譲ってしまったら、王叔文も、王|※[#「にんべん+丕」、第4水準2-1-35]《ひ》も、たちまち失脚することになろう。  そして、その日はそれほど遠くはないであろうと、空海は考えている。  しかし、王叔文らを中心として行なわれた改革は、長安市民の喝采《かっさい》をもって受け入れられた。  李実の失脚に、喜んだ人間は、役人にも市民にも無数にいた。  李実の税の取りたては厳しく、不足が一銭|一厘《いちりん》であっても許さなかった。たとえ、役人であっても、規定の税を取り立てなかった者は殺された。  一般の市民が、税を納めなかったり、納めてもそれが不足していたりした場合は、推して知るべしであろう。 �二月|辛酉《しんゆう》、詔《しょう》して京兆尹の道王|実《じつ》の残暴《ざんぼう》|※[#「てへん+倍のつくり」、142-1]《ほう》斂《れん》の罪をかぞえ、通州長史に貶《おと》しむ。市井、讙呼《かんこ》、皆|瓦礫《がれき》を袖《そで》にして道を遮り、之《これ》を伺《うかが》う。実《じつ》、間道に由りて免るるを獲《え》たり——�  当時の記録に、そのように史家は記している。  このような王叔文らの改革は、しかし、敵をも多く造り出していた。  権力を奪われた宦官《かんがん》たちは、やはり、左遷させられた貴族や軍人たちと裏で手を握り合い、王叔文の失脚を画策《かくさく》しているという。そういう噂は、空海や逸勢の耳にまで届いている。  王叔文らの政敵が、この時期に、順宗皇帝の病《やまい》を利用しないはずがない。  そういうことを含んでの、柳宗元と空海の会話である。  空海と宗元は、まさしくそういう時期に、優渓で顔を合わせているのである。 「お忙しい時期なのではありませんか」  空海は、宗元に言った。 「それはもう——」  宗元は、愚直なほど正直にうなずいた。 「このような時期に、どうして、こちらへいらっしゃったのですか」 「このような時期だからこそ、わたし自身がここまでやってきたのですよ」 「それは、どういう意味でしょう」 「空海さん、あなたは、もうすでに色々御存知でしょうから、素直に申しあげましょう」 「はい」 「これから、あなたが向かわれる徐文強の綿畑で何があったかは、わたしも聴き及んでいます——」  柳宗元は、すでに空海の知っている、徐文強の綿畑での一件について、短く語った。  続いて、柳宗元は、 「空海さんは、最近、大街で起きている、高札の件は御存知ですか?」  そう訊ねてきた。 「はい。耳にしています」 「あの高札もまた、皇帝の死についての予言です」 「はい」 「それからもうひとつ。金吾衛の役人の、劉雲樵《りゅううんしょう》の家にも、昨年あたりから猫の妖物が出るようになって、この猫もまた、徳宗皇帝の死を予言したりしました。この件については、空海さんの方が詳しいでしょう。あなたは、この件についても、関わっておいででしたね」 「はい」 「劉雲樵の家の猫の妖物、徐文強の綿畑の声、そして、大街に立てられてゆく高札——わたしは、この三つの件は、もしかすると、どこかで関わりがあるのではないかと思うのですよ——」 「はい」 「順宗皇帝のお生命《いのち》は、我々の生命と等しい——」  柳宗元は言った。  もし、順宗がこの時期に死ねば、王叔文は失脚する。  失脚、すなわち、死である。  ひとまず、地方へ左遷させられて、しばらくのうちに毒殺されるか、何かの理由をつけて、正式に死を賜《たまわ》る知らせが届くことになる。  悪くすれば、柳宗元も、死を賜ることになるかもしれない。よくても、地方への左遷である。  この場合、左遷というのは、本人ひとりのことではない。家族ぐるみ、一族ぐるみの左遷である。 「我々は、まだ、この都でなさねばならぬことが無数にあるのです。それに比べて、時間は極めて少ない——」 「焦っておいでなのですね」 「焦るのはよくない。それはわかっているのです。しかし、焦ってしまう……」  宗元は、溜め息をついて、 「この件は、順宗皇帝のお生命に、つまり、順宗皇帝も含めた我々の志に関わることなのです。だから、わたしが来たのです」  そう言った。 「宮中では、現皇帝の父である徳宗前皇帝のお生命を縮めたのは、我々ではないかと、あらぬ噂を流す輩《やから》もおります。李誦皇太子が倒れたので、ことを急いだのだと——」 「——」 「そういう噂とも、我々は闘わなくてはなりません」 「ええ」 「わたしはねえ、空海さん、保身などということは、志の下賤《げせん》な人間がやるものだと思っていました。しかし、今の立場になってみると、その保身をせねばならなくなっているのです。自分の身が可愛くて言うのではありません。志のために、保身をせねばならないのです。時には、このわたしが——」  柳宗元は言葉を切って、深く息を吐き出し、 「——自らの手を汚さねばならないこともあるのです」 「——」 「時々、わたしは、自分が今やっていることは、何の意味もないことなのではないかと思うことがあります。結局、自分がやっているのは、世の中にとっては何ほどのこともないのではないか。権力の中身が入れかわるだけで、民にとっては、我々も、李実も、結局同じことをやろうとしているのではないかと——」 「——」 「心が、萎《な》えそうになる時があるのです」 「でも、逃げようとは思ってはいらっしゃらないのでしょう」 「ええ。これしかないのです。わたしには、他に逃げる場所がないのですよ」  柳宗元は、隣りの白楽天に眼をやり、 「白居易《はくきょい》は、わたしとは、少し違う考えを持っているようですがね」 「違う、というと?」  空海が、白楽天に視線を向けた。 「おれは、| 政 《まつりごと》向きじゃないからね」  白楽天は、拗《す》ねたような言い方をした。 「この男は、情《じょう》が濃いのですよ。情が濃すぎるのです」  柳宗元が言った。 「情が、濃い?」  空海が訊く。 「政に、むろん、情は必要ですが、情に流されてはいけません」  と、柳宗元は、白楽天を見やって、 「さっき、わたしは、逃げるつもりはないと言いました。たとえば詩文とかの情へね。しかし、逆に言うなら、白居易には、その情があるということですよ。わたしも、詩文をいじったりしますが、しかし、その詩文のためには、生命はかけられません。しかし、白居易は——」 「おれだって、生命をかけるつもりはないさ——」  白楽天は、柳宗元の言葉を遮《さえぎ》るように言った。 「おれの話はいいから、そちらの話を続けたらどうなんだ」 「そうだったな」  柳宗元は、顎を引いて、白楽天に向けていた視線を空海にもどした。 「実は、空海さん。あなたにお願いしたいことが、ひとつふたつありましてね」 「なんなりと、おっしゃってみて下さい」 「ひとつは、もう、申しあげました。それは、今日、これからご一緒させていただくことです」 「もうひとつは?」  空海に問われて、柳宗元は、自分の周囲《まわり》の人間たちを見回した。  空海、橘逸勢、柳宗元、白居易、それから張彦高、兵士がふたり、そして大猴《たいこう》がいる。 「わたしに話してよいことなら、そちらの大猴にも話してよいことです」  空海が言った。 「ああ、その通りです。空海さん。わたしは、あのおり、あなたが蛇を隠すのを見たのでした。あの時の、あなたの義侠心《ぎきょうしん》というか、あの心を信じましょう」 「それで?」 「はい。実は、文《ふみ》をひとつ、解読していただきたいのです」 「文!? 文ならば、わたしごときが出るまでもなく、あなたでも十全に解読できるのではありませんか——」 「それが空海さん。あなたのお国の言葉で書かれたものなのですよ」 「倭国の言葉で?」 「そうです」  柳宗元がうなずいた。 「今、お手元にありますか?」  空海の言葉に、柳宗元が、首を左右に振った。 「さるところに置いてあるのです」 「その文は、やはり、この件に関係があるのですか——」 「はい。わたしは、そのように考えていますが——」 「しかし、倭国の言葉ならば、わたくしに頼らずとも、この長安になら、他にも色々といらっしゃるのではありませんか」 「それが、お恥ずかしいことですが、倭国の言葉ができて、しかも、信用できる者というのが、身近におらないのです」 「ははあ——」 「空海さん。さきほども申しましたように、我々には、もうあまり時間がないのです。色々とその人について調べ、しばらくのおつきあいをさせていただいて、その後にという、普通の人にとってはあたりまえの手つづきを、我々は踏んではいられないのです」 「わたしならばと——」 「普通の手つづきを踏んでいられないのなら、直感を信ずるしかありません。白楽天からあなたの名を聴き、そして、張彦高からもあなたの名を耳にして、わたしにはすぐ、その空海が、あの時の空海であることがわかりましたよ。ならば、もう、考えるまでもありません」 「とにかく、でき得る限りのことは、いたしましょう」 「ありがたい」 「ところで、その、倭国の言葉で書かれている文のことなのですが、いったい、どういう方が書かれたものなのですか——」 「あなたも、御存知でしょう。晁衡《ちょうこう》先生ですよ」 「晁衡!?」  空海がこの名を反芻《はんすう》した時、 「安倍《あべの》仲麻呂《なかまろ》ですね!?」  それまで黙っていた逸勢が、声を大きくして言った。 「ぜひ。ぜひ、それを見せて下さい。こちらからお願いしたいくらいです」  逸勢は、興奮を隠しきれない口調でそう言った。  安倍仲麻呂。  安倍|船守《ふなもり》の子として、七〇一年——李白と同じ年に生まれている。  七一六年、十六歳の時に遣唐留学生にあげられ、翌七一七年、吉備真備《きびのまきび》や僧の玄肪《げんぼう》らと共に、第八次の遣唐使|多治比県守《たじひのあがたもり》について唐へ渡ったのが、八十八年前である。  時に、玄宗《げんそう》皇帝の時期であり、李白や杜甫《とほ》もまた、その当時、長安へ向かって集まりつつあった頃であった。  連綿《れんめん》と続く唐王朝に咲いた大輪の花、玄宗皇帝と楊貴妃の恋の物語は、その時、まだ始まってはいなかった。        (八)  春の野を、馬でゆく。  柳宗元。  白楽天。  空海。  橘逸勢。  張彦高。  大猴。  それぞれが、それぞれの思いを胸にひめつつ、馬は、始皇帝陵《しこうていりょう》の横を過ぎ、春の野を進んでゆく。  風の中に、柳絮《りゅうじょ》が飛んでいる。        (九)  すでに、一行は目的の場所にいた。  一面に、柔らかな淡い緑が、風に揺れている。  まだ、若い綿の緑は、眼に傷々《いたいた》しいほどだ。  風が動くと、その風が動く方向に、次々にその若葉がうねってゆく。  なだらかな丘を、風は、若葉を揺らしながら駆け登り、ふいに、その上の、雲を浮かべた蒼天《そうてん》に消える。  風の方向は、一定ではない。  しかし、かといって、まるででたらめに吹いているわけでもない。  眼に見えぬ大気の呼吸に合わせている。  その若葉が風に踊る様は、見ていて心地良い。  畑の所々に見えている柳も、さかんに、風にその新芽の出た枝を揺らしている。  なんという広々とした大地であろうか。  空海は、その広い大地と天との中心に立って、豊潤《ほうじゅん》な大気を、思うさま、呼吸している。  自分の肉が、たやすく、この天地と一体になってしまいそうであった。  肉体は、天の一部なのだと思う。  この大地の一部だと思う。  肉体は、この風の一部であり、この眼に見えるもの、見えぬもの、それらのありったけを含めた宇宙の一部なのだ。  心もまた、そうだ。  心でさえ、肉体の一部である。  肉体でさえ、心の一部である。  理屈でない。  空海は、それを体感し、実感している。  空海は、曼陀羅《まんだら》の中に立っていた。  空海は、うっとりと、その曼陀羅に酔ったように、そぞろに歩き出した。  遠くから、逸勢が、心配そうに空海を眺めている。  その横に、大猴。  その横に、白楽天。  その横に、柳宗元。  その横に、張彦高。  その横に、徐文強。  そして、兵士が数人。  逸勢の心臓の鼓動が、手にとるように伝わってくる。  眼に見えているもの、見えぬもの、感ぜられるもの、感ぜられないもの、それ等の全てのものが、見えぬ糸でつながり合っているのがわかる。  瞑想《めいそう》状態に入り、天の甘露をその肉体に味わうように、周囲のものを、空海は自分に受け入れた。  その途端に、視覚力、知覚力が、ふいに倍化したようであった。  空気の味までが、その舌でわかる。  自分の肉体、瞑想力が、唐に来てから、さらに砥《と》ぎ澄まされているのがわかる。  この天地に、空海は酔っている。  心地よい。  これほどのものであったか、と思う。  倭国にある時、室戸《むろと》岬で、半月も座り続けてたどりついた境地に、今は、ごくわずかな時間でたどりついてしまった。  あの時、自分は明星をこの口に呑んだのである。  あの時ほど、濃厚なものでないにしろ、肉体は、今、逆に透明感を増しているようであった。  わかる。  わかる。  大地の中から、伸び出そうとしている、草の芽の力が、わかる。  無数の草。  無数の虫。  微細な生命の群。  それらを合わせれば、信じられないほどの強い力が、この大地の中に、今、眠っており、そして、眼覚めようとしているのである。  そして——  それ等の、狂おしいほどの生命の力とは別に、別の力が、この大地のどこかに眠っている。  それが、わかる。  空海は、自分が、その暗い力の方向に向かって、あやまたず進んでいることがわかっていた。  ああ——  空海は、自分が、すでにその上に立っていることを知った。  その上を、歩いている。  しかし、なんと広い範囲に、それはわたっていることだろう。  まだまだ。  そして、さらに向こうまで——  空海は、歩き、そして、そこに立ち止まった。  ここだ。  ここが、その中心だ。  空海は、そこに立って、深い大地の底を見下ろすように、自分の足元に視線を落とした。  この下の土の中に、累々《るいるい》と、何者かが横たわっている。  ひとつ……  ふたつ……  みっつ……  それだけではない。  無数の、数えきれないほどのものだ。  生命の持つ力ではない。  そうではない、別の、ふっと背の中心が寒くなるような、得体の知れない力が、自分のこの足の下に眠っている。  それがわかる。 「そこですよ、空海さん……」  遠くから、徐文強の声が届いてきた。  やはり、ここか。  空海は、うなずいた。  ゆっくりと、向こうに立っていた男たちが、空海のいる場所に向かって、歩いて来る。  強烈な呪《しゅ》をかけられたものが、この下に眠っている——  空海は、自分に向かって歩いて来る男たちを眺めながら、冷静に、それを実感していた。  それにしても、何という——  空海は、今さらながら、自分が巻き込まれたものの大きさについて、実感していた。 [#改ページ]    第十五章 呪俑        (一)  春の陽差しの中で、数人の男が、鍬《くわ》をふるって土を掘っている。  徐文強《じょぶんきょう》の、広大な綿畑の中ほどである。  掘っているのは、徐文強のところの小作人と、大猴《たいこう》である。  五人がかりであった。  掘り始めて、半日近く。  すでに、穴は、人の背丈よりも深くなっている。身体の大きい大猴が、穴の底に立って手を伸ばしても、縁に手が届かない。  上から、真下に向けて掘り始めたのだが、穴が深くなるにつれて、土を上に出すのに手間がかかるようになった。  それを見ていた空海が、指示をした。 「上から下に掘るのではなく、斜めに坂道を造るようなつもりで——」  穴の広さ、掘り進んでゆく角度を空海が決め、さらに掘る人間と、掘った土を外へ運び出す人間とをわりあて、交代でその作業ができるようにした。  空海がその指示を出してから、作業が倍近くはかどるようになった。  それを見ていた| 橘 逸勢《たちばなのはやなり》が、 「空海よ、おまえ、妙な才能があるのだな」  そう言った。  空海の指示は的確で、傍眼《はため》にも、効率よく穴が深くなってゆくのがわかる。  後年、日本に帰朝してからも、空海は、さまざまな土木工事を手がけている。  空海の故郷である讚岐《さぬき》においても、その難しさのため専門家が投げ出した満濃池《まんのういけ》の築堤工事を、空海が完成させている。  もとの池の周囲はおよそ四里。面積は八十一町歩。池床は七箇村、神野村、吉野村の三カ村にまたがり、数百の集落が、灌漑《かんがい》用水をこの池に頼っていた。それが、毎年、大雨のたびに堤防が決潰《けっかい》し、人家や田畑を冠水させるだけでなく、牛や馬や、人間を殺す。そうなれば、作物はとれず、疫病が流行《はや》る。  およそ、一年がかりで役人や専門家が工事を進めていたのだが、ついに匙《さじ》を投げて、空海にその仕事を依頼したのである。  その工事を、空海は、およそ一カ月余りで完成させている。  土木工事は、一種の理詰《りづ》めの作業である。  人馬の| 力 《エネルギー》を効率よく使い、理にかなった手順と方法の中で、理にかなった構造物を造る——そういう理について考えるのに、空海の頭脳は適しているらしい。  さらに書いておけば、人を動かすことに、空海は長《た》けている。人をその気にさせるのが、空海はうまい。 「最近は穴掘りばかりさせられてるね、空海先生」  大猴が、土を掘りながら、穴の中から空海に声をかける。  大猴は、空海に見られながら仕事をするのが、本当に楽しいらしい。上半身裸の大猴の肌に、泥がつき、その泥が汗と一緒に流れ落ちる。  穴の外には、たっぷりと冷たい水の入った瓶《かめ》が置かれ、いつでも、柄杓《ひしゃく》でその水を飲めるようになっている。  空海と逸勢だけでなく、柳宗元《りゅうそうげん》、白楽天《はくらくてん》、張彦高《ちょうげんこう》、徐文強も、すぐ向こうの、柳樹《りゅうじゅ》の木影に設けられた椅子には座らず、穴の縁に立って、中を見降ろしている。  掘っている穴の中から、いつ、何が出て来るのか、それを自分の目で見たいと思っているらしい。  穴の深さは、一番深い場所で、もう、九尺余りになっている。 「まだ掘りますかね、空海先生——」  大猴が言う。 「まだまだ、何か出てくるまでだ」  空海に言われなくても、大猴の手は動いている。  強い土の香りが穴から立ち昇ってくる。 「なあ、空海よ。いったい、何が、ここに埋まってるんだ?」  逸勢が訊《き》いた。 「わからん」  と、空海は、穴を見降ろしながら言った。  と、その時——  金属が、何か、堅いものにぶつかったような音が、響いてきた。 「何か、ありますぜ」  穴の中で、大猴が言った。  大猴がふるった鍬の先が、地面の中で、何か堅いものに触れたのだ。  柳宗元を始めとして、穴の周囲にいた連中が、身を乗り出して、穴の中を覗《のぞ》き込んでいる。  穴の中で作業をしていた他の人間も、動きを止めていた。 「何ですかね」  と、大猴。  その堅いものの周囲に何度か鍬を打ち込んで、大猴は、その鍬を穴の底に置いた。膝を突き、素手で、土を掻《か》きのけてゆく。 「ややあ——」  大猴が、声をあげた。 「空海先生、こいつは人の頭ですぜ」  大猴は、それ[#「それ」に傍点]から泥をはらいのけて立ちあがり、穴の上から覗いている人間たちにもそれ[#「それ」に傍点]が見えるように、脇にのいた。  確かに、それは、人の頭部であった。  しかし、むろん、本物の人のそれではない。造りものの人の頭部である。 「よく見えぬ」  そう行って、空海は、穴の底へ降りていった。  空海に、柳宗元、白楽天、橘逸勢が続く。かわりに、穴を掘っていた男たちが外へ出、大猴だけがそこに残った。  五人が立ってそれ[#「それ」に傍点]を囲むと、かなり広めの穴が、いっぱいになった。  それは、ほぼ等寸《とうすん》の、人の頭部であった。  それが、穴の底の土の中から、首だけ出している。  空海が、しゃがんで、それ[#「それ」に傍点]に手を触れる。  堅い。  しかし、それは石の堅さではない。 「焼きもの——俑《よう》のようですね」  空海が言った。  それ[#「それ」に傍点]は、髭《ひげ》をはやしており、頭には髻《もとどり》がある。その顔、眼、鼻、口、耳——造りものとは思えぬような、写実的な作りである。 「この手[#「手」に傍点]は、いつの頃の様式ですか?」  空海が、誰にともなく訊いた。 「わからぬ」  柳宗元が、皆の意見を代弁するように、そう言って首を左右に振った。  皆の後から穴の底に降りてきた張彦高が、逸勢の後方からその首を覗いて、 「こ、これですよ」  声をあげた。 「いつぞやの晩、ここの土の中から出てきて、いずこかへ消え去った者は、たしかに、このような顔つきの者でした」  張彦高の声は、興奮と、わけのわからない不安のため、震えていた。        (二)  夕刻までに、二体の俑が、穴の底から掘り出された。  それが、穴の縁に盛りあげられた土の横に立てられている。  人——それも、兵士の立像であった。  実際の人間よりも、ひとまわり以上は大きい。  大猴とあまりかわらない。  一体目を掘っている時に、 「やや、もうひとつ、同じようなのが埋まってますぜ」  大猴がそれを見つけたのである。  で、その二体を掘り出すため、穴を広げている最中に、さらに別の四体が見つかった。 「こりゃあ、きりがありませんぜ」  それで、とにかく最初の二体のみを、とりあえず掘り出すことにしたのであった。  その二体が、傾いた午後の陽を浴びて、皆の前に立っている。  その兵士は、二体とも、戦《いくさ》用の甲衣を着ていた。  むろん、本物ではなく、俑の一部である。足には履《くつ》をはいていた。ひとりが方口《ほうこう》の斉頭履で、もうひとりが、高筒靴である。  その二体は、どちらも髭をはやしていたが、顔だちは違う。  一方は、右手に剣を下げていた。  その剣は、俑の一部ではなく本物であった。  実際にその兵の俑が握っていたのではなく、その足元に落ちていたのだ。しかし、その兵の俑の右手が、いかにも剣を握っているかのようなかたちに握られており、親指と他の指とが、その間に何かが入っていたかのような、丸い空間を造っている。  その足元に落ちていた剣は、そこに握られていたのだろう。  もう一体の兵は、槍であった。  こちらの方は、まだ、その手に銅矛《どうほこ》の形状をしたものを握っていたが、掘り出す時にぼろぼろに崩れ、結局、穂先の銅の矛先《ほこさき》が掘り出されただけであった。  履の下に、台があり、その台の上に、そのふたりの兵士は立つかたちになっている。 「やはり、俑のようですね」  空海が、その二体を眺めながら言った。  俑——�甬�が�よう�という音を表わし、�にすがた�の意を持つ。�イ�が�人�という意味を表わしている。  つまり、人型の像ということになる。  陶俑《とうよう》——陶の俑であった。焼き物の俑ということだ。 「いや、みごとな——」  柳宗元が、賛嘆の声をあげた。  白楽天は、言葉もなく、どこか怒ったような表情で唇を噛《か》んでいる。 「なあ、空海よ、これが俑ということは、つまり——」  逸勢が、そこまで言って、その先を口にしたくないとでも言うように、言葉を呑《の》み込んだ。  俑というのは、王の墓に埋める人型の人形のことである。墓に副葬する葬具の一種だ。  木でそれを造れば木俑であり、陶で造れば陶俑と呼ばれる。  始めは、人が、その王の屍体《したい》と共に、殉死者として、その墓に葬られていたのだが、それが、後にとってかわり、俑となった。 [#ここから2字下げ] 始作[#レ]俑者、其無[#レ]後乎、 為[#二]其象[#レ]人而用[#レ]之也。 [#ここで字下げ終わり]  と、孔子の言葉にある。 「場所からして、始皇帝さまのものということだろう」  空海が言った。  空海は、背後を振り返った。  向こうに、秦始皇帝の陵墓がそびえている。高さ、およそ四十五間(八〇メートル)、東西南北それぞれ、二〇〇間余り(三六〇メートル)にわたる陵墓である。  それは、人間が造った、巨大な、小高い丘だ。  空海の立つ綿畑のその場所は、始皇帝の陵墓の東側——およそ一・八キロメートルのあたりである。 「であろうな」  柳宗元が言った。 「ということはだ、それが本当なら、これは、始皇帝さまが亡くなられたのが始皇三十七年だから……」  逸勢が、興奮した口調で言った。 「千年以上も昔のことだ——」  空海が言った。  秦始皇帝が、沙丘平台《さきゅうへいだい》に崩御《ほうぎょ》したのが、西暦でいう、紀元前二一〇年である。  空海が入唐《にっとう》し、長安にあったその年が、八〇五年。  正確には一〇一五年の歳月が、始皇帝の死後、過ぎていることになる。  なんと……  逸勢は、その時の流れの巨大さに、言葉もない様子であった。 「これと同様のものが、おそらく、この畑一面の地下に埋まっているはずです」  と、空海は言った。 「そんなに——」  悲鳴のような声をあげたのは、徐文強である。 「とても掘れませんぜ、そいつは——」  大猴が言ったが、笑う者はいない。 「それは、本当ですか?」  と、柳宗元が訊いた。 「本当です。先ほど、色々と歩きまわって、この地の気を調べてみましたが、まるで、死んだばかりの人の屍体が、この地中に埋められているようでした。それが、この畑一面……」  空海は、身にまとわりついてくる見えぬ蜘蛛《くも》の糸を、振りほどこうとでもするように、小さく身をゆすった。 「よほど大きな、強い呪《しゅ》が、この地にはかけられていますね。もっとも、始皇帝さまの陵墓とあっては、そのくらいはあってもおかしくはないでしょう。しかし——」  空海は、深い溜め息をついて、広大な綿の畑を見回した。  綿の新緑を揺らして、風が吹いている。  蒼《あお》い天には、夕刻の光を受けた白い雲が浮いている。  なんという……  この明《あき》らかな天の下に、なんという凶々《まがまが》しい気を持った想念が埋もれていることか。  それを感じとれない人間に、空海が今感じているものを説明するのは難しい。  しかし、皆の眼には、この土中に、累々《るいるい》と横たわる、夥《おびただ》しい数の俑の群が見えているようであった。  空海の沈黙を破る者はない。  ひとつの呪がこれほど広大な空間と時間を貫いている。 �なんと広いことか——�  唐というこの国の大地や人は、天と同じ広がりを持つものらしい。  小さく、歯の鳴る音が響いていた。  空海が、そちらを見やると、そこに、白楽天が立っていた。  白楽天は、小さく、その身を震わせていた。  天を見るとも、地を見るともない視線を白楽天は放ち、その唇を噛みしめようとしていた。  しかし、強い震えが、それをさせまいとしているようだった。だから、歯が触れあって音をたてているのである。  白楽天の視線は、遠い虚空——というよりは、己れの内側に向けられているらしい。  ある種の、強い熱情、感動のようなものが、今、この男の身を捕えているらしかった。 「彼《か》の、司馬遷の『史記』に、始皇帝の陵墓については、�三泉を穿《うが》ち銅を下して槨《かく》を致し、宮観と百官の位次をつくり、奇器・珍怪の蔵するものをうつしてここに満す�と記されています。その始皇帝の陵墓である地下宮殿を守るために埋められた兵士たちでしょう。我々は、今、伝説の、始皇帝の地下宮殿の一部を眼にしているのです——」  白楽天の、声もまた、震えていた。  この男は、今、自分の裡《うち》から溢れてくる、どうしようもない量の感情に、しゃべることで耐えようとしているらしかった。  始皇帝がやろうとしたのは、自分の死後、自分が住むための、壮大な地下宮殿の建設であった。地上の宮殿を、そのまま、地下に造ろうとしたのだ。  その工事は、一国家である秦の王、政《せい》が、他国を平定《へいてい》して始皇帝を名乗った年から始められたと言われている。  およそ七〇余万人の刑徒を使役《しえき》し、十二年余りの歳月を要しても、なお、完成を見なかったものである。  その地下宮殿も、後に、進撃してきた項羽《こうう》の軍によって、発《あば》かれ、放火されている。  白楽天は、その陵墓については、「草茫々」という詩を残している。 [#ここから2字下げ]  草茫々 草|茫々《ぼうぼう》たり 土|蒼々《そうそう》たり 蒼々、茫々、何《いず》れの処《ところ》にか在る 驪山《りざん》の脚下、秦《しん》王の墓 墓中、下は涸《ふさ》ぐ、三重の泉 当時、自ら以て深固と為す 下は水銀を流して江海を象《かたど》り 上は珠光を綴《つづ》りて烏兎《うと》と作《な》す 別に天地を其の間に為《つく》り 富貴を将《も》って身に随《したが》えて去らんと擬す 一朝、盗掘されて墳陵破れ 竜椁《りゅうかく》、神堂、三月の火あり 憐れむべし、宝玉、人間《じんかん》に帰し 暫《しばら》く泉中を借りて身の禍いを買う 奢なる者は狼藉《ろうぜき》にせられ、倹なる者は安し 一凶、一吉、眼前に在り 憑《ねが》わくは君、首《こうべ》を回《めぐ》らして南に向かいて望め 漢文(漢の文帝)は葬られて覇《は》陵原に在り [#ここで字下げ終わり]  しかし、その白楽天にして、これまでこの俑の存在は知らなかった。  柳宗元も、空海も、逸勢も、『史記』は読んでいる。  白楽天の言うことは、言われるまでもなく教養として頭に入っている。  だが、この、押し流されそうなほどの感情の量を有した詩人が、身の裡に沸きあがってくるものに、声を震わせている様《さま》を見ると、あらためて、今、自分たちが眼にしているものの意味が、その腹の中に染み込んできた。 「これですよ……」  張彦高は、声を殺して囁《ささや》いた。 「これでございます」  その声が高くなる。 「昨年の八月に、この綿畑の中から姿を現わしたのはこれでございます」  言ってから、張彦高は、首を左右に振った。 「いえ。これは地中にあったものですから、これそのものではありません。これとそっくりの、同じものといってもいいものが、あの時地中から出てきたのです」  その晩のことを思い出したのか、張の腰は、半分後方に逃げかけているが、足はさすがにそこに踏みとどまっている。  よく見れば、その俑の兵士の顔は、明らかに違う個性をもって造られている。  一方は、頬骨が出ていて、大きく眼をつりあげているのに対し、一方は、顔自身はのっぺりとしているが、鼻が横に大きく、眼は切れ長で細い。  偶然に、そのような貌《かお》だちのものを作ったというよりは、きちんとその俑の模写《もしゃ》の対象となった兵士がいたと考える方が自然であろう。  今にも、動き出しそうなほど、写実的な造りであった。  空海は、足を前に踏み出して、一体の俑のすぐ前に立った。  空海が、それに手を伸ばすと、 「空海さん!」  低いけれども、悲鳴に近い声を、張彦高が放った。 「大丈夫です」  空海が、その俑に触れた。  ゆっくりとその表面に指先を這わせ、指の関節を曲げて、そこで、それを叩いた。  音がする。  その音からも、さっき、大猴がそれを抱えた様子からしても、中が空洞であるらしいことがわかる。 「堅い、ただの、陶でできた俑です……」  空海はつぶやいた。 「もし、これが、人のように動こうとすれば、たちまち割れてしまうでしょう」 「しかし——」 「いえ、わたしは、張さんが幻を見たと言っているわけではありません。その時に、実際に、お仲間の方が、殺されたり、怪我をなさったりしたのでしょう?」 「はい」  張彦高が答えた。 「で、しばらく前に、また地中から声がして、また、この畑の土の中から、何かが出てくるのではないかと、そういうお話でしたね——」 「え、ええ」  ふむ——  というように、空海は黙考した。 「で、まだ、それは出てきてはいないのですね」 「はい」  答えたのは、綿畑の持ち主である徐文強である。 「夜は、おそろしくてこの畑にはいられないのですが、昼になれば、この畑を見て歩いておりますから——」  何かが、地中から出てきたような様子はないという。 「ならば、決まりました」  空海は言った。 「徐さん、ほどの良い大きさの茣蓙《ござ》と、酒、それから酒の肴《さかな》の用意をしていただけますか——」  え?  と、徐文強は、怪訝《けげん》そうな顔をした。 「まだ寒いかもしれませんが、今夜は、ここで、みなさんで宴をしながら、それが出てくるのを待ってみようじゃありませんか」 「ここで?」 「ええ。あなたの大切な綿畑を、少し荒らしてしまうことになりますが、今のうちに、そこの綿を、別の場所に植えかえておけば大丈夫でしょう。できるだけ、たくさんの、火の用意をしておいて下さい。寒いと思いますのでね」 「お、おい——」  逸勢が、空海に声を掛けてきた。 「心配はいらない。今夜は、雨は降らぬだろうさ」  空海は逸勢に言った。 「そういうことを言ってるのじゃない。大丈夫なのか、空海よ」 「わからん」  あっさりと空海は言った。 「逸勢よ、不安であれば、張さんのお宅で今夜過ごせばよい。皆さんも、ご無理はなさらぬよう。場合によっては、わたし独りでここで夜を明かしてもかまいません」 「おれはいるぜ」  と、大猴が言った。  柳宗元は、 「わたしも、残りましょう」  顎《あご》を引いてうなずいた。 「わたしも……」  白楽天は、空海を見つめながら言った。 「おう。それは楽しい。楽天さん、今宵《こよい》は、かの玄宗皇帝と貴妃のように、驪山《りざん》の月を眺めながら、詩でもいかがですか。ちょうど、ここには柳宗元先生もおられます。いや、楽しい宴になりましょうなあ——」  くったくない声で、空海は言った。 「逸勢はどうするのだ?」  と、空海は、逸勢を見た。 「う、うむ」  と、逸勢は唸《うな》り、 「おれも——残る……」  観念した声で言った。        (三)  酒を飲んでいる。  胡酒《こしゅ》である。  葡萄《ぶどう》で醸造《つく》った酒を、玉《ぎょく》の盃に受け、それを唇に運ぶ。  綿の畑のただ中に茣蓙を敷き、そこに、男たちが車座になって座している。  倭国《わこく》の空海。  橘逸勢。  希代《きたい》の詩人、白楽天。  孤高の文人、「江雪」の柳宗元。  彼等が、胡酒を酌《く》みかわしながら、気の趣《おもむ》くままに、詩を紙片に書き記しては、それを月光の中で朗朗《ろうろう》と吟《ぎん》ずる。  逸勢が終ると、 「どれ、では、次を私が——」  興に乗った柳宗元が、たちまち、さらさらと筆で詩を書きつけ、それを吟《よ》む。  むっつりとしている白楽天も、 「次はおまえの番だ」  柳宗元に筆を渡されると、あまり愛想《あいそう》のない顔で、 [#ここから2字下げ] 驪山辺地下宮殿 春夜皎月想秦王 胡酒欲飲無管絃 風索索月満玉盃…… [#ここで字下げ終わり]  それでもよどみなく詩を書き連《つら》ねてゆく。  それを、白楽天自らが吟《よ》む。 [#ここから2字下げ] 驪山の辺《ほと》り地下宮殿 春夜皎月秦王《しゅんやこうげつしんのう》を想う 胡酒を飲まんと欲するに管絃無《かんげんな》く 風は索索《さくさく》として月は玉盃《ぎょくはい》に満《み》つ…… ———— [#ここで字下げ終わり]  かなりの長さの詩を、にこりともせずに、天にむかって独言のように吟《うた》った。  情念が、みごとに美しく整えられた、この男らしい詩であった。  次が空海である。 [#ここから2字下げ] 耿耿星河南天月 玉盃掲天想太真 皎月含唇陶酔月…… [#ここで字下げ終わり]  それを空海が吟《うた》う。 [#ここから2字下げ] 耿耿《こうこう》たる星河《せいが》 南天の月 玉盃を天に掲げては太真《たいしん》を想い 皎月を唇に含んでは月に酔う…… ———— [#ここで字下げ終わり]  白楽天の詩の中にあった「月満玉盃」を受けてのものであった。  ここでいう太真《たいしん》とは、つまり楊貴妃のことである。  白楽天の詩を受けて始まり、空海の詩は、言葉に遊び、詩句に詩句自身が酔ったように増殖し、流れ、そしてふいに一転して、語りのようになった。 [#ここから2字下げ] 一念の眠りの中に千万の夢あり 乍《たちま》ちに娯しみ乍《たちま》ちに苦しんで籌《はか》ること能《あた》わず 人間と地獄と天閣と 一《ひと》たびは哭《こく》し一《ひと》たびは歌って幾許《いくそばく》の愁《うれえ》ぞ ———— [#ここで字下げ終わり]  ひとしきり吟《うた》って空海が声を止めると、柳宗元が、溜め息とも唸り声ともつかない声を、しみじみとあげた。 「いや、空海さん、驚きました。今のは何ですか。あなたの詩は、詩の理を越えていながら、なお詩として胸に迫ってくるようですね」  柳宗元は、空海に対して驚きの色を隠さない。  その驚嘆の仕方も、実直である。 「白、どうだ?」  柳宗元が、白楽天に問うた。 「いや、なかなか——」  短く白楽天は言った。  白楽天は、何か、深い感情が、身の裡に湧きあがっているらしく、片膝を立て、左手でその膝を抱え、右手で盃を握ったまま、月光に濡れたように光っている綿畑に視線を注ぎ、また、穴の底に眼を彷徨《さまよ》わせたりしている。  片膝を抱えたその姿は、見方によっては、拗《す》ねた子供のようにも見える。  穴の縁には大猴が立っている。  この大漢《おおおとこ》は、酒も飲まずに、腕を組んで、穴の底を見下ろしている。  その横に、畑の持ち主の徐文強、その友人である金吾衛の役人張彦高がいる。  茣蓙の用意はあるのだが、彼らはそこに座してはいない。徐文強と張彦高のふたりは、心配のあまり、とても、盃などかわしてはいられないようである。  そして、武器を持った役人が、五人。  穴の底からは、半分、掘り出されかけた上半身だけ見えている俑《よう》や、首だけが出ている俑など、幾つかの俑が見えている。  それらが、およそ一〇〇〇年ぶりに、外気にさらされて、月光を浴びている。  と——  その時、しみじみとした顔で穴の底へ眼をやっていた白楽天が、 「まこと、人の世は、籌《はか》り難いものだな……」  しっとりとした声でつぶやいた。 「籌り難いからこその、人の世ということもある」  と、柳宗元は言った。 「空海さん……」  ふいに、白楽天は、つぶやいた。 「はい」 「あなた、何の為《ため》に生きておられるのです?」 「難しい御質問ですね」 「ええ、まあ——」  自分の質問の質を、白楽天はわかっているようであった。 「どのように生きたら良いかということがわかっているということは、自分が何者であるかがわかっているということです」  白楽天は言った。 「はい」  空海がうなずく。 「人が、どのような意味を持って、この世に生じてくるのか、それは、誰にも答えられません。あるいは、ずっと後になって、歴史が、それに答えてくれるかもしれません。しかし、本人には……」 「おっしゃることの意味はわかりますよ」 「自分が、何者であるかは、神が決めるのではありません。つまるところは、本人が決めるのです。本人が、何者かになり、何者かになってゆくのです」 「——」 「わたしは、最近、ようやく、そういうことが少しわかってきました。詩を書いている白楽天も、常に迷っているのですが、それでも、白居易《はくきょい》のようには迷わずにすむ」 「というと——」  空海は、白楽天の次の言葉を待った。 「白居易が迷っている時でも、詩人白楽天ならばどうすればいいのか、答がはっきりしている時があるからです」 「——」 「空海さん、詩を書くから、詩人なのですよ。詩人たらんと欲するのなら、詩を書かねばなりません。勤めなどは、即刻にやめて、詩を書くべきなのです。しかし、詩だけで人は生きてゆけるものでもありません。人は、実に、様々な立場の中で生きているのです。誰かの子であり、役人であり、詩人であり、誰かの友人であり……」 「——」 「そういう無数の立場を、常に重ね持って生きているのが人間です。そのうちから、ひとつの生き方を選んでしまうことさえできれば、こんなに楽なことはないでしょう……」 「ええ」 「——しかし、空海さん、少なくとも、わたしは、詩人であろうと欲する者ではあるらしいのですよ」  白楽天は、持っていた盃の中の葡萄酒《ぶどうしゅ》を、ひと息に飲み干した。 「空海さん、あなたの才は、素晴しい。が、しかし……」  白楽天は、言いよどんだ。 「どうぞ、続けて下さい」 「いや、わたしには、うまく言えない。よい言葉が見つからないのです——」 「——」 「そうですね。あなたとわたしとは、逆のようですよ。詩にとってね——」 「詩にとって、と言いますと?」 「つまり、わたしの才は、詩に捧《ささ》げるためにあるのです。詩によって、わたしの才が生かされる……」 「——」 「しかし、あなたの場合は——」 「どうなのですか」 「詩は、あなたの才のためのもののようです。あなたにとって、詩も詩の形式も、あなたの才を現わすためのものとして、この世にあるかのように見えます——」  白楽天は、しばらく黙ってから、 「幸福であったのでしょうかねえ」  誰にともなくつぶやいた。 「幸福?」  柳宗元が問うた。 「貴妃がですよ……」  白楽天は、ほとんど愛想のない声でそう言って、口をつぐんだ。        (四) 「そろそろのようですよ」  空海が言ったのは、それからほどなくのことであった。 「何がそろそろなのですか?」  柳宗元が言った。 「そろそろ何かが、起こりそうだということです」 「何が起きるのだ、空海よ——」  逸勢が、怯《おび》えを含んだ声で言った。 「わからん」  空海は言った。 「ただ、強くなっている」 「何がだ?」 「このあたり一帯にかけられた呪《しゅ》の力がさ」  空海は、見るともなく周囲を見回しながら言った。  まるで、天から降りてきた月光の霊光力が、しんしんと大地に染み込んで、その内部に降り積もったかのようであった。  磁場、磁性、大地と大気の層の間に、そういうものの圧力が増してゆくのである。  月が、南中《なんちゅう》しようとしていた。  つまり、月が、その軌道《きどう》上の、頂上へ昇りつめようとしているということである。  大地の持っている相が、別のものに変貌してゆく。  しかし、それを、実際に感知しているのは空海のみである。  月光が、穴の中にも差し込んで、俑の顔や身体に深い陰影を刻んでいる。 「う、動いた……」  怯えた、声で、徐文強が言った。  徐文強は、怯えた顔で、穴の底を眺め下ろしている。  穴の周囲に掲《かか》げた、篝《かが》り火が、徐文強の、眼を大きく見開いた顔に炎の色を揺らしている。 「どうした?」 「そ、そこの俑が……」  空海が、立ちあがる。 「お、おい……」  逸勢が立ちあがり、柳宗元も白楽天も立ちあがった。  空海が、穴の傍《そば》に疾《はし》り寄る。 「どうだ、大猴?」  空海が、やはり、穴の縁に立っていた大猴に声をかけた。 「いや、おれは、ついうっかり見過してしまったようで——」 「確かに動いた。ほら、そこの上半身が出ている俑が——」  空海がその俑を見る。  しかし、動いたようには見えない。  ただ、月光が、その俑の影を、穴の底の土の上に濃く落としているだけである。 「く、首が、動いたんだ。こう、ちょっと横に動いて、それから、生きているみたいに眼だまを動かして、わたしを見たのだ」 「落ち着きなさい。動いてはいません」  空海が言った。  徐文強の肩に手を置いて、 「あなたは、もう、これを見ない方がいい。あちらで休んでいて下さい」  逸勢に眼で合図をして、 「逸勢よ、すまないが、徐さんを、そこの茣蓙の上まで、お連れしてくれるか」 「わかった」  逸勢の顔は、青白い。  徐の手を取ってから、 「空海よ、これは、洛陽での、植瓜《しょっか》の術と同じか?」  逸勢が訊いた。 「たぶんな」  植瓜の術——空海と逸勢は、入唐して、長安へ訪れる前に、洛陽の都に寄っている。  そこで、大道芸をいくつか見物したが、植瓜の術とは、その大道芸のうちのひとつである。  瓜の種を土の上にまき、それを見物人の見ている前でたちまち大きく育て、実を成らせ、その実を売る。  強い暗示を、見物人に与え、実際にはそこにない幻覚を、彼等に見せるのである。  丹翁《たんおう》という老人が、そこで、その芸をやっていた。  その丹翁とは、ほんの二日前の晩に、楊貴妃の墓所で再会したばかりである。  いつ動くか、いつ動くかと想ってそれを眺めているうちに、徐文強は、自分で自分に暗示をかけてしまったのだ。  そこへ—— �そろそろだな�  と、空海が声をかけてしまった。  その言葉が、徐文強に、幻覚を見るきっかけを与えてしまったのである。  気をつけねばならない。  敵は、すでに、空海や、柳宗元が、徐文強の畑へ向かったことを知っているであろう。  いくら、人知れず、空海や柳宗元が長安城を出たところで、徐文強の家を、誰かが見張っていれば、それで、結局はわかってしまう。  逸勢が、もどってきた時—— 「むうむ……」  低い、囁《ささや》くような声が、どこからともなく響いてきた。 「むうむ……」  と、その声に別の声が答えた。 「聴こえたぞ、空海——」  逸勢が言った。 「うむ」 「今のはどうだ」 「本物の声だろうさ」  空海が言った。 「そ、そこの、そこの像が、今、しゃべったような気がしましたが」  張彦高が言った。 「いいえ」  空海は、はっきりと、首を左右に振った。 「少なくとも、わたしにはそう聴こえましたが——」 「違います。いいですか、自分の意志をしっかり持っていて下さい。さもないと、大変なことになりますよ」  空海が言い終えぬうちに、  く、  く。  か、  か。  という、低い含み笑いが聴こえてきた。 「地上《うえ》が騒がしいな」 「地上が騒がしいぞ」  ひとつの声に、もうひとつの声が和した。 「少し早いが、今夜出てしまうか」 「少し早いが、今夜出てしまおう」 「よし」 「よし」  そういう声が聴こえてくる。 「本物か?」  と、逸勢。 「本物だ」  と、空海。  そのうちに、ふいに、縁に近い穴底の土の中から、何かが出て来ようとしているかのように、その表面が、もぞもぞと動いた。 「お……」  白楽天が、低く、声をつまらせた。  白楽天が見下ろしている、穴底の土の中から、何か出てきたのだ。  白楽天は、大きく横に飛びすさった。  そこの地中から、太い指が、出現しようとしていた。 「空海、こいつはどうなんだ?」  と、逸勢。 「本物さ——」  空海は言った。        (五)  右手が、地中から伸びてきて、鉤《かぎ》状に折り曲げられた指が、月光の中できりきりと動く。  這い出てくるための支点にしようと、何かつかむものを捜しているようであった。  次が左手であった。  右手と同様に、まず指先から出現をし、手、手首、腕と、それが上に伸びてくる。  そして、頭部まで—— 「まだ出てくるぞ、逸勢」  空海が鋭い声をあげた。  空海が言い終らぬうちに、また別の場所から、もぞりと新しい指が出現してきた。  それが、動く。 「どうする。どうしたらいい?」  逸勢が、声を高くして空海の左袖をつかんでいる。 「落ち着け」  空海が、穴の底を見降ろしながら言った。  その間にも、俑の兵士の頭部が、土中からさらにせりあがってくる。 「たまげたな、こいつは——」  大猴が、興奮した声をあげる。  張彦高、柳宗元、白楽天が、穴の縁に立って、驚きの眼で底を見下ろしている。  遅れて動き出したもうひとつの俑も、頭の先が土中から出現し始めている。 「空海先生、上から石を落としてやりますか?」  大猴が言う。 「いや、このまま放っておけばいい」  一同が、見守るうちに、月光の中で、巨大な虫のように、二体の俑が土中から這い出てくる。 「それよりも大猴、このままではまだしばらく時間がかかりそうだ。ここまで、酒を持ってきてくれないか。柳先生や白先生、逸勢の分も一緒にだ」 「はい」  と答えて、大猴が、近くの宴席まで、葡萄酒と玉の盃を取りに行った。 「さ、酒を?」  逸勢が空海を見る。 「うむ」  と空海がうなずいたところへ、大猴がもどってきた。 「持ってきましたよ」 「では、皆さん、いかがですか。めったに見られぬものを、我々は今眼にしているのですから、これを肴にせぬ手はありません」  空海は、玉の盃に葡萄酒を注いで、それを皆に渡してゆく。 「いかにも……」  と、柳宗元は表情を変えずに葡萄酒の入った盃を受け取った。 「これは、倭国の趣向ですか」  白楽天はそういって盃を受け取った。  逸勢、そして、大猴も盃を手に持った。 「さて、待ちましょうか」  すでに、空海がこの場の主導権を握っている。  やがて——  まず最初に動き出した俑が土の上に出、続いて次に動き出した俑が土の上に出て、そこに立った。土の上とは言っても、穴の底である。 「やっと出たな」 「やっと出たな」  二体の俑は、言葉を交し、穴の底で向かい合った。  俑の頭部は、穴の縁に届きそうだ。縁から、一歩踏み出して、俑の頭を踏むこともできそうであった。 「く、空海——」  逸勢が、どうすればよいのか、というように、空海の名を呼んだ。 「む」 「む」  二体の俑が、もぞりと上体を動かした。  動きがどこか滑《なめら》かでない。人間の——というよりは、人形が自分の意志を持って動く時には、このような動きになるのかもしれない。 「騒がしいな」 「騒がしいな」  首を動かして、ぎろり、ぎろりと、二体の俑が、声をあげた逸勢を見あげた。 「わっ」  と、逸勢が後方に下がる。  二体の俑が、ゆっくりと動き出した。  造られた坂を歩いて、地上へ出てくる。  皆が、驚いて後方に退《さ》がるが、空海はそこを動かない。 「お、おい、空海、危ないぞ」  逸勢が後方から声をかける。  しかし、空海は、二体の武士の俑を迎えるつもりであるのか、そこに立ったままだ。  大猴は、持っていた盃を、土の上に投げ捨て、傍に置いてあった鍬を手に取って空海の横に並んだ。  空海は、手にしていた盃を丁寧《ていねい》に懐に入れながら、 「大猴よ、よしと言うまで手を出さないように——」  そう言った。 「わかってますがね、いよいよとなったら勝手に始めちまいますからね」  二体の俑は、それぞれ、腰に剣を帯びていた。身体は�俑�であるが、その剣は本物のようであった。  以前、俑が出てきた時には、何人かの役人が死んでいるのである。 「空海さん、退がって下さい」  張彦高が、剣を手にして、五人の役人と一緒に空海の前に立った。 「大丈夫ですよ。なにかありそうでもたぶん、大猴がなんとかできるでしょう」 「しかし、空海さん、あなたは危険です」 「いえ、少し、彼らに話があるのでね」 「話?」 「そうです。それよりも、張さんは、この周囲に気を配っていていただきたいのです」 「周囲に、何かあるのですか?」 「何とも言えませんが、とにかくお願いします」  張彦高が、ううむと思案している間にも、穴から、二体の俑が出てきた。 「さあ——」  空海は、張彦高をうながして、俑に歩み寄ってゆく。  その横に、大猴が並んで歩いてゆく。  二体の俑が、空海に視線を向けた。  空海が、ほどのよい距離で足を止めた。  両手で、鍬の柄《え》を握り締めて、大猴は、空海の半歩前で立ち止まった。 「ほら」 「ほら」  と、二体の俑が声をあげた。 「おまえが、我等の眠りを一日早く醒ましたのだな」 「おまえが、我等の夢を破ったのだな」  二体の俑は、表情のない、瞬《まばた》きしない眼を空海に向けた。  よく見れば、その眼は、眼球を白く塗りその中心に、瞳を描き入れてあるだけのものだ。生命あるものではない、無機質の眼であった。 「いや、手間がはぶけましたよ」  空海は言った。 「手間がだと?」 「はぶけただと?」 「ええ」 「何の手間がだ」 「何がはぶけたのだ」 「ですから、あなたたちを掘り起こす手間がですよ。それから、掘り起こしてから上まで運び出す手間がですよ」 「なに!?」 「なに!?」 「さて、これはいったいどういうことですか?」  空海が訊いた。 「これだと?」 「どういうことだと?」 「何のために、こんな真似をしているのですか。どういう目的があるのですか?」  空海が問うと、 「ふふ」 「かか」  と、二体の俑が笑った。 「あなたは、このふたつの俑をあやつって、何をやろうとしているのですか?」  空海は、あなた[#「あなた」に傍点]という言い方をした。  しかも�このふたつの俑をあやつる�と口にした。  空海が話しかけているのは、この俑というよりは、別の存在のようであった。この俑を通じて、この俑ではない別の何ものかに向かって、問いかけているようであった。 「さて、何をかな」 「うむ、何をかな」 「教えてはいただけませんか」 「言えるかよ」 「それは言えぬな」  二体の俑が、あっさりと答える。 「そこを、ぜひとも聴かせていただきたいのですが——」  空海が言うと、 「うるさいな」 「うん。うるさい」  二体の俑が、そう言った。 「うるさい蠅《はえ》は、どうする」 「うるさい蠅は、つぶそう」  一方の俑が、腰の剣に手を伸ばし、柄を握った。  すらりと剣を抜き取ったその時、 「やっ」  と、大猴の気合がその唇から迸《ほとばし》り、どん、と、重い音をたてて、剣の柄を握ったままの俑の片腕が一本、地面の上に落ちた。  大猴が、両手に握った鍬を、上から下へいっきに打ち下ろしていたのである。  腕を落とした鍬の先端が、ざっくりと土の中に潜り込んだ。  それを、すぐにはずせない。  腕を落とされた俑は、痛がる風でもなく、片腕で、大猴に向かって襲いかかってきた。  鍬から手を離して、大猴はその俑に向きなおった。  そこへ、俑が身体をぶつけてきた。  岩と岩とがぶつかるような重い音が響いた。  がっしり胸と胸とを合わせ、どちらもびくともしない。  大漢の大猴と、俑の大きさはほとんどかわりがない。  俑の左手が、大猴の喉《のど》にかかっていた。  大猴の左手は、逆に俑の喉にかかっている。  大猴の右手は、自分の喉にかかっている俑の左手の手首を握っていた。  凄い力が、大猴の右手にこもっているのがわかる。ぶるぶると、大猴の右手が震えているからだ。  もう一体の俑は、この闘いには参加せずに、ただ横から眺めている。 「空海——」  逸勢が声をあげた。  大猴を、そのまま放っておいていいのか、という意味だ。 「助けようか、大猴——」  空海が言う。 「大丈夫でさ。このくらいなら、なんとかね。それにしても、こいつ、俑のくせになんて力のある……」  声が出るということは、俑の手が、まだ大猴の首を完全に締めつけるには至ってないということである。 「場所が場所だからな。それに満月だからだろうよ」  空海が言った時—— 「くむむ」  大猴の右手が、自分の喉から俑の左手を引きはがした。 「この」  相手の喉にかかっていた大猴の左手が、一瞬、相手の頭部を突き抜けたかのように見えた。  しかし、そうではなかった。  大猴の力があまりにも強かったため、俑の首がもげたのだ。  俑の首は、地に落ち、音をたてて砕けていた。  大猴が、ふうと太い溜め息をついて額をぬぐいかけた時——  首のない俑が、大猴に向かって、左手で掴《つか》みかかってきたのである。 「こいつ——」  大猴は、その俑を抱え、おもいきり地面の上に投げ飛ばした。仰向けに倒れたその俑の胸を、大猴の右足が、真上から踏み抜いていた。  その足を、俑の胸の中から引き抜こうとしている間に、次の相手が参加してきた。 「大猴、後ろだ」  空海が、鋭い声で言った。  腕を落とされた方とは別の、もう一体が、後方から大猴に襲いかかろうとしていた。 「わっ」  と、声をあげたのは逸勢であった。  しかし、その声より早く空海は動いていた。  俑が、剣を引き抜いて、大猴に切りかかろうとしているその背後から、両手の掌《てのひら》を、俑の背にあてた。 「トシト・アコラ・クラバティ・クラナスバ・ルウダ、シャシャ・ニアプンニャ・クシャタ・クシャタクシャヤンタ・クシャヤ・ソワカ」  空海の唇から、低い異国の呪《しゅ》の音が洩れた時、明らかな変化が、俑の動きに現われた。俑の動きが、急に緩慢《かんまん》になったのである。 『大般若』巻五七一の陀羅尼《ダラニ》であった。  その意は、およそ次のようなものになる。 �咒《しゅ》に曰《いわ》く。害するなかれ。能害者を免離障害の具徳者よ。諸忿怒尊よ。邪悪(非法)を摧破せよ。断滅せよ。滅尽せよ。祈念帰赦(めでたし)�  俑の動きが緩慢になっているうちに、大猴は足を引き抜き、土を噛《か》んでいた鍬を手に取って—— 「かあっ!」  俑の頭頂から、鍬の刃が潜り込み、俑の顔の前面と、胸のあたりを削り落としていた。  それでもなお、俑は動こうともがきかけたが、空海が陀羅尼をもう一度唱えると、俑は、一歩、二歩、前に進んでから前のめりに倒れて動かなくなった。        (六)  一瞬の沈黙——  次には、賛嘆の声が、それを眺めていた男たちの中から湧きあがった。 「凄いぞ、空海、大猴——」  真っ先に、逸勢が駆け寄ってきた。  続いて、柳宗元、白楽天、張彦高、そして、遠くからなりゆきを見ていた、徐文強——  五人の役人は、空海に言われたように、まだ周囲に気を配って、あちらこちらに立っている。  一同が集まったところで、 「おい、大猴、すまないが穴の中から、俑を一体、運び出してきてくれるかい」 「お安い御用で——」  大猴は、穴の中に降りて、昼間掘り起こしておいた俑のうちの一体を、運びだしてきた。 「おい、空海よ、いったい何をする気なのだ?」  逸勢は、好奇心で顔をふくらませて空海に訊いた。 「すぐにわかる」  空海は、逸勢に答えなかった。大猴に命じて、三体の俑を地面に並ばせた。  昼に掘り起こしたものが一体。今、地中から這い出てきたものが二体。 「さて皆さん——」  空海は、楽しそうに一同を見回した。 「ここに、三体の俑が並んでいますが、このうちの二体は、始皇帝の陵墓のために埋められたものではありません」  そう言った。 「その二体は、こちら、ついさっき、大猴が打ち壊した俑です」 「どこが違うんだ、空海——」 「だから逸勢よ、それをこれから説明しようというのさ」  空海は、鍬を手にして立ち、 「大猴、灯りを持ってきてくれませんか」  大猴が、炎を点《つ》けた枝を、焚火《たきび》の中から持ってきて、俑の上にそれをかざした。 「では、まずこれを見ていただきましょうか——」  空海は、そう言ったかと思うと、無造作に鍬を、まだ無傷の俑の上に打ち下ろした。  俑の腹のあたりに刃が潜り込んで、ぽかりとそこに穴が開いた。 「いかがですか?」  空海は言った。  柳宗元が、身を乗り出しつつ眺めてくる。 「わからん」  と逸勢。 「よく見ればわかる」 「いや、空海よ。もったいぶらずに教えてくれ」  逸勢は、空海に向かって、やや顔を赤くして言った。 「こちらは、たいへんよくできていますが、造りそのものは、普通の俑ですね」  自分が、壊したばかりの俑の上に空海はかがみ込んで、その欠《かけ》らを手にして皆にまわした。 「ところが、こちらは違います」  空海は、先ほど、大猴が倒した俑の欠らを拾って、柳宗元に渡した。 「なるほど、違うな」  柳宗元は肯《うなず》いた。  たちまち、柳宗元の周囲に人が集まってくる。  柳宗元の手の中を覗き込んだ男たちは、 「そうか」 「違うな」  そううなずく。  柳宗元が手にした俑の欠らの内側——そこに、びっしりと黒いものが張りつけてあった。 「これだろう」  と、柳宗元。 「よくぞ、気づきました」 「これは、いったい何だ?」  柳宗元は、その黒いものを指で示して訊いた。 「髪の毛ですよ」 「髪だと?」 「そうです。たぶん、女の髪の毛ですね。それが、この二体の俑の内側に、びっしりと張りつけてあるのです」 「いったい、何のために?」 「動かすためですよ」 「動かす?」 「この俑をですよ。今、動いていたでしょう?」  空海は、また、先の二体の俑の上にかがみ込んで、腕を拾いあげた。 「見て下さい。こちらの方は、この肘関節のところが、動くようになっているでしょう」  腕を手に握って、空海が、その肘関節の部分を動かしてみせる。確かに、その肘関節を支点にして、腕が動く。 「これをごらん下さい」  空海は、仰向けになった、さっきまで動いていた首のない俑の胸のあたりを指差した。  そこに、何かの模様の如きものが描かれている。 「それは?」  白楽天が訊いた。 「異国の呪です。おそらくは、胡の文字でしょう」  空海が、大猴を見やると、 「我が祈り満ちたる時|霊《たま》宿らん——そんな意味のことが書いてあります」  大猴は言った。 「大猴、ではこれを、裏返してもらえるか——」  空海に言われて、仰向けの状態になっていた、首のない俑を、大猴がひっくり返してうつ伏せにした。 「ここを御覧になって下さい」  空海がその俑の背を指差した。 「おう」  柳宗元だけでなく、逸勢、白楽天までもが、声をあげた。  一同が見るなりそれを読むことができたからである。  空海が指差したそこに、漢字が記されていた。  正確には、刻み込まれていた。 「霊」 「宿」 「動」  その三文字。 「これは?」  と、柳宗元。 「呪《しゅ》ですよ」 「呪文!?」 「この俑に霊力を宿し、動かすためのね」 「動くのか、こんなもので?」 「普通は、紙一枚程度のものしか動かせませんが、ここまで仕掛けが大きくなれば——」 「仕掛けというと?」 「始皇帝の陵墓そのものに掛けられている巨大な呪を利用するという仕掛けですよ」 「ほう!?」 「この大地の下には、数千体、数万体の俑が埋もれていますよ。その俑たちの間に、同様の形のものを埋めておけば、いつでもここの呪を受けて、巨大な呪力を内在するようになるでしょう」 「ということは——」 「こちらの二体は、かなり新しい時代に造られたものですね」 「何のために、あとからこのようなものを埋めて動かす必要があったのか——」 「さあ、わたしにも、そこまではわかりません。しかし、知る方法はあるでしょう」 「知る方法?」 「はい」 「どうするのだ」 「訊いてみるのですよ」 「訊く? 誰にだ」 「ですから、そこにいる方《かた》にですよ」  空海は、そう言って後方を振り向いた。 「いかがですか。いったいどうして、このようなことをなさるのですか」        (七)  空海が振り向いたそこは、一面の綿の畑であり、誰の姿もなかった。月光の中で、さわさわと綿の葉が揺れるばかりである。 「どこだ、空海。誰がどこにいるのだ」  逸勢が、空海に擦《す》り寄ってきた。 「そこさ」  空海は、四間ほど向こうの、闇を見つめている。 「いないぞ」 「いる」  空海はつぶやいて、半歩前に出た。 「どうなのですか。これは、あなたがやったことなのですか?」  問い、そして、空海は待った。  風が、さやさやと綿の葉先を撫でてゆくばかりである。誰も、言葉を発せずに、青い闇の中で、その葉先が揺れるのを、呼吸《いき》を止めて眺めている。  やがて—— 「いかにも。おれがやった……」  しわがれた、男の声が響いてきた。  ぐつぐつと土鍋で泥を煮るような、低いこもった声だった。若くない。老人の声だ。 「声が……」  逸勢が言った時、空海から四間ほどむこうの綿の繁みがわずかに揺れて、そこから、黒いものが姿を現わした。脚が四っつある獣。 「猫……」  逸勢は、そう言ってから、あっ、と次の言葉を呑み込んだ。  その猫が、ひょい、と二本の後肢で、人間のように立ちあがったからである。 「やよ、空海、かような場所にまで出《い》で来たるか——」  白い、尖った歯を見せた。  猫の金緑色の瞳が、空海と、その横に並んだ逸勢を見上げている。 「く、空海、これは、しばらく前にあの劉雲樵《りゅううんしょう》の屋敷で出会った妖物の……」  逸勢の声が怯えている。 「言うておいたはずだ。余計な真似をすると、その報《むく》いは受けねばならぬぞ」  言葉が発せられるたびに、猫の口から青い炎がめろめろと燃え出てくる。 「どのような報いを?」 「死……」 「怖いことを言われますね」 「眠っておる間に、溶けた鉛を耳の穴へ注いでやろうか……」  逸勢が、空海の横で、喉の奥に何か詰まらせたような音をたてた。唾《つば》を呑み込みそこねたらしい。 「針で眼を突いてやろうか。釜《かま》で煮てやろうか。それとも、火であぶり殺してやろうか——」  猫が、炯炯《けいけい》と光る緑色の眼を逸勢にむけ、 「それ、もう、足元に火が——」 「わっ」  逸勢が、声をあげて、跳びのいた。 「逸勢、眼を閉じ、耳を塞《ふさ》いで、声を出して、李白翁の好きな詩でもそらんじていろ」  空海が、低く逸勢に言った。  幻覚の火であった。  むろん、火は燃えてはおらず、すぐに逸勢もそのことに気づいている。 「し、しかし——」  逸勢は逸勢で、そうかといって眼を閉じるわけではない。閉じるのは、幻覚を見せられるより、もっと怖い。  大猴は大猴で、飛び出していって、その黒猫を打ちのめそうかどうか迷っている様子であった。そうしたくてうずうずしているのが、傍眼《はため》にもわかる。 「空海先生、こんな猫ならわたしが——」  空海の言葉を待たずに、足を踏み出しそうな勢いである。  かかか——  と、猫が笑った。 「ぬしなどに、このおれがどうにもできるものか——」 「なら、ゆくぞ」  大猴が言った。 「大猴、動くな」  空海が言ったが、すでにその時、大猴は太い足を前に踏み出していた。  右手に、俑を打ち壊した鍬を握っている。  しかし—— 「た、大猴、そちらは——」  逸勢が声をあげた。  大猴は、逸勢が猫を見ているのと違う方向に歩き出していたのである。大猴が向かってゆく方向には、何もいない。  だが、大猴にはそこに猫が見えているらしい。 「やっ」  と、声をあげて大猴は鍬を打ち下ろした。  鍬の刃が、綿の葉を切り落としながら、地面に潜り込んだ。 「逃げたな。そっちか——」  また、大猴が鍬を持って、まるで、そこに猫がいるとでもいうように、別の方向へ近づいてゆく。  今度は、前よりも早く鍬を打ち下ろすが、 「また逃げた」  大猴がくやしそうな声をあげる。 「危ない、伏せろ、大猴——」  空海が言うのと同時に、自らも何かの危険を察知したのか、大猴が、鍬の陰に隠れるように、身を低くした。  大猴が持っていた鍬の柄に、音をたてて金属の刃先が突き立っていた。鋭い刃先が、反対側に突き出ていた。その短剣は頭を沈めた大猴の額の、すぐ近くまで刃先を届かせようとしていた。 「無駄よ——」  猫の声が言った。 「大猴、もどって来い」  空海が言った。 「こいつはどうも、やりにくい相手ですぜ」  大猴がもどってきてそう言った。  その時には、剣を抜いた役人たちが、柳宗元に言われて空海の前に出て来た。 「剣を収めて退がって下さい。自分たちで切り合うことになってしまいますよ」  空海が言う。  役人たちは、おそるおそる顔を見合わせ、柳宗元の指示を仰ぐように、そちらへ眼を向けようとした。 「違いますよ。それは、柳先生ではありません!」  空海が、言いながら印を結んで、 「オン・ビソホラダ・ラキシャ・バザラ・ハンジャラ・ウン・ハッタ……」  金剛網《こんごうもう》の真言《マントラ》を唱えた。  諸方より、至る魔を寄せつけぬよう、虚空に網を張る真言である。  役人たちは、はっと気づいて驚きの表情を顔に浮かべたが、まだ、どうしてよいかとまどっていた。  むしろ、その役人たちを庇《かば》うようにして、真言を唱えながら空海が前に出た。 「戯《たわむ》れは、おやめなさい」  空海が、猫に向かって言った。  かかか——  と、また猫が笑った。 「空海よ、我と呪詛《ずそ》くらべをするかよ」  青い炎が、猫の口からしゅうしゅうと出てくる。  ふわり、  ふわり、  と、その青い炎が鬼火のように、猫の周囲に浮きあがる。  空海は平然として、 「あなたさまにお訊ねしたき儀がございます」  そう言った。 「ほう。言うてみよ」 「あなたさまと、楊玉環《ようぎょくかん》どの、どのような因縁がおありなのか?」  空海が問うた途端に、猫が沈黙をした。  じわり、と猫の身体がひと回り大きくなったように見えた。 「小賢《こざか》しきかな、空海……」  さらにまた、じわりと猫の身体が大きくなり、猫の周囲に風が動き出した。  ざわざわと風が、綿の葉を鳴らし、渦を巻いた。  そこに、無数の鬼火が踊った。  何か、見えない強い力のようなものが、そのあたりに音をたてて盛りあがってくるようであった。  逸勢が、悲鳴に近い声をあげた時—— 「おい——」  空海の横手——左側の闇の奥から、低く声がした。  男の——しかも老いた声だ。  二本|肢《あし》で立っていた猫が、その声の方角に顔を向けた。  猫の口吻《こうふん》がめくれあがって、白い牙がむき出しになった。  しゃあっ、  と、猫が吼《ほ》えた。  猫の金緑色の瞳が見つめている方向に、黒い人影があった。  細い姿体——  その人影がゆっくりと歩いて近づいてくる。 「おまえ、丹……」  猫が、そう言った。  猫がつぶやきかけた通りであった。  近づいて来たのは、空海も見たことのあるあの丹翁の顔であった。  長安城に入る前、洛陽の都で、逸勢と一緒に、この丹翁に会っている。そして、ついしばらく前にも、馬嵬駅《ばかいえき》の楊貴妃の墓で出会っている。  丹翁が、猫の手前で立ち止まった。 「お久しゅうございますな」  丹翁が、しみじみとした声で言った。 「おう、ぬしか。おう……」  猫が、喜悦の声をあげた。 「やはり、生きておられましたか——」 「そう簡単には死ねぬわ」  丹翁が、静かに、哀しそうに首を左右に振った。 「もう、皆、死に果てました……」 「なんの。このわしは生きておる。ぬしもじゃ。そして、青龍寺《せいりゅうじ》も……」 「昔のことです。今また、何故に、このように都を騒がすようなことを……」 「わからぬのか。これが何のためであるのか、ぬしにはわからぬのか……」  二本肢で立っていた猫が、ふっ、ともとの四つ肢にもどった。  すでに、猫の周囲で燃えていた鬼火は、色を細くして、消えいる寸前であった。 「ならば、わかるまで続けねばならぬ……」 「何を?」  丹翁が問うた途端に、消えかけていた鬼火が、かっ、と強い炎をあげて燃えた。  くく、  かか、  ひひ、 と、猫が、低く、淋しく、哭《な》くように嗤《わら》った。 「わかるまでじゃ」  ふっ、  と、鬼火が消え、猫が身を翻《ひるがえ》して後方に跳んだ。  そのまま、猫の姿は闇の中に消えた。  猫の姿が消えた後は、月光の中で、綿の葉が風に揺れているばかりである。  丹翁が、ゆっくりと、空海に向きなおった。 「空海よ、まだ、青龍寺にはゆかずに、こんな場所におるのか——」 「はい——」  恐縮《きょうしゅく》したように空海はつぶやき、 「丹翁先生は、今の相手をごぞんじなのですか?」  そう訊いた。 「多少はな」 「どういう相手なのでござります——」 「それは、ぬしらは知らぬでもよいことさ。それよりも空海、ぬしに教えておくことがある」 「なんでしょう」 「先ほどぬしらが掘り出した、動く俑《よう》のことだ」 「それが何か——」 「あれと同じものが、まだ、あと十体ほどはここに埋められておる」 「同じというと。呪を掛けて、動くように造られている俑のことですか」 「そうだ。それを掘り出して、壊しておけばもう俑が動き出して何かをするというようなことはまずなかろう」 「昨年の八月に、この地中から這い出した二体を別にすればですね」 「うむ」 「しかし、丹翁先生は、何故、そのようなことをご存じなのですか」  丹翁は、言いよどむように口をつぐんでからすぐにまた口を開いた。 「それはな、ここへ、あの俑を埋めたのがわしだからよ……」 「なんと。丹翁先生は、あの猫とは、どういう御縁がおありなのですか?」 「縁か——忘れてしもうたわ。遥か昔のことなのでな。ともあれ、空海。これは我がことじゃ。このわしが始末すべきことなれば、ぬしはぬしのことをやるべきであろうが——」 「わたしのやるべきこと?」 「密《みつ》を盗むつもりで、この長安まで来たのではなかったか?」 「はい」 「この件《こと》、深入りすればいずれ生命を落とすことになるやもしれぬぞ。今夜も、ぬしひとりか、わしひとりであったなら、あやつに生命を奪われておったかもしれぬ……」  丹翁がそこまで言った時、柳宗元が、横手から声をかけてきた。 「丹翁先生と申されましたか——」  柳宗元は、深々と頭を下げ、 「わたしは、柳宗元と申しますが」 「お名前は、耳にしておりますよ」 「それは幸甚に存じます」  と、柳宗元はうなずいてから、 「このたびの一件、おそらくは天下の大事に関わるもの。伏してお願い申す。丹翁どの、この件についてお知りのこと、何とぞこの柳宗元にお話ししては下されまいか」  丹翁にそう告げた。 「いや。これは、そもそも私事《わたくしごと》でござるよ。私事なれば、誰に申しあぐるつもりもござりませぬ……」 「丹翁どの……」  その声が聴こえぬように、一歩、二歩、丹翁は後方に退がって空海を見た。 「空海よ。今夜はこれまでじゃ。いずれ、生命あらば共に酒でも酌みかわそうぞ」  空海の返事を待たずに、丹翁は背を向けて闇のむこうに向かって歩き出した。  ゆっくりと歩をすすめているようにしか見えないが、気がついてみれば、丹翁の背はすでに遠くにあり、闇にその姿が溶け、消えていた。  あとは、風が綿の葉を揺らすばかりであった。  ふっ、と、緊張が解けたように、逸勢が溜め息をついた。 [#改ページ]    第十六章 晁衡        (一)  西明寺《さいみょうじ》——  槐《えんじゅ》の緑が、日に日に濃くなってゆく。  初めは、枝先にぽつぽつと見えていたその若芽が、ふくらみ、ほどけ、見るたびにその淡い緑を広げてゆく。  今年は、例年になく春が早い。  柔らかな陽差しが、中庭に落ちている。  空海と、| 橘 逸勢《たちばなのはやなり》は、その淡い緑の下にいる。 「凄いな、空海」  逸勢は、すぐ眼の前の牡丹《ぼたん》を眺めている。 「まだ、葉さえ伸びきっていないというのに、この蕾《つぼみ》は、もうこんなにふくらんでいるではないか——」  いつも、空海が手を翳《かざ》している牡丹であった。  その牡丹の枝茎から、ひとつだけ、とびぬけて大きく蕾がふくらんでいるのである。 「これは、おまえがやったからなのだろう?」 「まあ、そういうことになるかな」  空海の答は素っ気ない。  牡丹から、空海に視線を移し、 「おれはな、空海よ、おまえという人間がつかみきれないよ。前から、おまえは得体の知れないところがあったが、長安《ちょうあん》へ来てから、ますますそうなってきたような気がする——」  逸勢はそう言った。 「おまえはな、どうやらあの日本国よりも、この唐土の方が合っているのではないか」 「ふうん」 「四日前の晩も、そうだった。あの黒猫を相手に、おまえは怖《お》じもせずに平然としていたではないか」 「いや。あの時は危なかった。丹翁《たんおう》殿が来てくれたので助かったのだ」 「そうは見えなかったよ。少なくとも、おれたちがいなくておまえが独りであれば、あいつの相手をすることはできたのではないか」  逸勢は、賛嘆の声を惜しまない。  あれから、その翌日と、さらにもう一日、丹翁が言った綿畑の何カ所かを掘り返して、全部で十体の俑《よう》を掘り出した。  いずれも、胸には胡の呪が、背には�霊�、�宿�、�動�の文字が刻まれてあり、手や足の各部分が動きやすいように細工がしてあった。それを打ち壊すと、内側の空洞に夥《おびただ》しい量の髪の毛が入っていた。  そのうちの一体分の、首、腕、足、胴を、柳宗元《りゅうそうげん》が持ち返っている。  用心のために、役人ふたりを残し、 「この者たちに、畑をしばらく見張らせておく。何か、もしまた変事がおこったら、すぐに知らせをよこされよ」  柳宗元は、去る時に徐文強《じょぶんきょう》にそう言った。 「あれから、何かあったろうか?」 「あの畑については、もう、何事もおこらぬだろうよ。たぶんな」 「だが、空海よ、あの晩現われたのは何者なのだ。猫なのか? それとも——」 「人さ」 「人が、猫に化けてるのか?」 「いいや」  空海が、首を左右に振った。 「人が猫を操り、また時には自分を猫に見せたりしているだけであろう」 「人間なのか——」 「そうだろう」 「だがな、その猫を操っている人物は、いったい何をしようとしているのだ」 「おれにもそこまでわかるものか」 「しかし、おまえは、劉雲樵の屋敷の一件と徐文強の畑の俑の一件とは関係があると考えているのだろう」 「ああ」 「それはおれにもわかるよ。あの、劉雲樵の屋敷で見かけた猫が、あの綿畑にもいたからな——」 「うむ」 「しかし、おまえは、猫に楊貴妃の話をしていたな。貴妃どのとこの一件も、何か関わりがあると考えているのか?」 「まあ、そうだ」 「何故、それがわかる?」 「わからんか」 「うむ」 「考えてみよ」 「何が何やら考えがまとまらぬ」 「ではな、劉雲樵の屋敷に出た妖物の言った言葉を思い出せ——」 「何だ、それは。いっぱいあって答えられないよ」 「たとえばだ、妖物はこう言っていたではなかったか。あなたの首を、この絹の布でしめてやろうかと——」 「うむ」 「馬嵬駅で白楽天も言っていたが、絹の布で首を締められて、貴妃どのは殺されたのだぞ」 「ううむ」 「それにだ。妖物に憑《とりつ》かれた劉雲樵の妻が老婆になって踊ったのは、李白翁《りはくおう》の『清平調詞《せいへいちょうし》』ではないか」 「うううむ……」  逸勢はうなった。  逸勢も、すでに、その「清平調詞」の詩が、貴妃のために創られたものだということを知っている。  そもそも、それを知って、空海は馬嵬駅へゆこうと言い出したのである。 「そういうことなのかな、やはり」 「そうさ」 「しかし、貴妃どのの遺体を誰が運び出したのだ。あの猫がやったのか——」 「さあ、どうなのだろうな」 「思い出したよ、空海。石棺《せっかん》の蓋《ふた》の裏に、血まみれのひどい掻き跡があったではないか。あれは、誰がつけたのだ。おれには、葬られた貴妃殿が、何かのかげんで息をふきかえし、あの棺の蓋に爪を立てて、なんとか逃れ出ようともがいたあとのように見えるぞ」 「そう思うのなら、たぶんそうなのだろう」 「気のない返事をするなよ、空海、おまえはあれについてはどう思っているのだ」 「おまえと、まあ、同じようなところだ」 「今考えても、ぞっとするよ。自分が葬《ほうむ》られてから、あのように地中の棺の中で目醒めたらどうなってしまうだろうな。あんな風に爪をたてるだろうし、もう一度死ぬ前に気が狂ってしまうよ——」  自分が、土中の棺の中で目醒めたところを想像したのか、逸勢は、肩をすくめて、小さく背をすくませた。 「空海よ、柳宗元殿が、文《ふみ》を読んでくれと言うていたのもそうか——」 「晁衡《ちょうこう》どのの文か?」  晁衡、すなわち、倭人《わじん》の安倍《あべの》仲麻呂《なかまろ》のことである。 「うむ」 「そういえば、そろそろ、柳宗元どのからの使者が来る頃ではないのか」 「ああ——」  空海がうなずく。  この日、柳宗元から、空海と逸勢は呼ばれている。  柳宗元が持っているという、安倍仲麻呂が書いたといわれている文を読むためである。  しかし、秘密の文であるため、誰かに知られることを避けたいと、あらかじめ、会う場所を決めておかなかった。 「こちらからむかえを出しましょう」  と、柳宗元は言った。 「そのむかえの人間と共に来てくだされば、その者がわたしのいる場所まで、おふたりをお連れするよう手配しておきます——」  その約束の日が、この日の朝であった。  すでに、暁鼓《ぎょうこ》は鳴り終えている。  いつ、柳宗元からの使いがやってきてもおかしくない刻限であった。  ふたりが、そういう会話をしているところへ。 「空海先生——」  大猴《たいこう》が姿を現わして、声をかけてきた。  空海と逸勢の方へ向かって歩いてきた。  その後方に、痩せて、一見、老いた狐のように見える男の姿があった。  役人というよりは、文人風の風貌をしている。  唇の両端に、筆で軽くなぞったような髭がある。  眼は、警戒《けいかい》心が強い動物のように小さく細い。 「柳先生からの、お使者です」  低い声で、大猴が言った。  大猴の後方にいたその男は、空海と逸勢に向かって、慇懃《いんぎん》に頭を下げた。 「韓愈《かんゆ》と申します」  空海と逸勢は、礼を返して自分の名を名のった。 「おむかえにあがりました……」  韓愈は警戒心の強い視線を、空海から離さずに言った。 「これから、おふたりを柳宗元の元まで御案内申しあげますが、その前にお伝えしておかねばならないことがあります」 「なんでしょう」 「晁衡の文のことです」  そう言って、韓愈は顔を曇らせた。 「どうしたのですか?」  空海が言うと、韓愈は、誰か、自分の言葉をどこかで聴こうとしている者がいないか、周囲に視線を走らせた。  人影はない。  それでも、まだ安心しきれぬように、数呼吸|間《ま》を置いてから、ようやく韓愈は唇を開いた。 「実は、晁衡の文が、昨夜、何者かによって盗み出されてしまったのです」  それだけ言うのに、大量の、肺の中の空気を使ってしまったように、韓愈は言い終えてから、大きく息を吸い込んだ。 「本当ですか?」  と、逸勢が問うた。 「ええ、本当なのです」  はっきりと韓愈は言った。        (二)  木の車輪が、土や小石を噛《か》む音が、腰から背に伝わってくる。  空海と、橘逸勢は、馬車に乗っている。  馬車はふたりずつ、向かい合って、四人が座れるようになっていた。空海と逸勢が並んで座り、ふたりの正面に韓愈が座っている。  馬車の外回りには、上から布が垂らしてあるため、外からは中の様子を見ることができないようになっていた。 「着くまでは、何も申しあげるなと言われておりますので——」  馬車が走り出した時、韓愈は、空海と逸勢にそう告げた。  それきり、韓愈は、かたくななくらいに、口をつぐんでいた。  馬車は延康坊《えんこうぼう》を出ると、東へ向かった。  しばらく走って、崇徳坊《すとくぼう》の角を南へ曲がり、次には宣義坊《せんぎぼう》の角を西へ曲がった。  それに気づいた逸勢が—— 「おい」  空海に小声で囁いた。 「これは、もどっているのではないか」  坊と坊の間の大街《たいがい》は、南北と東西に、碁盤目状に走っている。  つまり、目的地に向かうのに、いったん東に向かって走っておきながら、次に西へ向かうというのは、もどるかたちになる。 「何のために、わざわざ遠まわりをするのだ?」  しばらく走ると、こんどはまた北へ。  やはり、これも、もどることになる。 「空海よ、どういうことだ?」 「誰か、後を尾行《つ》けて来るものがいるかどうか、それを調べているのだろうさ」  後を尾行《つ》ける者がいないとわかれば—— �いずれは目的地に着くであろうよ�  そう言ってでもいるように、空海は背を、背もたれにあずけている。  しばらく、馬車はほとほとと走り、とある坊門をくぐった。 「永楽坊《えいらくぼう》のようだな」  逸勢が誰にともなくつぶやいた。  ほどなく、馬車が停《と》まった。 「どうぞ、お降り下さい」  韓愈が告げた。  馬車を降りて、ふたりが外へ出ると、そこは、唐破風《からはふ》の塀に囲まれた屋敷の中庭であった。  人気《ひとけ》はない。  槐樹《かいじゅ》が何本か。  まだ芽を出したばかりの牡丹の群落と、池がある。池のほとりに、大きな柳が一本、水面に長く枝を垂らしていた。  なかなかの屋敷ではないか——  そう言いたげな眼で、逸勢は空海を見た。 「こちらへ——」  そう言って、韓愈が歩き出した。  空海と逸勢はその後に続いた。  屋敷の入口をくぐって、中へ入ってゆく。  やはり、人気はない。  竈《かまど》があり、調理道具のある部屋を通り抜けて、さらに奥へ進んでゆき—— 「こちらです……」  韓愈が立ち止まった。  そこに、扉がある。 「空海さんと逸勢さんをお連れしました」  韓愈が扉のむこうへ声をかけた。 「どうぞ、中へお通しして下さい」  中から、聞き覚えのある、柳宗元の声がした。        (三)  窓を右にして、柳宗元が卓《つくえ》のむこう側に座していた。  空海と逸勢は、柳宗元と向き合うかたちで卓につき、座している。  韓愈は、空海と逸勢が左側にした窓を、正面に見るかたちにして、卓についていた。  卓の上には、茶の用意ができており、甘味《かんみ》のものが、皿の上に乗っている。  干し杏子《あんず》に、それから胡菓子《こがし》が何種類か—— 「ここは、わたしの友人の家です。無理を言って、今日はわざわざ家をあけていただきました。友人は、わたしが誰と会っているかはもちろん、わたしがここへ来ていることも知りません……」  柳宗元が言った。  空海と逸勢を見つめ、 「このようなかたちで、お呼びたてして申しわけありませんでした」 「いいえ」 「何分にも、話の内容が、秘密を要するものでありますので」 「我々のことであったら、気を使われなくて結構です。ところで、徐さんの畑の方は、その後、かわりはないようですね」 「一日に一度は、知らせが来ますが、特別なことはないようです」 「あの畑の俑《よう》のことについては、報告されたのですか」 「ええ。王先生に、わたしの口から申しあげました——」 「王先生は何と?」 「しばらく、他言はするなと。兵士や、金吾衛《きんごえい》の役人たちにも、それは伝えておけというので、そのようにはしたのですが——」 「いずれは、このこと、人の噂にのぼるようになるでしょう」 「だと思います」 「王先生は、どうしようと考えていらっしゃるのですか」 「おりをみて、順宗《じゅんそう》皇帝のお耳には入れておくそうです。あれこれ、色々なことを含めて——」 「あれこれ、色々なこととは?」 「貴妃の墓が暴《あば》かれていたことや、劉雲樵の屋敷で起《おこ》ったこと、それから、今、劉雲樵に青龍寺の鳳鳴《ほうめい》がついていることなどでしょう」 「劉雲樵の方も、今のところは何事もないようです」 「約束の十五日までは、もう、三日ほどでしたか——」 「そのくらいであったと思います」  空海と柳宗元は、淡々と言葉をやりとりしていた。  柳宗元は、本題に入る前に、空海と会話をしながら、話すことの内容を頭の中でまとめているのである。いや、というよりは、単に、語り出す覚悟を自分の中にもう一度確認しているようであった。 「それで、例の、晁衡《ちょうこう》先生の文《ふみ》についてのことなのですが——」  柳宗元は、そう言ってから、深い溜め息をついた。 「盗まれたそうですね」 「ええ」 「誰が盗んだかはわかっているのですか?」 「いいえ」  柳宗元は、小さく首を左右に振った。 「わたしの屋敷の倉の中に、ちょうど、内密の文書などを、隠しておけるような場所がありまして、今朝、見たらそこから晁衡先生の文が消えていたのです」 「ははあ」 「晁衡先生の文をわたしが持っているということは、この韓愈も含めて何人かの人間が知っていますが、その隠し場所については、知っているのはわたしひとりです」 「しかし、誰かがそれを盗んだ?」 「はい——」 「何者かが盗みに入ったおり、たまたま持ち去られたということは?」 「倉の中には、他にも、金めのものが置いてあったのですが、しかし、それ等のものは盗まれてはおりませんでした」 「ということは、やはり——」 「盗んだ者は、始めから、晁衡先生の文が目当であったということでしょう」 「盗んだ者の心あたりは?」  問われて、柳宗元は、静かに首を左右に振った。 「ありません」 「ともかく、誰かにとってはあれは、よほど重要な文であったということですね」 「ええ」 「いったいどのような文なのですか?」 「ですから、わたしには、その内容が読めなかったのです。倭国《わこく》の言葉で書かれていたからです。字そのものは、我々が使用しているものですが、その我々の字を使って、倭国の言葉を書き記したものらしいのです。倭国の方でなければ、まず、それを読むことはできないでしょう」 「誰か倭国の言葉がわかる者に、読ませたことはあるのですか?」 「いいえ」  柳宗元は、また、首を左右に振った。 「みだりに、その文の内容を、誰かが知るのはよくないと考えていたからです。何やら、楊貴妃の死にまつわるあれこれが書き記されたものであるらしいと、そういうことは知っておりましたが——」 「というと?」 「この文を下さった方が、そのようなことを申していたからです」 「下さった方?」 「そのことについては、今、ここでは申しあげられません。文のことを、こうして、異国のあなた方にお話しすることについても、わたしは、さんざん迷ったのです」  柳宗元は空海を見、 「白居易から、貴妃の墓所でのことを色々と耳にして、貴妃の遺体が墓所になかったことを知りました。空海さん、そのことを、すでにあなたは知っておられます。ですから、晁衡の文のことも、あなたにお話しする気になったのです——」 「それが、直前になって盗まれてしまったというわけですね」 「ええ」  うなずいてから、 「まだ、あなたに、お話ししていないことも、実はあるのです」  柳宗元は言った。 「文を下さった方のことですか」 「それとは、また別のことです」 「何でしょう」 「さっきも話の出た、劉雲樵のことです」 「というと?」 「劉雲樵の屋敷に、奇妙な猫が出て、皇帝の死を予言したというのは、わたしの耳にも入っています。皇帝には内密にして、色々こちらで調べたのですが、それでわかったことが、ありました」  柳宗元は、言葉をいったん切って、空海を見やった。 「続けて下さい」 「実は、劉雲樵も、貴妃の死に、あながち無関係ではなかったのです」 「ほほう」 「関係といっても、劉雲樵本人が、貴妃とつながりを持っていたということではありません」 「どのような?」 「劉雲樵の、父親の父親——つまり、貴妃の一件と関係があったというのは、劉雲樵の祖父の、劉栄樵《りゅうえいしょう》です」 「劉栄樵?」 「はい。劉栄樵は、実は、玄宗《げんそう》皇帝が安史《あんし》の乱で、蜀《しょく》へ落ちられたおり、近衛兵《このえへい》のひとりとして、共に、蜀までゆかれた人物だったのです」 「なるほど」 「しかも、馬嵬駅《ばかいえき》において、反乱を企てた兵士たちの中の中心人物のひとりであり、貴妃の兄である楊国忠《ようこくちゅう》を殺し、その首を落として槍の先に刺し、貴妃を殺すよう、玄宗皇帝に迫った人間たちの中にも、劉栄樵は入っているのです。どうやら、劉栄樵は、貴妃の姉のひとり、韓国夫人の首を槍の先に刺していたとか——」 「なんと——」 「このことを教えてくれたのは、白居易ですよ」 「白さんが——」 「彼は、思うところがあるらしく、玄宗皇帝と貴妃のことについては、前々から、色々と調べているようでしてね。ふたりのことについては、かなりの知識を持っています」 「これで、なんとなく、見えてきましたね——」 「ええ。今、長安城を騒がせているあれもこれも、皆、どうやら貴妃に関わりを持っているらしいのですよ」  そう言って、ようやく、柳宗元は気がついたように、卓の上に手を差し出して、 「いや、気がつきませんでした。ここに、茶の用意がありますのに、つい話に気をとられてしまって——」  茶を淹《い》れようとする柳宗元の手から、茶箱を取って、 「わたしがいたしましょう」  用意してあった碗に、茶葉をひとつまみずつ入れる。  韓愈が、その時には立ちあがって、湯を、茶葉の入った碗に注ぎ入れる。  少し冷《さ》めてはいるが、それでも、湯に、ゆるゆると茶の色が溶け出してきた。  茶をひと口ふた口すすって、逸勢は、干した杏子を口に運んだ。  空海は、軽く、碗に唇を付けただけであった。        (四) 「で、その文なのですが……」  落ち着いた頃を見はからって、柳宗元が再び話のきっかけを造った。 「はい」 「どうやら、それは、晁衡先生が、李大人に送ったものらしいのです」 「李白翁のことですね」 「そうです」 「また、何で、晁衡が李白翁に文などを——」 「ふたりが、交流していたことは、空海さんも御存知ですね」 「もちろん。晁衡が死んだと思って李白翁が書いた詩も、読みました」  空海は言った。  晁衡——つまり、安倍仲麻呂が、日本に帰ることになったのは天宝《てんぽう》十二年(七五三)のことである。  玄宗皇帝に気に入られていた仲麻呂は、日本へ帰朝するための嘆願《たんがん》書を、何度か皇帝に出したのだが、その願いを聴き入れてはもらえなかった。  ようやくにそれが許されたのが、空海が入唐した年より五十一年前であった。  いったんは日本へ向かう船に乗ったのだが、海上で嵐にあい、結局船は唐土に流れついてしまったのである。  晁衡が、生きて唐土にもどったのを知らず、嵐で死んだと伝え聴いた李白が残したのが次のような詩であった。 [#ここから1字下げ] 『哭晁卿衡』  日本晁卿辞帝都  征帆一片遶蓬壺  明月不帰沈碧海  白雲愁色満蒼梧  日本の晁卿 帝都を辞し  征帆《せいはん》一片 蓬壺《ほうこ》を遶《めぐ》る  明月《めいげつ》帰らず 碧海《へきかい》に沈み  白雲|愁色《しゅうしょく》 蒼梧《そうご》に満つ [#ここで字下げ終わり]  紛失した文は、その李白に、安倍仲麻呂が書き送ったものだという。 「うーん」  声をあげたのは、逸勢であった。 「これは、なんとも残念なことだなあ、空海よ。そういう文ならば、ぜひともこの眼で見たかったではないか——」  逸勢は、残念そうに唸り声をあげた。 「ところで、空海さん。実は、わたしは、文の内容についてはともかく、その文の始めに書かれていたもの、その題らしきものについては、記憶しております——」 「読めたのですか」 「いえ、読めませんが、そこに書かれていた字なら、この唐土のものなので、覚えていられたのです」 「それを、ここで書き記すことができますか——」  空海が訊いた。 「ええ。たぶん、できると思います」 「ぜひ、お願いします」 「しかし——」  柳宗元は、両手を胸にあてて、懐の内を確認するような仕種をした。  筆と紙の用意がないということらしかった。 「筆と墨ならば、ここに用意がありますよ」  空海は、自分の懐から、筆、墨、矢立てを取り出した。  さらには、紙も、その懐から卓の上に出した。 「おお、それならばいつでも書きますよ」  柳宗元は、空海から道具を受け取り、紙を広げた。  墨に筆をひたして、わずかに黙考した後、筆を動かし始めた。  さらさらと、そこに漢字が書きつけられていった。  漢字ではあるが、しかし、漢文ではない。  書かれているのは、大和言葉《やまとことば》である。  漢字を、発音記号として使用する、万葉仮名《まんようがな》であった。 「こうであったと思います」  書かれた紙の上下を逆にして、柳宗元は、それを、空海と逸勢の前に差し出した。  空海と逸勢はそれに眼をやった。 「おう」 「これは——」  空海と逸勢は、同時に、小さく声をあげていた。 「空海よ、これはまた、たいへんなことではないか」 「うむ」  空海は、その眼を異様に光らせて、その柳宗元が書き記したものを見いっていた。 「何と書かれてあったのですか?」  柳宗元が、たまらずに、身を乗り出して問うた。 「ここに書かれてあるのは、なんと、楊貴妃殿を、倭国へお連れするという意味のことです」 「なんと」  柳宗元は息を呑んだ。  そこに記されていたのは、次のようなものであった。 �玄宗皇帝の命によりて、倭国の遣唐使安倍仲麻呂、太真殿を倭国へお連れ申しあげること�        (五)  安倍仲麻呂——  第八次の遣唐使船で、留学生として入唐したのが、西暦七一七年——仲麻呂十七歳のおりである。  時に、玄宗皇帝の時代であり、まさに大唐帝国が大輪の牡丹のごとくに咲き誇っていた時期であった。  仲麻呂は、入唐後、しばらく朝臣仲満《あそんちゅうまん》と称していたが、後に名を唐風に改めて朝衡《ちょうこう》とした。この�朝《ちょう》�を古体字で記すと�晁《ちょう》�となり、晁衡とも書かれる場合もある。  先に記した李白の詩では、�晁�の字が使用されている。  以前にも書いたことなのだが、それをここでもう一度繰り返しておくと、仲麻呂は、安倍船守の子として、七〇一年、倭国に生まれている。  七〇一年といえば、この同じ年に、唐で李白が生まれている。空海と白楽天の年齢が近いのと同様に、李白と仲麻呂もまた、年齢は同じであった。  仲麻呂が同行した第八次遣唐使船には、吉備真備《きびのまきび》や、僧の玄肪《げんぼう》らも乗っている。  入唐後、仲麻呂は、官吏養成の学校である大学に学んだ。その後《のち》、科挙の試験を受けて進士《しんし》に及第した。当時の唐から見れば小さな極東の島国である倭国出身の人間が、皇太子の側近である春宮坊司経局校書《しゅんきゅうぼうしけいきょくこうしょ》になってしまったのである。  その頃の唐には、このような国際性があった。漢人であろうが、倭人であろうが、胡人であろうが、その能力に応じて国の重要なポストに就《つ》くことができたのである。科挙という制度は、一方では賄賂《わいろ》やコネによって及第が決まってゆくという悪しき部分を持ちながら、このような側面も持っていたのである。  仲麻呂は、その後、玄宗の左拾遺《さしゅうい》を経て左補闕《さほけつ》にまでなった。左拾遺、左補闕というのは、天子の側近の諫官《かんかん》として、常に玄宗の傍《かたわら》にあって、直接に皇帝と話ができる立場の役職である。  安倍仲麻呂は、その才能と人柄を、玄宗に愛された。  それが仲麻呂という人間の幸福であり、また不幸であった。  七三三年に、多治比広成《たじひのひろなり》が、第九次の遣唐使として入唐したおり、彼等の帰国と共に日本に帰ろうとしてそれを玄宗に願い出たが、許されなかった。逆に、玄宗は、仲麻呂の官位を高めて衛尉少卿《えいいしょうけい》にしてしまったのである。これは、従三品《じゅさんぼん》の官《かん》であり、外国人としては最高位にまで昇りつめたといってもいい。  七五二年に、第十次の遣唐使|藤原清河《ふじわらのきよかわ》がやってきた。この藤原清河が日本へ帰る七五三年に、再度、仲麻呂は帰国願を玄宗に提出し、ようやく許されて、帰途につくことができたのである。  この時の一行の中には、日本に招かれ、そこに骨を埋めようとした唐僧の鑑真《がんじん》もいる。  この時、仲麻呂五十三歳である。  仲麻呂の友人であった王維《おうい》は、この時に、一編の詩を仲麻呂に贈っている。  これが、「送秘書晁監還日本国」である。 [#ここから1字下げ] 『送秘書晁監還日本国』王維  積水不可極  安知滄海東  九州何処遠  万里若乗空  向国惟看日  帰帆但信風  鰲身映天黒  魚眼射波紅  郷樹扶桑外  主人孤島中  別離方異域  音信若為通 『秘書|晁監《ちょうかん》の日本国に還《かえ》るを送る』  積水《せきすい》は 極《きわ》むべからず  安《いず》くんぞ知らん 滄海《そうかい》の東を  九州 何《いず》れの処《ところ》か遠き  万里 空《くう》に乗ずるが若《ごと》し  国に向かいては 惟《た》だ日を看《み》  帰帆《きはん》 但《た》だ 風《かぜ》に信《まか》すならん  鰲身《ごうしん》は 天に映《えい》じて黒く  魚眼 波を射《い》て 紅《くれない》ならん  郷樹《きょうじゅ》は 扶桑《ふそう》の外《そと》  主人は 孤島《ことう》の中《うち》  別離《べつり》 方《まさ》に域《いき》を異《こと》にせば  音信《おんしん》 若為《いかん》ぞ通ぜん [#ここで字下げ終わり]  五言|排律《はいりつ》で、偶数句が韻をふんでいる。�積水�は海のことであり、�滄海�は神仙が住む島があると考えられていた海である。  唐では、日本国すなわち、神仙の住む蓬莱国《ほうらいこく》であるという考え方が当時からあったのである。  伝説の図絵では、その蓬莱国を、海面に浮かんだ巨大な亀が背負っている——�鰲身�は、この亀の身体のことである。  この時、王維、五十五歳。  いよいよ、日本国へ帰るという仲麻呂が、出発前の船上で詠《よ》んだとされているのが、 [#ここから2字下げ] 天の原ふりさけ見れば春日《かすが》なる三笠の山に出《い》でし月かも [#ここで字下げ終わり]  という有名な歌である。  この歌、漢訳がある。  かつての長安——つまり現在の西安《せいあん》に、この歌と漢訳が刻まれた碑がある。  碑の左側にこの歌の漢詩による翻訳が刻まれ、右側に、すでに紹介した李白の詩が刻まれている。  歌の漢詩訳は、次のようなものである。 [#ここから2字下げ] 翹首望東天 神馳奈良辺 三笠山頂上 想又皎月円 首《こうべ》を翹《あ》げて 東天を望む 神《こころ》は馳《は》す 奈良の辺《へん》に 三笠 山頂の上 又 皎月《こうげつ》の円《まどか》なるを想《おも》う [#ここで字下げ終わり]  しかし、いったんは出発したにもかかわらず、海上で嵐にあってまた仲麻呂は唐にもどることになる。  少し詳しく触れておけば、このおりの遣唐使船は、四船である。  清河と仲麻呂が乗船したのは第一船であり、この第一船は、七五三年十一月二十一日に、無事沖縄に着いている。その後、奄美《あまみ》大島に向かう途中、海上で暴風雨にあい、今のベトナムにまで船は流されてしまうのである。  そして、仲麻呂は長安にもどり、再び玄宗皇帝に仕《つか》えることになる。  安禄山《あんろくざん》の乱が起こった時、五十五歳の仲麻呂は、長安の玄宗皇帝と楊貴妃の元にいたのである。  乱が起こったのが、天宝十四年(七五五年)である。  この時、玄宗皇帝は楊貴妃と共に、蜀へ逃れるため、長安を落ちてゆくのだが、これに安倍仲麻呂は、従っていたものと思われる。  途中、馬嵬駅《ばかいえき》で、一緒に従ってきた兵の反乱があり、玄宗自らの命によって楊貴妃が殺されたことになっていることはすでに書いた。  仲麻呂が、玄宗と共にあったとすれば、これらのことをつぶさに見ていたことになる。  乱後、蜀から長安に玄宗がもどり、仲麻呂は佐散騎常侍《ささんきじょうじ》となった。玄宗の死後、粛宗《しゅくそう》の上元《じょうげん》年間に、鎮南都護《ちんなんとご》に任ぜられて、現在のハノイに赴任した。  七六六年に、鎮南は安南と改められ、仲麻呂はその地の節度使《せつどし》に任ぜられた。  翌七六七年に任を解かれて長安にもどり、その三年後、七七〇年、代宗《だいそう》の大暦五年正月に、長安で死んだ。  六十九歳——  すでに玄宗も、楊貴妃も、李白も、世にない。  歴史にはそのように伝えられている。  しかし——  楊貴妃については、歴史は、後の世にいくつかの説《せつ》を残している。  その説の根幹《こんかん》をなすのは、楊貴妃——つまり楊玉環という女性が、馬嵬駅で死なずに、蓬莱国へ落ちのびたというものである。  蓬莱国——つまり、日本のことである。俄《にわ》かには信じ難い説だが、現実に、この日本に楊貴妃の墓がいくつかあるのである。  そのうちのひとつは、山口県の向津具《むかつく》半島の油谷湾《ゆやわん》に面した土地、二尊院《にそんいん》にある。  墓は石塔、塔形は五輪。  これには次のような由来がある。  その由来によれば、馬嵬駅で死んだ楊貴妃というのは、実は身代わりであり、本物の貴妃は無事に日本にたどりついたというのである。  この計画を企てたのは、玄宗皇帝に最も近い宦官《かんがん》の高力士《こうりきし》と、馬嵬駅で反乱を起こした、つまり貴妃にとっては敵であるはずの陳玄礼《ちんげんれい》であると、その由来は言う。  高力士は、玄宗から貴妃を殺すことを命ぜられた本人であり、陳玄礼は、反乱の主謀者のひとりとして、貴妃の屍体を確認する立場にあった。このふたりが計れば、貴妃の生命を助け、落ちのびさせることは、あながち、不可能ではない。  つまり、馬嵬駅での造反の主謀者であった陳玄礼が、死に赴《おもむ》こうとしている楊貴妃に同情をしたと伝説は言う。  そこで、陳玄礼は高力士と図り、侍女を身代わりとして殺し、貴妃を逃した。  高力士が輿《こし》に乗せてきた貴妃の亡屍《なきがら》を検死するのが陳玄礼であったからこそのことであるが、史上、はたしてそのようなことが実際におこり得たかどうか。  一説によれば、この時、裏から手を回していたのは安禄山であったとも言われている。  貴妃より歳上の安禄山は貴妃の養子であり、実はこのふたりは男と女の関係にあったと伝える史書もある。  玄宗の年齢を考えれば、閨房《けいぼう》でのことに、若い楊貴妃が満足していたとは考えられず、現実に後宮の女たちが、ひそかに閨《ねや》に男たちを引き込んでいたのは事実である。しかし、貴妃が安禄山とそのような関係にあったというのはありうるとしても、あのような状況で、安禄山が手を回して貴妃の生命を救ったとは考えにくい。  油谷の由来にもどろう。  貴妃は、大船に食糧を積み込み、現在の上海《シャンハイ》付近の海岸から日本に向かって出船した。  この船が漂着したのが、油谷であるというのである。  乱が平定された後、貴妃を忘れられずに、玄宗は方士《ほうし》を遣《つか》わせて、仏像二体を貴妃に贈ったと言われている。貴妃もまた、やってきた方士に簪《かんざし》を渡して、それを玄宗に贈ったのだが、自らは日本にとどまり、結局、この地に果てた……  これが、楊貴妃の油谷渡来伝説である。  ちなみに、向津具の安佐《あんさ》からは、有柄《ゆうへい》細形銅剣が出土しており、この有柄の銅剣は、この土地が大陸との交流があったことを示すものであり、それをもって、楊貴妃渡来の根拠としているわけであるが、私見を言わせてもらえば、それは、根拠としてはなはだ薄いものと思われる。  ともあれ、久津の二尊院には、現在貴妃の墓とされる石塔がある。五輪塔で、鎌倉時代の作と言われており、それを中心にして、十五、六基の五輪塔が囲んでいる。これは、貴妃に従ってやってきた侍者たちの墓であると言われている。  京都の泉涌寺に、一体の菩薩《ぼさつ》像がある。  観音堂《かんのんどう》に安置されている、楊貴妃観音と呼ばれるものが、そうだ。  すでに書いたが、ある書によれば、玄宗から楊貴妃捜しを命じられた方士が、蓬莱国までたどりつき、玄宗からあずけられた仏像二体を、貴妃のもとに置いていったと言われている。  一説には、そのうちの一体が、この楊貴妃観音だというのである。  しかし、泉通寺の寺伝は、その説とは少し内容を異にしている。  妃冠を頭に被り、片手に白い花を持つ菩薩像だが、これは、玄宗が、貴妃の死を悲しんで作らせたものであり、天正《てんしょう》七年(一五七九)に泉涌寺の僧|湛海《たんかい》が、唐に留学したおりに持ち帰ったものとされている。 [#ここから1字下げ]  観音堂の本尊聖観音は、玄宗皇帝楊貴妃に別れ給ひて、追善のための妃の貌をうつして作り給ふ。補陀山の額も此帝の筆なり。 [#ここで字下げ終わり]  と、『都名所図会』に記載されている。  興味深いことに、この泉涌寺、空海が開いたと言われている。  同じ『都名所図会』に、 [#ここから1字下げ]  當寺の初は弘法大師の開基なり、其後文徳帝の御宇斉衡三年に、左大臣緒嗣公再建あって天臺宗となし、仙遊寺と號す。此山に仙人遊びしゆゑなり。 [#ここで字下げ終わり]  とある。  熱田神宮《あつたじんぐう》にも、次のような奇怪なる伝説がある。  なんとこれは、その祭神が、楊貴妃を玄宗のもとに遣わせたというものである。  唐の玄宗皇帝が、中国四百余州を平定した後、この日本までその手におさめようとしているのを知り、この祭神が楊貴妃という傾国《けいこく》を唐に送り込んで、彼《か》の国を乱世に導いたというのである。  このため、安史の乱が起こり、楊貴妃は役目を果たして彼の地に死するも、その魂魄《こんぱく》は蓬莱国に飛来して、その地に隠れ住んだ——その地こそが熱田であると。  その後、乱おさまって長安にもどった玄宗は、楊通幽《ようつうゆう》という方士を遣わして、楊貴妃の魂《たましい》のありかを捜させたところ、日本の蓬莱山にいることをたずねあてる。  貴妃の霊と会った後、唐へ帰って方士がこれを玄宗に報告すると、玄宗はなげき哀しみ、病《やまい》が高《こう》じて死んでしまった——  そういう話である。  この話のあらましは『仙伝拾遺』、『暁風書《ぎょうふうしょ》』に見える。  秦の始皇帝の命を受け、不老不死の仙薬を求めて蓬莱山へ向かった徐福《じょふく》もこの熱田神宮を訪れ、 「これ蓬莱宮《ほうらいきゅう》なり」  と言ったと、『東海瓊華集《とうかいけいかしゅう》』にある。  熱田神宮社伝によれば、楊貴妃の塚が、本殿の西北にあったと言われている。それが清水社の近くに移され、後に、故あって埋められたという。  さらに、熱田神宮には、かつて春敲門《しゅんこうもん》という門があった。  この門は、朱鳥《しゅちょう》元年(六八六)に本殿の東に建立され、貞享《じょうきょう》三年(一六八六)、熱田神宮改修のおりに東参道に移され、昭和二〇年三月の大空襲で焼失した。  この時、取りはずされて「春敲門」の額だけは焼けずに残ったのだが、この春敲門、楊貴妃の別館の名と同じである。  このように、日本各地に、楊貴妃ゆかりの地や、品物が残されている。  同様の伝説は、中国にもある。 『楊貴妃傳説故事』によると、楊貴妃の侍女のひとりに、張という貴妃に可愛がられていた女性がいたという。  この張が、貴妃の服を着て、自ら貴妃のかわりに殺されたというのである。  張は、舞がたいへんに上手《うま》く、その容姿も楊貴妃とよく似ていた。楊貴妃と一緒に踊ることもあり、貴妃や玄宗皇帝に可愛がられていた。  張は、玄宗皇帝や楊貴妃を心から尊敬しており、機会があれば、いつかこの恩を返したいと考えていた。  ある時、安禄山《あんろくざん》の乱がおこり、安の兵が皇宮に攻め込んできた。  安は、貴妃を、皇宮から出して殺すよう要求してきた。この時、貴妃の身代りになったのが、張であった。張は自ら前に進み出て、 「私が貴妃さまの身代りとなりましょう」  そう言って、楊貴妃の服を着、張は、安の前に出ていって、受刑したのであった。  墓には、張がかわりに葬《ほうむ》られた。  貴妃自身は四川《しせん》まで民間人の姿をして逃れ、日本の商船に乗って、日本までたどりついた。  この時の天皇が女帝|孝謙《こうけん》天皇である。  遣唐使として唐にいたことのある晁衡——つまり安倍仲麻呂が貴妃と孝謙天皇とを引き合わせたとその書には記されている。  このおり、楊玉環は、自分が貴妃本人であることを示すために、宮中で「霓裳羽衣《げいしょううい》の曲」を舞ったと言われている。  どうして、このような伝説が残るに至ったのか。  ひとつの理由として考えられるものに、白楽天の「長恨歌《ちょうごんか》」がある。  この物語の舞台となっている八〇五年——白楽天はまだ「長恨歌」を世に生み落としていない。  実際にこの長編詩が世に現われるのは、空海が日本に帰朝した直後の八〇六年である。  この「長恨歌」の物語が、日本における様々な伝説の背景にあることは疑えないであろう。  この長編詩のクライマックスは、玄宗皇帝の命により、死んだ楊貴妃の魂を求めて、ひとりの方士が蓬莱宮にたどりつき、そこで貴妃とめぐり合うくだりである。  貴妃は自らの簪をはずし、それをふたつに分《わか》って、その一方を方士にたくして玄宗へとどけさせる。 [#ここから1字下げ]  迴頭下望人寰処  不見長安見塵霧  唯将旧物表深情  鈿合金釵寄将去  釵留一股合一扇  釵擘黄金合分鈿  但令心似金鈿堅  天上人間会相見  臨別慇勤重寄詞  詞中有誓両心知  七月七日長生殿  夜半無人私語時  在天願作比翼鳥  在地願為連理枝  天長地久有時尽  此恨綿綿無尽期  頭《こうべ》を迴《めぐ》らして 下《しも》のかた人寰《じんかん》を望む処  長安を見ず 塵霧《じんむ》を見る  唯《た》だ旧物を将《も》て 深情を表さんと  鈿合《でんごう》 金釵《きんさ》 寄せ将《も》て去らしむ  釵《さ》は一股《いっこ》を留《とど》め 合は一扇《いっせん》を  釵は黄金を擘《さ》き 合は鈿《でん》を分かつ  但《た》だ心をして 金鈿《きんでん》の堅きに似しむれば  天上 人間《じんかん》 会《かなら》ず相見《あいみ》ん  別れに臨んで慇勤《いんぎん》に 重ねて詞《ことば》を寄す  詞《ことば》の中に誓い有り 両心《りょうしん》のみ知る  七月七日 長生殿《ちょうせいでん》  夜半 人無く 私語《しご》の時  天に在りては 願わくは比翼《ひよく》の鳥と作《な》り  地に在りては 願わくは連理《れんり》の枝と為《な》らん  天長地久《てんちょうちきゅう》 時《とき》有りて尽きんも  此の恨《うら》み 綿綿《めんめん》として尽きる期《とき》無し [#ここで字下げ終わり]  こうして方士は長安の都へ帰ってゆくのだが、日本の多くの楊貴妃伝説の源は、この詩に元を発している。  白楽天が、この伝説をもとにして「長恨歌」を創ったと日本の書は記しているが、むしろ、その逆の可能性の方が強いのではないか。伝説の物語の中に「長恨歌」のことが触れられているということは、「長恨歌」より後に、貴妃の日本渡来伝説が創作されたと考えてよいのではないかと思う。  しかし——  ではその元である「長恨歌」が創られた背景には何があるのか。  楊貴妃伝説について語る前に、ここに、まず史実として記してかまわないのは、玄宗上皇が、長安にもどった後、楊貴妃の墓を、移転しようとしたという事実があったということであろう。  まず、その史実から触れてゆくと、平凡社の『世界大百科事典』に、次のようにある。 [#ここから1字下げ] 「長安に帰った玄宗は隠密裏に改葬させたというが、その所在は不明である。」 [#ここで字下げ終わり]  中央公論社『世界の歴史』(4・唐とインド)もまた、楊貴妃の墓について記している。 [#ここから1字下げ] 「七五七年、歳末十二月に、玄宗上皇は、貴妃をうずめた馬嵬路辺の盛土に後髪《うしろがみ》をひかれながら長安にかえった。まだその時にあらずといさめられてはいたが、上皇はそっと宦官をして貴妃を改葬させた。すでにあの豊満の体は骸骨となって、ただ錦の香嚢《こうのう》だけがもとのままにあった。宦官が持ってかえった、彼女が肌身《はだみ》につけていた形見の香嚢は、玄宗をまた想い出の涙の谷にさそった。」 [#ここで字下げ終わり]  これらの記述は、どちらも『旧唐書《くとうじょ》』の「楊貴妃伝」や、北宋の司馬光《しばこう》が編んだ史書『資治通鑑《しじつがん》』の中にある記録が元になっている。  ちなみに、『旧唐書』の「楊貴妃伝」では、 �玄宗が貴妃を別の場所に葬ろうとした時、墓の中の貴妃は紫色の蒲団に覆われ、肌が腐りかけていた。しかし、香嚢だけは、腐らずにそのまま残っていた�  香嚢というのは、�匂《にお》い袋《ぶくろ》�のことであり、様々な香木の欠《かけ》らが、その布の袋の中には入っていた。 『楊貴妃傳説故事』の作者は、この改葬について、次のように書いている。 �いったんは葬られた貴妃の墓を掘り出し、再び修復したとの証拠を示すものが存在しない。どうして、貴妃を別の場所に葬ることについて、もっと詳しく書かないのか�  事実、『旧唐書』、『唐書』では、香嚢が残っていたことばかりが強調されており、実際に遺骨《いこつ》がそこにあったかどうかについては、ほとんど記されてない。  これは、つまり、馬嵬駅の墓は、衣類と冠だけの墓、 �衣冠墓�  であったのではないかという説まであらわれている。 �正史にはっきり記されていないということは、実は、貴妃は死んではいないのではないか�  そのように『楊貴妃傳説故事』の作者は記しているのである。  同書の別の項には、貴妃の死体は、いったんは埋葬されたのだが、戦いのどさくさにまぎれて、死体はなくなっていたとも記されている。  改葬のため、墓を掘りおこした宦官たちは、その事実を玄宗に告げなかったというのである。  また、死刑後のあとかたづけをしていた兵士のひとりが、貴妃の靴が片方落ちているのを見つけ、それを家に持ち帰ったが、その靴は異様な香りがしたという。  尸解仙《しかいせん》が昇天するおりに、衣服や靴などを残し、身は墓から失くなってしまうという話にどこか通ずるものが、ここにはある。  いずれにしろ、楊貴妃の死については、実に多くの文献があって、その内のかなりの数が、楊貴妃は馬嵬駅の後もまだ生きていたとしているのは興味深い。 [#改ページ]    第十七章 兜率宮        (一)  空海よ……  空海よ……  声が聴こえる。  小さな声だ。  すぐ耳元で、その声が囁《ささや》いているのである。  微《かす》かさでいえば、遠くに聴く虫の音《こえ》に似ているが、その声が発せられているのは、すぐ耳元であるような気がする。もしかしたら、その声は、もっと近い場所——頭の内部に聴こえているのかもしれなかった。  空海は、眠っている。  眠っている自分を意識している。  しかし、完璧な眠りではない。半分覚醒している自分がいて、その自分が、自分が眠っていることも、声が聴こえていることも、同時に認識しているのである。 �空海よ……�  と、その声は、呼びかけてくる。  あまりに微かで、性別がはっきりしない。  男か——  女か——  はて?  空海は、意識を集中して、その声を聴きとろうとした。  自分の意識が、覚醒しようと準備を始めかけた途端に、 「まて——」  声が言った。 「眼覚めては、逆に声が届かなくなる。そのまま聴け——」 「聴く!?」 「逃げず、素直に我が術《じゅつ》に心をゆだねよ」  その声は言った。  橘逸勢と共に、柳宗元と会ってきた日の晩であった。  空海が眠っているのは、西明寺の自室である。  真夜中《まよなか》を過ぎた頃であろうか。  いつの間にか、空海の眠りの中に、その声が忍び込んでいたのである。 「来い、空海……」  声が言う。 「女をひとり、むかえにやる。その女について来い」  執拗《しつよう》な声であった。  女?  空海が考えている間に、 「わかったか、空海——」  その声は言った。  空海——  どうだ。  空海さま…… 「空海さま」  中性的であった声が、知らぬうちに女の声になっていた。 「空海さま、こちらへ、いらせられませ」  ふっ、  と空海は眼を開き、頭を持ちあげた。  枕元に、淡い青色の単衣《ひとえ》を着た女が座していた。 「気がつかれましたか」  と、女は言った。  美しい女であった。  若く、唇が紅い。  冴えざえとした眼が、空海を見ていた。  柔らかそうな紅い唇に、ほんのりとした微笑が浮いて、 「さあ、おこしなされませ……」  空海をうながした。  空海は、しばらく女を見つめ、 「なるほど……」  うなずいて、夜具の中から身を起こした。  隣りの部屋では、逸勢が眠っている。その向こうで眠っている逸勢の様子をうかがうように、壁を見やってから、空海は立ちあがった。 「では、案内《あない》をたのもうか」 「こちらへ」  女も立ちあがり、風に揺れる細い柳葉のように歩き出した。  外へ出た。  西明寺の中庭である。  月が庭に、煌々《こうこう》と青い影をおとしている。  女は、素足で、芽を出した牡丹の間を、ゆらゆらと歩いてゆく。  庭の東よりのあたりに、大きな槐樹《かいじゅ》の巨木が生えている。  女はそちらの方に向かっているらしい。  その根元までやってくると、女は立ち止まり、 「こちらでございます」  艶然と微笑《ほほえ》んだ。 「ここか」  空海は、樹の前に立って、女と並んだ。 「私を呼んだお方は?」  空海が問うと、女は無言でうなずき、白い顎《おとがい》を持ちあげて、樹の上方を見あげた。 「あちらに……」 「樹の上か」 「こちらにお登り下されませ。上にてわが主《あるじ》がお待ちでござります」  空海が見あげても、誰かいるようには見えない。  芽ぶきはじめた槐樹の枝が、夜空に伸び、わずかな風を受けているばかりである。枝の向こうに、夜の星が点々と見えている。 「お登り下されませ」  女が言った。 「わかった」  空海はそう言って、一番下の枝に右手を伸ばし、それを掴《つか》んだ。  足を幹にかけ、身体をひきあげる。  不思議なほど軽々と、身体が最初の枝の上にあがっていた。 「もっと上へ——」  女の声が下から届いてくる。  空海は、左手を伸ばし、さらに上の枝を掴んだ。  上へ—— 「もっと上でござります」  女の声が響く。  なおも上へと登ってゆくうちに、いつの間にか、空海の周囲では、槐樹の青葉がざわめいている。  新しい葉の匂いが鼻をつく。  登り出した時には、まだ、こんなに青あおとは葉は繁っていなかった。  しかし今、空海がいるのは新緑のうねりの中である。四方だけではなく、上方も下方も、あらゆる方向で、槐樹の葉がざわめいている。  すでに、下で見あげた樹の高さは、とっくに越えているはずであった。  おかしい。  登っても登っても、青葉のうねりが続くばかりである。  空海は、黙々と登ってゆく。 「もっと上でござりまするぞ」  女の声。  さらに上へと登ってゆくうちに、やがて、女の声も聴こえなくなった。  どれだけ登り続けたであろうか。  妙なことに、上へ登れば登るほど、周囲がほんのりと明るくなってくるようであった。  いつになったら、これが終るのか、空海にもわからない。  ただ、登るにつれて、上方の明りがどんどん強くなってゆく。  何度も、いよいよここかと思っても、まだ、樹の梢は上方に続いている。  やがて——  ひときわ太い枝に手をかけて、そこまで身体をひきあげた時、空海は、樹の最上部に出ていた。  吸い込む空気に、ほのかな甘みと、かぐわしい香りがある。  どこかで、香を焚《た》いているといったものではない。空気自体に、えもいわれぬ果実の蜜が溶けているようであった。  昼でもなく、夜でもなく——しかし、周囲には、朧《おぼろ》な明りが満ちている。  家がある。  その、最上部の太い枝のいくつかに板が渡され、そこに小さな一軒の家が建てられていた。小さな、木造の家だ。  家の壁の隙《す》き間《ま》から、中で揺れている炎の灯りが見える。  屋根の隙き間から、薄青い煙が外に立ち昇っていた。 「そこか……」  小さくつぶやいて、空海は、枝の上を危なげなく歩いてゆく。  木の扉の前に立った。 「入られよ、空海どの……」  中から声がした。  男の声——しかも、老人の声であった。  空海は、扉を右手で押し開けながら、その家の中に入っていった。  板の間だった。  ほの暗いその板の上に、ちんまりと、白髪の老人が座していた。  老人の前に、|※[#「土へん+盧」、第3水準1-15-68]《ろ》が置いてあり、そこで小さく炎が燃えている。 「九万九千九百九十九|由旬《ゆじゅん》の高みまで、よくぞ座《わ》せられた、空海どの。月はもはや、そなたの足元のさらに下方にある」 「九万九千九百九十九由旬と申されましたか。なれば、ここは——」 「兜率天《とそつてん》」  と、老人がつぶやいた。 「なれば、あなたさまは、弥勒菩薩《みろくぼさつ》さまにておわしまするか」 「いかにも」 「いや、方士となって玄道《げんどう》をやるのでしたよ」  空海は言った。  玄道——すなわち、仙道《せんどう》のことである。 「何故!?」  老人が、怪訝《けげん》な顔をする。 「方士となり、仙道の修行でこのように兜率天に来ることができるとは知りませんでした。顕密《けんみつ》を学ぶよりも、この方がはやいのであれば——」  方士の修行をするのであったと、空海は言っているのである。 「ぬかしおるわ、空海」 「弟子にしていただけませぬか、丹翁《たんおう》どの——」 「おう、いつでもよいぞ」  そう応えて、老人——丹翁は、からからと声をあげて笑ったのであった。        (二)  須弥山《しゅみせん》という山がある。  華厳経《けごんきょう》に記された、世界の中心に聳《そび》えているというのがこの山である。  その高さ、およそ八万|由旬《ゆじゅん》(五十六万キロメートル)。  その山の西方を守護している尊神《そんしん》が、広目天《こうもくてん》。  北を守護している尊神が多聞天《たもんてん》。  南方が増長天《ぞうちょうてん》。  東方が持国天《じこくてん》。  その山の頂《いただき》には、高さ百由旬(七十キロメートル)におよぶ円生樹《えんしょうじゅ》という樹が生えている。  そこに、出自《しゅつじ》はヒンドゥーの神々のひとりであるインドラ神、つまり大釈天《たいしゃくてん》の住む宮殿があると言われている。  その頂——つまり大釈天の宮殿|殊勝殿《しゅしょうでん》からさらに上方へ九万九千九百九十九由旬行った場所にあるのが、兜率天である。  兜率天では、かの弥勒菩薩が、五十六億七千万年後に、仏となって地上に降臨するため、仏陀の説法を聴いていると言われている。  菩薩——これはつまり、やがて仏陀となる存在に対して付けられた呼び方である。  空海と丹翁の会話は、このことをふまえてのものだ。  空海は、|※[#「土へん+盧」、第3水準1-15-68]《ろ》をはさんで、丹翁の前に座した。 「よう来た、空海——」  丹翁が、眼を細めてそう言った。 「先夜の晩は、色々とお助けいただき、ありがとうございました」 「私事《わたくしごと》でな。礼にはおよばぬよ」 「私事、と申されましたか?」 「さよう」  短く言った。  私事であるからつまり、詮索《せんさく》は無用であると、丹翁は言外にそう告げているようであった。 「本日は、この兜率宮までのお呼び出し、どのような御用件でございますか」 「急ぐな、空海。この兜率宮には、かようなものもあるでな」  丹翁は、|※[#「土へん+盧」、第3水準1-15-68]《ろ》の向こう側から、陶でできた瓶子《へいし》を一本取り出して、|※[#「土へん+盧」、第3水準1-15-68]《ろ》の上においた。  甘い香りが鼻をつく。 「酒ですか」 「胡酒《こしゅ》よ」  葡萄酒《ぶどうしゅ》であると、丹翁は言った。  さらに、瑠璃《るり》でできた盃をふたつ、|※[#「土へん+盧」、第3水準1-15-68]《ろ》の上に置いた。 「おもしろい趣向ですね」 「気にいったか」  丹翁は、無造作に酒をふたつの盃に注いだ。 「沙門《しゃもん》の身に、酒を入れるわけにはゆかぬかな?」 「いただきましょう」 「倭国《わこく》の沙門は酒を禁じられておらぬのか」 「倭国の沙門のことであれば、禁じられていても、飲む者も、飲まぬ者もおります」 「ぬしは飲むのか」 「はい」  空海には、少しも悪びれた風はない。  その空海をおもしろそうに眺め、 「では」  丹翁が、葡萄酒の入った瑠璃の盃を手に取った。  空海が、残った盃を手にする。  薄い緑色をした、透明な瑠璃の盃は、長安でも貴重品である。 「では」  その瑠璃の盃の縁を軽く触れ合わせ、ふたりはそれを口に運んだ。 「それにしても、ようここまで来たな、空海よ」  盃を置きながら丹翁が言った。 「おまねきいただきましたので」 「ここが、兜率の天というたは、あながち嘘というわけではないぞ。常人には、とても来られぬところぞ」 「存じております」 「なあ、この丹翁の仕業と、いつからわかった?」 「眼覚めずに聴けと、そう申されました時に、そうであろうと思いました」 「しかし、これは、なかなか並の人間にできることではないぞ」 「お言葉通り、丹翁どののお心にわが心をゆだねたまでのこと——」 「まさか、倭国の沙門が、皆ぬしのようであるわけもなかろうが、さても野にはおもしろい輩《やから》がいるものよな」  丹翁は、また、盃を口に運んだ。 「ここは、つまり、ぬしとわしの心もち次第で、兜率天とも餓鬼道《がきどう》地獄ともなるところよ。ほれ、このようにもな——」  丹翁の言葉が終らぬうちに、身に一糸も纏《まと》わぬ裸女が、丹翁の横に座している。  空海のすぐ隣りにも、美しい裸女が現われ、空海にしなだれかかってきた。  ふくよかな乳房が、空海の腕に触れる。  女が、細い白い両腕を、しなしなと空海の首にからめてきた。  それを、空海が横目で見る。  と——  いつの間にか、裸の女と見えたものが、綾衣《あやぎぬ》をその身に纏っている——そう見えた時には、それが、牙をむいた大猿の姿に変っていた。鋭い牙を、空海の喉《のど》にいまにも埋め込もうという素振りを見せるが、空海は悠然と酒を飲んでいる。  女を、大猿と変えたのは、丹翁である。 「これ——」  丹翁が、苦笑しつつ、瑠璃の盃を差し出してきた。中に入っていたはずの葡萄酒が消え、大輪の、さっきまでそこに入っていた酒と同じ赤い色をした牡丹が、その盃の中から咲き出している。  それは、空海がやったものだ。  見れば、ふたりの周囲には、牡丹が満開となって咲き乱れている。  女も、大猿も、どこにもいない。  女がいたと見えた丹翁の肩のあたりには、白い大輪の牡丹が、重く首を垂れているばかりであり、大猿と見えたものは、艶《あで》やかな紫の牡丹と変じて、空海の右肩の上にその重い首を乗せているばかりだった。  兜率宮と丹翁が呼んでいた小屋は消え、陽光がそそぎ、空には青い風が吹いている。  空海と丹翁は、どこまでも牡丹満開の野の中心に座し、|※[#「土へん+盧」、第3水準1-15-68]《ろ》をはさんで向かいあっている。  そこへ、強い風が横手から吹きよせてきて、牡丹の花びらが次々に離れて風に飛ばされてゆく。  何百、何千、何万、何億という数の花びらが、透明な風に乗って青い天の虚空《こくう》に吹きあげられてゆく。  凄まじいまでの光景であった。 「おう、みごとな……」  思わず、丹翁の唇から、讚歎《さんたん》の声が洩れた。  と——  いつの間にか、それがもとの兜率宮の内部へとかわって、丹翁と空海が、葡萄酒の入った盃を互いに握って向かいあっている。 「ぬしと遊んでおるのはおもしろいが、そういつまでもこうしてはおれぬでな」  丹翁が、残念そうに言った。 「御用件を——」  空海が言った。        (三) 「晁衡《ちょうこう》どのの文《ふみ》が、紛失《ふんしつ》したそうだな」  丹翁が、空海の眼の奥を、覗き込むように言った。 「すでに、そのこと御存知とはさすがに丹翁どの——」 「その文、実は、長い間、このわしも捜していたものでな」 「ほう——」 「まさか、かの李白翁の手に渡り、柳宗元の手に渡っていたとは知らなんだわ」 「その文に、どのようなことが書かれていたかは御存知なのですか」 「いくらかはな」 「お読みになったことは?」 「ない」 「晁衡どのが、楊貴妃さまを、倭国へお連れ申しあげるとかいうことについて、それには書かれてあったそうですね」  丹翁の、小さな眸《め》の中に、妖しい光が点《とも》った。 「わしに、誘いをかけて、あの文の内容を聴き出そうというのか」 「はい」  悪びれもせずに、空海がうなずいた。 「ぬしの顔を眺めていると、うっかり話したくなってしまうではないか」 「ぜひ」 「そうもゆかぬ——」  丹翁はそう告げてから、 「——そう言いたいところなのだが、いくらか事情が変ってきたところがあってな」 「どのように?」 「急《せ》くなよ、空海」 「しかし、知りたいのです」 「いいだろう」  丹翁はうなずいた。 「いいが、しかし、条件がある」 「条件?」 「あの文のこと、教えてやるかわりに、ぬしに頼みたいことがあるのだ」 「何でしょう?」 「あの文だがな、いずれ、このわしが手に入れてぬしの眼の前に持ってきてしんぜよう」 「できるのですか、そのようなことが——」 「おそらくな」 「その行方に、心あたりがあると?」 「なくはない」 「何者かが盗んだと——」 「——」 「誰が盗んだのですか」  空海の問いに、しかし、丹翁は答えなかった。 「頼みというのはな、空海——」 「はい」 「わしが、ぬしの眼の前に持ってきた文を、ぬしに読んでもらいたいということよ」 「ははあ、丹翁どのには、倭国の文字は判読できませぬのですか」 「できぬ。だから、ぬしに読んでもらいたいのだ。さすれば、おのずと、ぬしにも、あの文にいかなることが書かれてあるかがわかろうが——」 「なるほど」  うなずいてから、空海は何事か思い出したように丹翁に眼をやった。 「丹翁どの、何故に心がわりをしたのですか?」 「心がわり?」 「この件には関わるなと、馬嵬駅《ばかいえき》でもそう言われたように記憶しておりますが」 「そのことか」 「ここへ呼び出された用件というのも、それだと考えていたのですが」  なのに、わざわざ安倍仲麻呂の書いた文を読めとは、むしろ関わるのをすすめているのと同じではないか——空海は、そう問うたのである。 「いや、今でも、ぬしにできることなら手をひけとそう言いたいところなのだが、まず、晁衡どのの文のことがあるでな。加えて、いずれはぬしも、いやでもこれに関わらずにはおられなくなると思うたからよ」 「と言いますと——」 「この一件、実は、青龍寺も深く関わっておるのさ」 「なんと?」  はじめて、空海の顔に驚きの色が生じていた。 「いずれ、ぬしは、青龍寺の恵果《けいか》和尚のもとへゆくことになるのであろう」 「はい」 「本来であれば、この一件、わしが手で秘密裡に収めようと思うていたのだが、そうもゆかなくなってきた。すでに、青龍寺が、この件に関わってきてしまっている」 「鳳鳴《ほうめい》のことですね」 「それで、ぬしが青龍寺へゆけば、自然とこのことに関わりを持たざるを得なくなる」 「つまり、貴妃さまと青龍寺が、この件で、かつて何らかの関わりを持ったということですね」 「うむ」 「どのような関わりでしょうか」 「今日は、あまり、しゃべり過ぎぬよう心づもりをしてきたでな。今夜のところは教えてやれるのは、ここまでよ」  空海は、不満そうな顔をした。 「しかし、丹翁どの、楊貴妃さまを倭国へお連れ申しあげるというようなことが、本当にあったのでしょうか」 「あった——あったかどうかということでなら、まさしくあったよ。そのようなことがな——」 「で、本当に貴妃さまは、倭国へ——」 「さて」 「丹翁どのもごらんになったと思いますが、馬嵬駅の貴妃さまの墓所に、貴妃さまの屍体はございませんでしたね」 「見た通りよ」 「あのことと、晁衡どの、どのような関わりを持っているのですか?」  空海が問うと、 「この件が、すべて収まった後でなら、なんなりとも話はできようが、今夜はここまでよ。すでに、かなりのこと、ぬしに話したでな——」  丹翁は、静かに首を左右に振った。  丹翁は、空海をあらためて見やり—— 「空海よ。前にも言うたが、青龍寺へは、早い時期にゆけ。二十年という歳月が、ぬしにはあるのだろうが、青龍寺の方は、それほどの時間はないぞ」 「青龍寺というのは、つまり——」 「恵果和尚のことよ」 「昨年、病で倒れられたそうですね」 「恵果和尚に残された時間は、もうわずかであり、ことによったら——」  そこで、丹翁は口をつぐんだ。 「ことによったら?」 「この一件が、恵果和尚に残された時間を、さらに短くすることになるやもしれぬ」  丹翁は、盃の酒を干した。  今夜の話は、ここまでという、意思表示のようであった。 「それでは……」  空海は座したまま、静かに頭を下げた。  頭をあげると、もうそこに、丹翁の姿はなかった。  さっきまで丹翁がいたあたりに、まだ丹翁の体温が残っているように、そこから、ほんのりとその温度が漂ってくるような気がした。  しかし、空海にはわかっている。  それは気がするだけで、そこに丹翁の生身がいたわけではないことを。  暗い海底から、じょじょに浮上してゆくように、空海は、眼覚めてゆく自分を意識した。  兜率宮の風景が消えてゆき、ゆっくりと見知った風景が眼の前に現われてきた。  文机《ふづくえ》。  その上にある経典。  筆。  灯りの消えた灯明皿。  それ等が、窓からわずかにこぼれてくる月明りの青い影の中に、ぼんやりと見えている。  空海の部屋であった。  夜具の上に上半身を起こした姿勢で、空海は眼覚めていた。  さっきから、一歩も、自分はこの部屋から出ていないということを、空海はよく承知をしていた。  しかし、まぎれもなく、自分は、今、あの丹翁と会い、別れてきたのだということもわかっていた。  隣りの部屋から、逸勢の寝息が、静かに聴こえていた。 [#改ページ]    第十八章 牡丹        (一)  早朝に、| 橘 逸勢《たちばなのはやなり》が、空海の部屋に駆け込んできた。 「おい、空海よ——」  その声がはずんでいる。 「あれはお前がやったのか?」  逸勢は、興奮して顔を少し赤くしている。 「あれ、とは何だ、逸勢よ」 「牡丹だよ。おまえが手を当てていた牡丹が、今朝花を咲かせたのだよ」 「ほう」 「とぼけなくてもいい。今、西明寺《さいみょうじ》の坊主たちが、みんな騒いでいるぞ」 「はて——」  空海は、怪訝《けげん》そうな顔をした。 「そんなはずはない」 「そんなはずもなにも、おれは、おまえがいつも、あの牡丹の枝に手を当てていたのを知っているし、それが、他のどの枝よりも早く葉を付け、蕾《つぼみ》をふくらませていたではないか——」 「ううむ」 「まさか、また、孔雀明王《くじゃくみょうおう》殿が咲かせたなどと言うつもりはあるまいな」 「そうは言わぬ」 「ともかく来い」  逸勢にうながされて、空海は庭へ出た。  件《くだん》の牡丹の前に、人が集まっていた。  志明《しみょう》と談勝《だんしょう》の顔も見える。  空海が歩いてゆくと、志明が気がつき、声をかけてきた。 「みごとなものですね」  志明の横に並んで覗《のぞ》いてみると、白い牡丹の花が一輪咲いていた。  みごとな、大輪の白い牡丹であった。  花の咲いた枝が、花の重さに耐えきれず大きく垂れているにもかかわらず、花は、凜《りん》と上を向いていた。  艶《あで》やかな牡丹であった。  しかも、これは、もともと白い牡丹が咲くべき枝ではない。本来であれば、赤い牡丹が咲くべき枝に、白い牡丹が咲いているのである。  それが証拠に、同じ枝の他の蕾《つぼみ》は、どれも赤い。 「これは、あっという間に、長安中に広まりますよ」  志明が言った。 「見物人が、大勢来ることでしょう」  談勝は、空海に言った。  他の牡丹は、ようやく芽ぶきが終り、赤い芽がほどけて、淡い緑色の葉が伸びかけてきたところだというのに、その枝だけは、葉が大きく広がり、そして、花をつけているのである。  いやはや——  空海は、困ったような面持ちで、慇懃《いんぎん》に恐縮して見せ、早々にその場を退散《たいさん》した。 「どうしたのだ、空海——」  後を追ってきた逸勢が、小声で肩越しに声をかけてきた。 「さっきも言ったがな、逸勢よ、あれは、おれがやったのではないぞ」  確かに、これまで空海が手を当てて早く咲かせようとしてきたものであったが、誰かが昨夜、それをさらに早めていったのである。 「ならば、誰がやったのだ」 「丹翁《たんおう》殿であろう」 「丹翁? 何故だ?」 「さて——」  空海は、何事かを考えるように沈黙して数歩あるいてから、 「約定《やくじょう》のしるしであろうかよ」  そうつぶやいた。        (二) 「そうか、昨夜、丹翁殿が来たのか」  逸勢は、納得したようにうなずいた。  空海の自室であった。  空海が、逸勢に、昨夜のことを語り終えたところである。  と言っても、空海は、自分の体験を正確に語ったわけではない。たとえ、丹翁の術中のことであったにしろ、兜率天《とそつてん》まで行ってきたなどと言えば、話が長くなる。  ひそかに、丹翁が自分の部屋に忍《しの》んできて、晁衡《ちょうこう》の文《ふみ》のことを告げていったと、そのように逸勢には伝えてある。その丹翁が、帰りがけに、牡丹の枝に花を咲かせていったのであろうと。  もともと、その枝は、空海が手を翳《かざ》していた枝である。空海の翳した手の影響を受けていたからこそ、丹翁にしても、ひと晩で花を咲かせることが可能であったのだろう。 「しかし、晁衡殿の文、はたしてあの丹翁殿に手に入れられるものなのかな」 「それはわからぬが、なんらかの心当りはあるのだろうな」 「で、どうするのだ、空海よ」 「どうするとは?」 「我々は、丹翁殿が文を手に入れてくるまで、凝《じ》っと待っているだけなのか」 「いや、することならば、いくつかある」 「何を」 「たとえば、安《あん》先生のところへゆくことがひとつ——」 「安先生?」  逸勢は訊《き》いた。  空海が安先生と呼んだのは、安薩宝《あんさつぽう》のことである。唐土《もろこし》の人間ではない。胡人《こじん》である。  波斯《ペルシア》人——わかり易く言えば、イラン人のことだ。  この時期、波斯の国教である|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]教《けんきょう》——つまり、拝火教《ゾロアスター》が、長安にも入っている。  その寺院である|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》祠《し》も建てられている。  安《あん》は、その拝火教の祭司であり、空海はこの安から、天竺《てんじく》の言葉——| 梵 語 《サンスクリット》やペルシア語などの胡語を学んでいるのである。  薩宝というのは、人の名ではなく、�官職�の名である。唐に住む、在留西域人をまとめて管理するための官職が、�薩宝�ということになる。  すでに、逸勢も、この安薩宝には、一度、会っている。 「何故だ」 「この前、おまえも一緒に行った時、安先生が言っておられたではないか」 「何をだ」 「カラパンのことだ」 「カラパン?」 「波斯《ペルシア》の、邪宗淫祠《じゃしゅういんし》に仕《つか》える呪術師《じゅじゅつし》のことを、カラパンと呼ぶのだと言っていた。この唐にも、そのような呪術師《カラパン》が入ってきていると——」 「それがどうしたのだ」 「貴妃様の墓所《ぼしょ》を掘りおこした時、石棺《せっかん》が出てきたろう」 「ああ、覚えてるよ」  逸勢は、冷たい手が首筋に触れたように、首をすくめてみせた。  石棺を開いた時、その上蓋《うわぶた》の裏についていた、血の掻《か》き傷のことを思い出したらしい。 「その時、犬の髑髏《しゃれこうべ》を土の中から掘り出したろう」 「うむ」 「その髑髏に文字が書かれていたな」 「おう、そうだったな」 「その文字が波斯《ペルシア》文字だったではないか」 「確かに——」 [#ここから1字下げ] �この地を穢《けが》すものは、呪われよ。この地を荒らすものに、災いあれ。大地の精霊の御名において、それ等のものどもに恐怖を与えよ� [#ここで字下げ終わり]  そう書かれていた。  さらには、徐文強の綿畑から出てきた俑兵の胸にも波斯《ペルシア》の呪法が書かれていた。 「そしてだな、この件に深く関わっているらしい、�胡玉楼《こぎょくろう》�の麗香《れいか》が、胡人ではないか」 「そうだ。それに、麗香は、得体の知れない道士の家にも出入りしているらしいという話だったな——」  言ってから、逸勢は、 「なるほど」  とうなずいた。 「そういうことを、安先生からいろいろ訊いてみようというわけだな」 「まあ、そうだ」 「他にも、まだ、することはあると言っていたな」 「ああ」 「何なのだ」 「今、話の出た、麗香が出入りをしていた道士の家は、大猴が調べてわかっている。そこへ、様子を探《さぐ》りに行ってみようと思っているのだがな。しかし——」 「どうした」 「それは、安先生の話をうかがってからでも遅くはあるまい」 「では、安先生のところへ、まずうかがうと?」 「そうしようと思っている。幸いに今日は、安先生の所へ、胡語を習いにゆく日だ。妖物に気を取られていて、そちらの方をおろそかにするわけにもいかないからな——」 「よし、おれもゆこう」  逸勢が言った時、窓の向こうから、声が届いてきた。 「空海先生、いるかね……」  大猴《たいこう》の声であった。 「いるよ」  空海が、窓を細めに上げると、そこに、人なつこい、大きなふたつの目が覗いた。  大猴だ。 「先生、たいへんなことになっちまいましたよ」 「どうしたのだ」 「それがね、今朝早く、呂家祥《ろかしょう》の屋敷に様子を見に行ったんですがね」  呂家祥の家には、今、劉雲樵《りゅううんしょう》が隠れている。 「空海先生、劉雲樵が、死にましたぜ」  大猴が言った。 「なんだって……」  珍しく、空海の声が高くなった。 「嘘じゃありませんぜ。昨夜、というより、今朝方早く、劉雲樵の死体が見つかって——」 「見つかった?」 「ええ。呂家祥の家の劉雲樵が使ってた部屋で——」 「いったい何があったのだ。青龍寺《せいりゅうじ》の鳳鳴がついていたはずだ。あの男、なまなかな呪法や、そこらの妖物に、めったなことで遅れをとるような人間ではない」 「空海先生、こりゃあ、別に鳳鳴先生がいけないんじゃねえですよ。たとえ、空海先生だって、劉雲樵は助けられやしなかったってことです」 「どういうことなのですか」 「ですから、劉雲樵は、自分で自分の生命を縮めたんですよ。自殺です。死にたがってる人間は、たとえ、仏様だって、助けられるもんじゃあねえです」  大猴は、ひと息に言ってのけた。 「自殺か」 「はい」  大猴は、太い顎《あご》をひいて、うなずいた。        (三)  こういうことであった。  昨夜、劉雲樵が錯乱した。  初めてのことではない。  空海が鳳鳴と共に、呂家祥の家に匿《かくま》われている劉雲樵に会いに行った時もそうであった。 「来たか。ついにおれを殺しに来たか」  そう言って、空海や鳳鳴につかみかかってきた。  刃物を使って、ふたりを殺そうとまでした。  鳳鳴が、劉雲樵の身体から悪い気を取り去って、一時的には劉雲樵を正常にもどしはしたのだが、空海たちが帰った後、その晩にまた劉雲樵がおかしくなった。 「おまえ、本当は、おれを殺しに来た猫だろう——」  そう言って、鳳鳴に飛びかかってきた。  鳳鳴が、劉雲樵を取り押さえ、悪い気を取りのぞいてやると、もとにもどる。  これまで、その繰り返しであったという。  しかも、悪い気が身体に溜る間隔が、次第に短くなってきた。  すでに、劉雲樵の身体の方に、そういう気を呼びよせる準備ができてしまっているのである。  鳳鳴がいくら取りのぞいても、あっという間に、その悪い気が溜ってしまうのだ。  不安。  憎悪。  怒り。  そういうものに、精神《こころ》を蝕《むしば》まれていると、たやすく、それがたちの悪い気と感応して、それを呼びよせてしまうのである。場合によっては、無害な気までが、劉雲樵の理念に触れて、たちの悪いものに変貌する。  それが、劉雲樵に憑《とりつ》く。  それを、鳳鳴が取りのぞく。  しかし——  鳳鳴も眠らなければならない。  夜には、劉雲樵と同じ部屋で眠っていたのだが、ついに、劉雲樵がそれを拒否した。  それが、昨夜だ。 「眠っている間に、おれを殺す気だな——」  凄い眼つきで、鳳鳴をねめあげて、劉雲樵はそう言ったという。  この頃には、劉雲樵は、悪気を取りのぞいてやっても、完全にはもとにはもどらなくなっていた。  悪気が憑いている、いないにかかわらず劉雲樵の精神そのものが、そのような構造を持ちはじめてしまったのである。  鳳鳴がそばにいる間は、劉雲樵は、眠ろうとしなかった。  幻覚さえ見ているらしい。 「おれが眠ったら、その間に殺すつもりだな——」  獣のような唸《うな》り声を、喉の奥であげる。  鳳鳴ではなく、呂家祥が同じ部屋で眠ろうとしてもだめであった。  眠らない、食事もとらない。  劉雲樵が、たちまち窶《やつ》れてゆく。  ついに、四日目の晩になって、鳳鳴は、劉雲樵を独《ひと》りで眠らせることにした。  まず、念入りに、建物と、部屋から邪気祓《じゃきばら》いをした。  最後に、劉雲樵自身からも、邪気を祓った。  それで、劉雲樵を独りで眠らせた。  隣りの部屋に眠ったのは鳳鳴である。  三刻ほどは、何事もなく過ぎた。  三刻をまわって、四刻にもなろうかという時に、劉雲樵の部屋から声が聴こえた。 「来たな……」  底にこもった、しわがれた声だった。  劉雲樵の声だ。 「おれを殺しに来たんだな。わかってるぞ」  寝台から、立ちあがる気配があった。 「殺せるものか。殺せるものなら殺してみろ。え?」  幻覚を見ているらしい。  鳳鳴は、劉雲樵の部屋の扉を開けようとした。  開かない。  何かで押さえてあるか、閂《かんぬき》をかけているのだろう。  ドアを開けようとした気配が中に伝わったらしく、劉雲樵の高い悲鳴があがった。 「ひいっ」  がたん、という、何かが倒れる音。  劉雲樵が、中で走る音。 「糞!」  劉雲樵の叫び声。 「殺されないぞ。殺されるものか——」  危ない。  鳳鳴がそう考えた時、呂家祥が、使用人と共に、斧《おの》を持ってやってきた。 「この斧で——」  呂家祥が、扉に向かって、斧を打ち込んだ。 「あ、待って——」  鳳鳴がそう言った時に、部屋の中の劉雲樵が、獣と同様の唸り声をあげ、それが、次には高い悲鳴になった。 「き、き、来た!」  壁に、劉雲樵が背をぶつける音。 「こいつめ、殺せるものなら殺してみろ。いいか、おれは、おまえになんか殺されないぞ、いいか、見ていろ——」  重いものが、床に倒れる音。  微かな呻《うめ》き声と、  ふいに——  静かになった。 「いけない」  今度は、鳳鳴自身が、呂家祥の手から斧を取って、扉に打ち込んだ。  扉を壊して中へ入ってゆくと、家具が散乱した部屋の中央に、俯《うつぶ》せに、劉雲樵が倒れていて、その床に伏せた顔の下から、大量の血が這い出てきていた。  手に持った短剣で、劉雲樵は、自らの喉を突いていたのである。 「どうだ、殺せなかったろう。おれは、自分で死んでやったのだからな……」  そう言って、劉雲樵はこと切れたという。 「空海先生、死のうとする人間は、助けられませんぜ。便所へゆくといって、独りになった時に、首を吊ったっていいし、刃物で喉を突いたっていいんですからね。一生、何かに縄で縛りつけておくってえわけにもいかねえんですから——」  大猴はそう言った。  空海は、太い溜め息を、ひとつ、ゆっくりと吐き出した。        (四)  空海が、橘逸勢と出かける前に、鳳鳴の方から西明寺を訪ねてきた。  煌《きら》めくような才が、その相貌から溢れ出てくるようであった鳳鳴の顔が、驚くほどにやつれていた。声を聴かねば、別人かと見えるほどである。  眼が窪《くぼ》み、頬の肉が落ちている。  骨の髄まで枯れ果ててしまった病人のような表情で、鳳鳴は、空海の前に立った。  今、義明《ぎみょう》と澄明《ちょうみょう》に報告をしてきたところだという。 「残念なことでした」  空海は、そう言った。  西明寺の中庭である。  芽を膨《ふく》らませた牡丹の上に、柔らかく陽差しが注いでいる。  逸勢は、短い言葉で最初に鳳鳴と挨拶をかわしただけで、あとは空海の横で沈黙している。  空海自身にも、こういう時の鳳鳴にかけてやる言葉の持ち合わせが、いくつもあるわけではなかった。  鳳鳴は、空海の言葉に静かにうなずきながら、溜め息をひとつ、ついた。 「空海さん、実は、わたしは自信を持っていたのですよ」 「自信?」 「どのような相手の呪法であれ、劉雲樵を守りきることができると思ったのですよ。それが、とんでもない考え違いをしていました——」 「御自分を責《せ》めてはいけません。誰かが自らの生命を断とうと思った時、それを止められるものではありませんから——」 「いいえ」  鳳鳴は、きっぱりと、首を左右に振った。 「空海さん。わたしは、外の敵ばかりに心を奪われていたのです。しかし、そうではなかった。本当の敵は、心の中にいたのですよ」  鳳鳴は、自分の左胸に右手をあてた。 「人の体内に潜《ひそ》む餓蟲《がむし》を、いくらとってやったところで、それは、心を救ってやることとは、別のことなのです」 「ええ」 「劉雲樵は、自らの心の中に敵を持っていたのですよ。外の敵のことなどに気をとられず、そこに、もう少し早くわたしが気づいていたら、劉雲樵は、死なずに済んだと思います」 「——」 「そのための仏法ではありませんか。呪法だの、何だのといっても、それは、仏法にとって重大なことではありません。人の魂を救うことにこそ、仏法の意味があるのです。わたしは、それを忘れていたのです。僧として、こんなに恥ずかしいことはありません」  空海を見つめる鳳鳴の瞳の奥に、点《とも》っている光がある。その、自らの瞳の光にすがるようにして、鳳鳴は、その告白をしているのである。 「やりなおしです」  鳳鳴は、空海に向かって頭を下げ、 「青龍寺にもどって、もう一度、こんどは人間のことから勉強しなおすつもりです——」  顔をあげてそう言った。 「頭が下がりますよ、鳳鳴さん。その言葉、そのままそっくり、わたしの胸にも刻んでおきましょう」 「いずれ、青龍寺へは、来られるのでしょう?」 「必ず」 「お待ちしていますよ」 「もうゆくのですか」 「外に、金吾衛の役人を待たせていますので——」  途中、金吾衛に寄って報告をし、それから青龍寺へもどるつもりなのだと鳳鳴は言った。 「お気をつけて——」  空海が頭を下げた。 「それでは——」 「それでは——」  鳳鳴は、もう一度頭を下げ、きっぱりと伸びた背を空海に向けて、歩き出した。  鳳鳴の姿が見えなくなると、 「あの鳳鳴がなあ——」  逸勢が、溜め息をついた。 「なあ、空海よ、おれは、あの男が好きではなかった。いやなやつだと思っていた。しかし、こうなってみると、可哀そうで、どうにもかけてやる言葉がなかったよ」 「うむ」 「存外に、あの男、よいやつであるのかもしれぬな」  逸勢が、ぽつりとつぶやいた。 [#改ページ]    第十九章 拝火教        (一)  祭壇の上に設けられた炉の中で、炎が絶え間なく揺れている。  白い煉瓦《れんが》で造られたその建物の内部は、空気がしっとりと落ち着き、炎の香りが空気そのものの中にまで染み込んでしまっているらしい。  波斯《ペルシア》寺——  |※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]教《けんきょう》の寺である。  |※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教とはつまり、今日的な言い方をするなら、ゾロアスター教のことである。  火を神として拝むため、拝火教《はいかきょう》とも呼ばれたりする。  その祠堂《しどう》の中で、空海は、橘逸勢と共に、安祭司《あんさいし》と向かい合っていた。  安祭司は、西胡《イラン》の人間である。  眼窩《がんか》は前に出ており、鼻梁《びりょう》は高い。  眸《め》は碧《あお》みがかっている。  西胡人としての名があるのだが、長安では、漢名の安で呼ばれている。 「徐文強の件では、いろいろお世話になりましたな」  安祭司は言った。  三人は、西胡風の卓《つくえ》をはさんで、向かい合っていた。  椅子は、紫檀《したん》で造られた、背もたれのあるものである。  ひとしきり、マハメットのことや、よもやまの話をしてから、空海はその話をきり出した。 「ところで、安祭司、今日は、ひとつお訊ねしたいことがあって、ここまでうかがったのですが——」 「なんなりと。このわたしの知っていることなら、いくらでもお答えしますよ」 「実は、先日うかがったおりに、�カラパン�というのを聴きました」 「おお、そうでした。確かにカラパンの話をした覚えがあります」 「カラパンとは、波斯《ペルシア》の、邪宗淫祠を信仰する呪術師とその時うかがいましたが——」 「ええ、ええ。そう申しあげましたが、用事というのは、そのカラパンのことですか?」 「はい。できれば、カラパンについて、詳しく教えていただきたいのです」  空海が言うと、安祭司は、うなずき、小さく咳をした。 「カラパンというのは、波斯《ペルシア》の古い言葉で、カルプというのがもとになっています」 「カルプとは何ですか」 「カルプというのは、つまり、�祭を司《つかさど》る人達�といったほどの意味になりましょうか——」 「それは、天竺《インド》でいう婆羅門《バラモン》のようなものとして理解してよろしいのですか」 「かまいませんとも。もともとは、婆羅門の神も、カラパンの神も同じものであったろうと、わたしは考えています」 「とおっしゃると?」 「カラパンが信仰するのは、デーヴァです。デーヴァの仲間であるアスラを信仰するカラパンもいます」 「アスラというのは、つまり——」 「あなた方の仏教で申せば、阿修羅《あしゅら》ということになりましょう」 「なるほど。それでは、カラパンが信仰するデーヴァとは、婆羅門たちが信仰しているダイバということですか」 「そうです」  ダイバ——これは仏教では悪魔を意味する言葉であり、ヒンドゥー教においては魔族の仲間になる。  ヒンドゥー教以前に天竺《インド》に栄えた婆羅門教の、さらに原始的な形態が、ゾロアスター以前の波斯《ペルシア》にあったカラパン達の信仰するデーヴァ崇拝の宗教であった。 「我等の宗祖ゾロアスターが、教えを広め始めた当時、まだ、波斯《ペルシア》には、デーヴァを信仰する者たちが多勢いました。ゾロアスターは、彼等と闘いながら、人々に教えを説いていったのです」  そのおり、最後まで抵抗したのが、東|西胡《イラン》の王族、カビであった。  カビは、もともとは、�見守る�という意味の�ク�という言葉が語源となっている。  ゾロアスター教が、波斯《ペルシア》全土に広まってからは、このカビは、�見守る�から�盲人�を意味する言葉となった。  東|西胡《イラン》のカビと、そのカビによって教団を支えられていたカラパンたちとが一緒になって、ゾロアスターの教えに対抗しようとしたのだが、結局、この宗教戦争はゾロアスターが勝利し、拝火教が、唐や天竺にまで伝えられてゆくのである。  それでも、カビたち王族は、信仰を拝火教へと変えて、波斯《ペルシア》の王族として残ってゆくのだが、カラパンたちは、国を追われて世界中にちりぢりになっていった。  このカラパンたちが、ゾロアスターと対立したことにより、ゾロアスター教徒たちからは、邪宗淫祠の徒と呼ばれ、歴史の闇の中に没してゆくのである。 「これは、仏教の始祖、ブッダシャカムニが誕生する以前のできごとです」  安祭司は、ゾロアスターの教えが、仏陀の教えよりもさらに古いことを誇りに思っているらしい。それが、声の響きにこもっている。 「そのカラパンたちは、どのようなことをしていたのですか?」 「様々な、呪法を行なっていました。雨を降らせたり、失せ物を捜し出したり、病《やまい》を治したりといったところまではいいのですが、彼等は、その裏の仕事もしていたということです」 「裏?」 「つまり、人の病を治せるということは、呪法で人を病気にすることもできるということです……」 「なるほど、そういうことですか」 「使い魔をやって、人を病気にしたり、殺したりもすると聴いています」 「いったい、どのような呪法によるのですか?」 「一〇〇〇年余りも昔のことで、どのような呪法によったのか、わたしにはわかりません。わたしだけでなく、もはや、それを知る者はこの世にいないのではないかと思います」 「そうですか」 「カラパンの、秘儀に、死人《しびと》を生き返らせる法があるとも聴き及んでいますが……」  安祭司がそこまで言った時、 「死んだものが生き返るのですか!?」  逸勢が、思わず声をあげていた。 「はい」 「まさか、そのような……」  逸勢は、儒者《じゅしゃ》である。  儒者は、怪しのものや、神や鬼《き》については語るべきではないと教えられている。  これは、 �怪しの現象がこの世に存在しない�  ということではない。  それについて語るなという教えである。  空海の傍にあって、様々な怪しのことと逸勢は出会っている。  しかし——  それはそれで、空海という人間の持つ不思議な理《ことわり》が、めったなことでは受け入れられぬようなことについても、 「なるほど、そのようなこともあろうか——」  妙に逸勢を納得させてしまうのである。  怪しのことであっても、それなりの理があれば、逸勢は、腑《ふ》に落ちることができるのである。  だが、死人が生き返る法がこの世にあるというのでは、  ちょっと待ってもらえぬか——  そういう気持が逸勢にある。  死んだ人間が生き返ってしまうのであっては、何というのか、つまり、この世の現象から、全て意味が消え去ってしまうのではないか——逸勢は、そんな風に考えている。  哀しいことも、嬉しいことも、辛いことも、人が出会う様々なことが、たちまちにしてどれほどの意味ももたなくなってしまうのではないか。  仮に、人が死なぬ法があるとすれば、人の一生から、おかしみも、楽しみも、皆消えてしまうのではないか。  仏法の理においても、�生者必滅《しょうじゃひつめつ》�という言葉がある。  生ある者は必ず滅す——つまり生きている者は必ず死ぬということである。逸勢は、仏法については門外漢ではあるが、そのくらいの知識はある。  儒学も、仏法も、生きている者が死ぬという前提があって初めて存在する教えである。  それだけではない。親と子、主と従——この人間界のあらゆるものが、それ故に成りたっている。  生ある者が死なぬのでは、困る——逸勢にはその思いがある。  それで思わず、逸勢は声をかけていたのである。 「わたしは、そのように聴いているということです。針をつかうとか、使わぬとかいう話も耳にしたことはありますが、本当にそのような法がこの世にあるかどうかということについては、もはやわたしには見当がつきません……」 「うーん」  逸勢は、複雑な表情である。 「ところで、安祭司。そのカラパンの誰かがこの長安に来ていると、そのような話をお耳にしたことはありませんか」  空海が問うた。  安祭司の眼のあたりに、一瞬、困ったような表情が浮かび、 「はい、耳にしたことがあります」  そう言った。 「どんな話を?」  問われて、安祭司は、顔を曇《くも》らせた。 「言いにくいことなのですか——」 「はい」  うなずき、安祭司は口をつぐんだ。  やがて、覚悟を決めたように、自分でうなずき、 「言いにくいことなのですが、お話しいたしましょう」 「ありがとうございます」 「以前、あなたとお会いした時に、ある土地に光がもたらされるということは、それと同時に、影の部分ももたらされてしまうのだということをお話ししました……」 「覚えています」 「つまり、神の教えが伝えられるということは、悪魔の教えも同時にその土地に伝えられてしまうのです」 「はい」 「ゾロアスターの教えも、同じです。ゾロアスターの信仰と共に、デーヴァの信仰もまた、この長安にもたらされたのです」  安祭司は、苦し気な溜め息をひとつ、ついた。 「恥ずかしいことなのですが、この地にいる波斯《ペルシア》人は、この寺にばかりやってくるのではありません。別の場所に出入りする者もいるのです。時には、同じ人間が、場合によって向こうへ行ったり、こちらに来たりということもします——」 「——」 「別の場所、ですか」 「ええ。人は、時には、神の御前のみならず、そういう別の場所にも出入りをしたりするのです」 「どういうところへ?」  問われた安祭司は、眼を閉じ、 「ですから、カラパンのところへです」  異物を口から吐き出すように、言った。 「カラパンが、やはりこの長安に——」 「いるのです」  言って、安祭司は、再び眼を開いて空海を見た。 「人は、時には、悪をも必要にする時があります。自分の男を盗《と》った女を、呪法で殺してくれ、だとか、自分の土地を奪ったあいつの畑で、もう作物が穫《と》れぬようにしてくれだとか、そういうことを頼みに、西胡の人間の何人かが、カラパンのもとへゆくのです」 「やはり……」 「そういう、少数の波斯《ペルシア》人が、間違いなくこの長安にいるということです」 「そのカラパンは、どういう人物で、どこにいるのかおわかりですか」 「いいえ」  安祭司は、静かに首を左右に振った。 「私のところまでは、具体的なそういう話はとどいて来ないのです。しかし、もしかしたら——」 「もしかしたら?」 「あの、マハメットが、何か知っているかもしれません」 「マハメットさんが?」 「彼なら、直接は知らなくとも、誰か知っている人間を紹介してくれるでしょう」  安祭司は、そう言った。        (二) 「なあ、空海よ、本当であろうかな」  逸勢が、空海の横を歩きながら言う。  安祭司に礼を言って、寺から出てきたばかりであった。  街には、人が、思い思いに歩いている。  荷車いっぱいに積んだ壺《つぼ》を売りに、東市までゆこうとしているのか、車を驢馬《ロバ》に引かせながらゆく者。  せわしげに、荷を担《かつ》いで歩く者。  男や、女たち。  長安は、常に、とどまることなく人が動いている。 「何がだ?」 「あの、安祭司が言っていたことだよ。人が生き返るというようなことが、本当にあるのだろうか」 「さて——」 「おい、おまえは、仏門の徒ではないのか。人が死なぬとあれば、仏法の根本はどうなってしまうのだ」 「どうなってしまうのかな」 「そっけないぞ、空海。おまえ、あれが気にならないのか」 「気にはなっているさ。だからこうして歩いている」 「歩く?」 「これから、マハメットさんのところへゆこうと思う」 「さっきの話の続きを聴こうというのか」 「そうだ」 「いい話が聴けるか」 「わからない。会ってみるまではな」  空海は、そう答えて歩いてゆく。  その横を、逸勢が、しきりにぶつぶつと何事かをつぶやきながら歩いてゆく。  荷車に、黄塵が舞う。  長安の三月であった。        (三)  西市——  白い天幕の中で、空海は、逸勢と共に初老の男と向きあっていた。  地に敷かれた絨毯《じゅうたん》の上に胡座《あぐら》をかいている。  三人の周囲には、夥《おびただ》しい数の、大小の壺が並べられている。  胡の壺だ。  壺だけではなく、頸《くび》の長い水差しや、碗もある。  天幕の上に陽が当っていて、中は明るい光が満ちていた。  外からは、人のざわめきや、物売りの声が絶え間なく聴こえてくる。時おり、荷車の音や、馬の蹄《ひづめ》の音までが届いてくるのは、この天幕が、西市でも、かなり賑《にぎ》わうあたりに張られているからだろう。  三人の前には、茶の入った碗が置かれていて、ほんのりと茶の香が空気に溶けている。  初老の男の顔に困ったような表情が浮かんでいる。  白いものの混じる顎髭《あごひげ》、そして、高い鼻梁《びりょう》。  彫りの深い眼窩《がんか》の奥の眸が、碧《あお》みを帯びている。  胡人——マハメットである。 「弱りましたなあ、これは——」  マハメットがつぶやいた。 「安祭司が、わたしに訊ねよと、そうおっしゃられたのですね」 「はい」 「しかたがありません。空海さんには、色々お世話になってもいることだし——」 「やはり、いるのですね」 「おります」  覚悟を決めたように、マハメットはうなずいた。 「そのカラパンは、どのようなことをしているのですか」 「安祭司の言われた通りのことです」 「失せ物を捜したりとか、先のこと予言したりとか?」 「はい。しかし、あまり、小さな仕事はしないと聴いています」 「と言いますと?」 「お金ですよ。私たちのような商売人で言えば、安くとも、ふた月分くらいの売りあげを礼金としてカラパンに差し出さねばなりません」 「かなりのものですね」 「こちらで言うならば、魘魅《えんみ》や蠱毒《こどく》のようなこともやります」 「魘魅ですか——」  逸勢が、眉をひそめた。 「御存知ですか」 「倭国《わこく》にも、魘魅の術を施《ほどこ》す者がおります——」  逸勢は、唐語で言った。  この時期、逸勢の言うように、倭国でもすでに魘魅の法は行なわれるようになっていた。それが、本格的に流行《はや》り出すのは、もう少し後の世になってからなのだが、逸勢がそれを知っていてもおかしくない状態に、日本国が直面していたのである。  魘魅の法というのは、人形だの紙切だのを利用し、それを相手に見立て、呪法を施し、呪いを相手に届ける法である。  一般に知られている丑《うし》の刻参りも、その魘魅のひとつである。  深夜、丑の刻に、誰もいない森の中で、呪う相手の名を記した藁《わら》人形を、五寸釘で木の幹に打ちつける。  一方の蠱毒というのは、動物を呪《しゅ》に使う。  たとえば、蟇蛙《ひきがえる》でも蛇でも、同種の生き物を無数に捕えてきて、大きな瓶《かめ》の中に入れて蓋《ふた》をしておく。  餌《えさ》も水もやらずにそのままにしておくと、やがて、彼等は共喰いを始める。そして、最後に一匹が残る。  その最後の一匹を、呪法に使う。  残った一匹の精霊を、使役霊として利用し、相手のもとに送ってもいいし、その残った一匹を殺しながら行なう呪法もある。  日本では、この蠱毒の法を行なったとの疑いをかけられて、失脚した貴族もある。 「蠱毒というと、たとえば、どのような生き物を使ったりするのですか?」  空海が問うと、 「そうですね、蛇や虫、それから猫などを使うものもあるようです」  マハメットがそう言った。 「猫!?」 「はい」  唐の時代ではないが、猫の蠱毒については、清の時代、楊鳳輝《ようほうき》の『南皐筆記《なんこうひっき》』巻の四「蠱毒記」に、次のような話が記されている。  周明高《しゅうめいこう》という巫者《ふしゃ》がいた——と「蠱毒記」は言う。  この人物、河南教を習い、不思議の術を能《よ》くし、邪怪《あやかし》を制することができたという。  ある晩、自分の家に、一匹の猫が入って来るのを、周は見つけた。 「怪しい」  さては何者かが蠱を成して、自分に害を成そうとしているのだろうと気がついた。  周は、符呪《ふしゅ》をもって、この猫を制し、捕えて甕《かめ》の中へ入れてしまった。  翌日、周の家に、人がやってきて、 「猫を見ませんでしたか」  と問う。 「どうかしたのですか」 「わが家の猫が逃げたので、こうして捜しているところなのです」 「猫ならそこの甕の中ですよ」  見れば、はたして、その甕の中に件《くだん》の猫がいる。 「ぜひ、この猫を返してくだされ。実はこの猫はわが家の嫁女なのです」  憐《あわれ》みを乞い、猫の生命を助けてくれという。  しかし、周は首を左右に振ってとりあおうとしない。 「衆人のため、害を除くのだ」  言われて、家人は泣く泣く帰っていった。  その後で、周が甕の中に熱湯を注ぐと、猫は死んでしまった。  しばらくして聞くと、件の蠱家の若妻が、寝台の上で眠っている最中に、突然叫び声をあげ、 「熱い熱い」  と言いながら死んでしまったという。  四体は糜爛《びらん》し、血肉|淋漓《りんり》として、息たえたということであった。  そういう話がある。 「おい、空海よ、猫と言えば、あの劉雲樵の屋敷にもいたではないか——」  逸勢が、空海の袂《たもと》を掴《つか》んで言った。 「猫に、何かお心あたりでも?」 「はい」 「どのような?」  問われて、空海は、口ごもった。 「今、名前の出た、劉雲樵の一件であれば、玉蓮姐《ぎょくれんねえ》さんから、私も多少は耳にしていますが、お話しにくいことであれば、無理にとは申しません」 「いえ、劉雲樵の件については、特別に隠すようなことはありません。しかし、それについて語るということは、あの柳宗元さんのことも、お話ししなければならなくなってしまうのです」 「柳宗元は、徐文強の畑にも同行された方ですね」 「ええ。その柳さんから、内々の話ということで、うかがった話があるのです」 「なるほど、おっしゃりたいことはわかりますよ。柳宗元から内密に教えられたことについては、語るわけにはゆかぬと、そういうことでしょう」 「はい」  空海はうなずいた。 �内々の話�というのは、大和の言葉で書かれた晁衡《ちょうこう》——つまりは安倍仲麻呂の文のことである。もうひとつ、やはり語れないのは、馬嵬駅《ばかいえき》の墓の中にあるはずの楊貴妃の屍体が、石棺の中から消えていたことである。  特に、晁衡の文の件については、馬車を使って、長安城の中をあちらこちらと動きまわり、尾行のないのを確かめてから、ようやく会うという手のこんだことを、柳宗元はした。  晁衡の文の一件は、それほど、柳宗元が秘密にしようとしたことである。それを、本人に承諾《しょうだく》なしに、他人に語るわけにはいかない。  柳宗元は、今、大唐帝国の、政治の中枢に関わっている人物である。  そのことは、マハメットもわかっている。 「まことに申しわけないのですが、柳宗元さんが秘密にしようと考えていることについては、ここでお話し申しあげるわけにはいかないのです。それ以外のことなら、お話しできると思うのですが——」 「かまいませんとも。きちんと話して下さってありがたく思いますよ。空海さん、あなたが信頼できる方だということがわかって、わたしはむしろ、嬉しく思いますよ」 「恐縮です」  そして、空海は、事件のこれまでのあらましについて、マハメットに語ったのであった。        (四) 「まあ、なんともとんでもないお話ね——」  空海の話が済んだ時、女の声が響いた。  天幕の出入口に下がっていた幕があげられ、そこに、三人の胡女が立っていた。  トリスナイ。  トゥルスングリ。  グリテケン。  いずれも、マハメットの娘たちである。  今、声をかけてきたのは、長女のトリスナイであった。  三人は、西市の広場で、時おり胡旋舞《こせんぶ》を舞っては、客からお金をもらっているが、普段は、父親のこの店の仕事をやっている。今日は、空海が来て、天幕の中で父親のマハメットと何やら話をしているので、それが気になって仕事どころではなかったらしい。  外に、客足が途切れたのをいいことに、天幕の中に入って、空海の話を聴いていたのである。 「おまえたち、そんなところで立ち聴きしてたのか——」  マハメットが、たしなめるように言った。 「あら、隠れてこっそり聴いていたわけじゃないわ。ちゃんと、ここでこうやって聴いていたのよ」  トゥルスングリが唇を尖《とが》らせた。 「空海さんを独り占めはずるいわ」  そう言ったのはグリテケンである。 「それで、空海さんは、カラパンの居所を知りたいのね」  トリスナイが、妹たちの言葉を掻き分けるようにして言った。 「そうだよ。それを今、マハメットさんに訊いていたんだ」 「それだったら、ほら、あそこじゃないの。平康坊《へいこうぼう》の——」  トリスナイが言った。 「おまえ、そんなことまで、どうして——」  マハメットが呆《あき》れた顔をする。 「あら、知っている人は知ってるわよ。お店に来たお客さんで、平康坊で猫をやったって話をしてる人を、二度くらい見かけたわ。そのことじゃないの——」 「その平康坊で、猫をやっているのって、道観《どうかん》というより民家のような建物で漢人の道士じゃあなかったかい?」  空海が、トリスナイに訊ねた。 「あたしは、行ったことがないから……」 「おっしゃる通りですよ、空海さん」  マハメットが娘のかわりに答えた。 「たぶん、あなたが言っているのと同じところでしょう。表向きは、漢人がやっている道観のようなものなのです。実際にも漢人が、普通の道士がやるようなことをやったりしているのですが、言うなれば、そこは、カラパンへ連絡をとるための窓口のようなところでして——」 「その漢人の道士がカラパンということはないのですか?」 「そんなことはないと思います」 「ははあ」 「ですが、空海さん、不思議なことに、昨年の夏あたりから、ぱったりと、そこの悪い噂を聴かなくなってしまったのですよ——」 「仕事をやめたと?」 「いえ、仕事をやめたのか、カラパンに連絡がとれなくなったのか、そのあたりはよくわからないのですが、ともあれ、私の知る限りでは、そのあたりから、平康坊のカラパンは仕事をしてないようなのです」 「最近はいかがですか、道士も猫も、平康坊のあの屋敷からいなくなってしまったのではありませんか——」 「よく御存知ですね」 「若い娘が、あそこに出入りをしていませんでしたか?」 「若い娘?」 「玉蓮姐さんから聴いていませんか?」 「玉蓮から?」 「どうも麗香《れいか》さんが、あそこに出入りしていたようなんですが」 「ああ、聴いていますよ。そうですか。あの麗香が出入りしていた道士の家というのが、平康坊の件の屋敷だったのですね」 「玉蓮さんたちは、あの屋敷のことを知らなかったのですか?」 「たぶん、カラパンのことまでは、知らなかったと思いますよ。そのことを知っているのは、長安にいる胡人でも、ある程度のお金が自由になるわずかの人間ですから——」  なるほど、と空海はうなずいてから、 「ところで、今、いなくなった平康坊の屋敷の道士やカラパンが、どこにいるかはわかりませんか?」  マハメットに訊いた。 「いや、それが……」  マハメットは首を左右に振り、 「皆目見当がつきません」 「どなたか、それを知っているような方を、御存知ありませんか——」 「さあて——」  首を傾げたマハメットに向かって、 「ねえ、ほら、あの人なら知っているのじゃないかしら?」  いつの間にか、奥に入り込んできたトリスナイが言った。 「あの人?」 「さっきも言った、ここであの家のことを話していた人」 「誰なんだ?」  と、マハメット。 「絨毯屋のアルン・ラシッドさんよ」 「あの男か」 「ちょうどいい方がいらっしゃるんですか?」  空海が、ふたりの会話の間に入って訊いた。 「いることはいるのですが——」 「何か?」 「あまり、評判が良いという男ではないのです——」 「ははあ——」 「さきほど聴いたことによると、どうやら事は、皇帝の生命にかかわるような話のようではありませんか」 「はい」 「それを、アルン・ラシッドに、どう説明しますか」 「説明をしないと、色々話をしていただけないと?」 「おそらく」 「ならば、さしつかえない程度に話をいたしましょう」 「しかし、そうすると、あの男は、勘の聡《さと》い方ですから、何やら嗅ぎつけるでしょう」 「嗅ぎつける?」 「銭の臭いをです」 「銭?」 「どちらにしろ、しゃべるかわりに、あの男は、空海さんに銭を要求してくると思います。それがもし、銭になりそうとわかれば、どれだけの銭をふっかけてくるか——」 「ともかく、会って話をしてみましょう。銭の心配はそれからということです——」 「わかりました」 「それで、いつ、会えますか?」  空海はマハメットに問うた。 [#改ページ]    第二十章 道士        (一)  空海は、精力的に動いている。  三月に入ってから、劉雲樵《りゅううんしょう》の猫の件や、徐文強《じょぶんきょう》の畑から出てきた俑《よう》の件などで、十日近くも時間をとられているが、般若三蔵《はんにゃさんぞう》の元へ足|繁《しげ》く通い、梵語《ぼんご》を学び、景教《けいきょう》——つまりキリスト教ネストリウス派の大秦寺《たいしんじ》や、拝天神教——イスラム教の寺院である清真寺《せいしんじ》にも足を運んでいる。  イスラム教は、この時期、|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]教《けんきょう》、つまりゾロアスター教を押しのけて、波斯《ペルシア》に興《おこ》った新興宗教であり、宗祖マホメットが、メッカにおいてこれを創唱したのは、西暦六一〇年である。  空海|入唐《にっとう》時、まだ一九五年の歴史しか有していない。  しばしば回教《かいきょう》と表記される。  繰り返すことになるが、まったくこの時期の唐という国家は、なんという国であったことか。その都である長安という京城《けいじょう》は、人類史における奇跡のような果実であったといっていい。  倭国《わこく》、朝鮮、吐蕃等のアジアの国々は言うに及ばず、遠くは、波斯《ペルシア》、大食《アラビア》、天竺《インド》の人間たちまでが出入りをしていたのである。  人口の百分の一が外国人であった。  しかも、そういった外国籍の人間が、政治の中枢まで登ることも、珍しくはなかった。安倍《あべの》仲麻呂《なかまろ》も、そういう人間のひとりである。  これほど国際的な都市は、現代にも見あたらない。外国籍の人間を、平気で国会議員にしてしまう国は、現代にもない。  宗教のみをとっても、どれか特定の宗教のみを庇護《ひご》するわけではない。  |※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教——ゾロアスター教。  マニ教。  ネストリウス派のキリスト教である景教。  清真《イスラム》教。  仏教。  密教。  そして、中国古来の宗教である道教。  儒教。  その他、雑多な民間信仰まで数えてゆけば、きりがないほどだ。  それ等の宗教のみならず、様々な異国の文化や文明を、空海は貪欲《どんよく》に吸収しようとしていたのである。  いや、正確に言うなら、空海の場合、吸収は結果であり、目的ではなかったと考えるべきであろう。空海は、溢れる好奇心を満たすために動いたのであり、その結果として、知識の吸収があったと見るべきだろう。  歴史的に見れば、国際人という概念的衣装を日本人として一番最初に身にまとったのが空海であり、個人として見れば、空海は、その国際人であることすらも越えていたように思われる。  世界を、今日的な感触を持った宇宙として捕え、自分という人間を、宇宙に対する個として捕えることのできる抽象的な思考能力を、空海が持っていたのは明らかである。  華厳教《けごんきょう》から大日教《だいにちきょう》に至り、空海は、宇宙の統一原理としての大日如来というものの存在を、すでに倭国において知ってしまっている。  だからこそ、空海は、密教を求めて、この唐までやってきたのだ。  密教においては、釈迦牟尼仏《しゃかむにぶつ》でさえ、大日如来という宇宙の根本原理の一部であることを、空海は、庭樹の小枝が、大きな一本の幹から伸びた無数の枝のうちの一本であることを認識するのと同次元で、理解しているのである。  空海のごとき精神は、この大都長安においても稀《まれ》であったと考えてよい。  マハメットのところから帰ってきて、まるまる三日、空海は、空海本来の作業に没頭していた。  逸勢《はやなり》は逸勢で、唐語を習っている。  儒学生として唐土にやってきた逸勢は、まずその大学に入らなければならない。しかし、大学に入るには試験を受けねばならない。逸勢の語学力では、まだその試験を通ることはおぼつかない。だからまず逸勢は、その試験を受けられるだけの語学力を身につけるために、唐語を学んでいるのである。  筆談であれば、逸勢は、ほぼ自由に唐人と話をすることができる。日常会話であれば、なんとか唐語を操ることもできるのだが、儒教を学ぶというような次元となると、逸勢の語学力では十分とはいえない。  むしろこれは、逸勢の方が普通で、空海が特別なのだ。  自らを倭人と名のらなければ、誰も、空海を異国の人間とは思わない。それほど、空海の、言葉に対する理解力と表現力は優れていたのである。 「空海よ、あちらの方は、放っておいてよいのか?」  逸勢が、空海にそう訊《き》いたのは、四日目の朝であった。 「あちらとは?」 「アルン・ラシッドとかいう絨毯《じゅうたん》屋に、カラパンのことを訊きにゆくんじゃなかったのか?」 「それなら、慌《あわ》てることはない。いずれ、マハメットさんの方から連絡があるだろう」 「それにしても、遅いのではないか」 「そんなことはない」  そんなやりとりを、空海と逸勢が西明寺《さいみょうじ》でしているおり、マハメットからの遣《つか》いが、西明寺にやってきたのである。 「空海先生、マハメットさんからの、お遣いの方が見えてますが」  大猴《たいこう》が、ふたりにそう声をかけてきた。 「ほら、来たではないか——」  空海は、逸勢にそう言ってから、 「こちらに上がっていただきなさい」  大猴に、そう返事をした。        (二)  正面から人を見ない。  斜め下から、相手の顔色をうかがうように人を見る。向きあって座していても、わざわざ顔を傾け、横にねじるようにして、上目使いに人を見る。  アルン・ラシッドは、そういう男であった。  平康坊の、アルン・ラシッドの屋敷だ。  家の造りそのものは唐風だが、中の調度品や飾りは、胡風にできあがっている。  奥の壁に、|※[#「示+夭」、第3水準1-89-21]《けん》教の寺院で見たような祭壇が設けられ、そこで炎が燃えていた。  あちこちに広げられた、夥《おびただ》しい数の絨毯の中で、空海と逸勢は、アルン・ラシッドと向きあっている。  仲介役のマハメットが、向かいあった三人の横手に座っている。  空海と逸勢の紹介は、すでに済んでいる。 「さて——」  と、アルン・ラシッドは、自分の左手を右手で握り、撫でるようにしながら言った。 「わたしが、時おり相談にうかがっている、方士の周明徳《しゅうめいとく》先生について、お知りになりたいとか?」 「はい」  さぐるような眼を受けて、空海がうなずいた。 「もちろん、マハメット大兄《たいけい》のお知り合いということなら、わたしの知っていることはできるだけお話しいたしますが、何分にも、これには微妙な問題が含まれておりまして、お国にも周先生のような御職業はあるのでしょう?」 「ええ、たしかにあります——」 「空海さんは、僧だからおわかりいただけると思いますが、周先生は、他人の秘密に深く関わっておいでです」 「承知しております。わたしが知りたいのは、周先生が、今、どこにいらっしゃるのかということなのです。誰かの秘密を暴《あば》こうとしているわけではありません」 「周先生が、どこにいるかと——」 「ええ。同じこの平康坊で、ついこの間まで、運勢を占《み》たりしていたと思うのですが、最近、どちらかへ屋敷を移られましたか?」 「ああ、それならわたしも承知しておりますよ。場所を移られたのは、九日ほど前でしたか——」 「九日前……」  逸勢がつぶやいた。  九日前と言えば、ちょうど、馬嵬坡《ばかいは》の楊貴妃の墓所へ行っていた時である。  その翌々日に、大猴が様子を見に行ったら、もう誰もいなくなっており、空海を襲った男たちが見たという俑《よう》も消えていた。男たちに、空海を襲うよう頼んでから、早々に周明徳は姿を消したことになる。 「何か、お心あたりでも?」  アルン・ラシッドが、逸勢を見た。 「いえ、特別に心あたりがあるということではありません」  逸勢は、慌てて言った。 「周先生が移られた先を、御存知ありませんか?」  空海が訊ねると、アルン・ラシッドは、さらに首を傾げ、 「さあて——」  視線だけを空海に残したまま、つぶやいた。 「実は、わたしも、周先生の居場所がわからなくて困っているのですよ。周先生には、色々なおりに、御相談にのっていただいており、貴重な御助言もいただいておりましたのでね……」 「どこか、お心あたりはないのですか」  空海の声に被《かぶ》せて、 「何か知っていることがあったら、空海さんに教えてもらえないか」  マハメットが言った。  アルン・ラシッドの視線が、マハメットにちらっと動き、 「うーん。どこにいるかは知らないのですがね、それを捜す手蔓《てづる》は、まるでないわけではないと思いますよ」 「おお、ならば、ぜひ——」 「ですがねえ」  アルン・ラシッドの眼に、ずるそうな強い光が動いた。 「何故、周先生の居場所を知りたいのか、それを教えていただけませんか」 「話をうかがいに来たのはわたしなので、素直にお話し申しあげましょう。実は、しばらく前に、わたしとこちらの逸勢が、馬嵬坡の楊貴妃さまの墓所に参拝したおり、何者かに襲われたのですよ」 「ほう!?」 「幸いにも、怪我はなかったのですが——」 「それが、周先生と、何か?」 「襲ったものたちのひとりを捕えて事情を聞いたのですが、平康坊の道士から頼まれたというのです」 「あなたがたを襲うように?」 「はい」 「それが、周先生だと?」 「周先生のお名前は出ませんでした。男から聞いた、平康坊の道士の家まで行ってみると、そこが、周先生のお宅だったというわけです」 「しかし、まさか、周先生がどうして、倭国からいらっしゃったあなた方を襲わせたりしたのですか?」 「それを、我々も知りたいのです。あるいは何かの間違いで、我々を襲わせてしまったのか——」 「ふうん」  アルン・ラシッドは、今の話の真意をさぐるように、マハメットに視線を移した。 「いや、今、空海さんが言ったのは、皆事実だよ」 「しかし、周先生が襲わせたかどうかは——」 「はっきり、そうと決まったわけではありません。ですから、それを確かめたいのです」 「しかし、それなら、金吾衛《きんごえい》の役人の仕事ではありませんか。どうしてそちらに申し出ないで、自分で周先生を捜そうというのですか?」 「我々は、倭国からの留学生です。事情がわからない事件に巻き込まれ、公《おおやけ》になり、あらぬ噂をたてられても、まだその噂から身を守る術《すべ》も人脈もありません。もし、これが、内々に解決できる性質のものなら、そうしたいと考えているのです。もし、この件に周先生が関わっておいでなら、これは周先生にとっても悪くはない話であると思いますが」 「ははあ——」  うなずいたアルン・ラシッドの唇に、微笑が浮いた。 「空海さん。どのような方にも他人に知られたくない秘密はあるものですよ。それが、たとえ、皇帝陛下であっても、仏につかえる僧であってもね。いや、これはなにも、あなたにそういう秘密があると言っているのではありませんよ。たとえですからね」 「承知しておりますとも」 「わかりました。心あたりをちょっとあたってみましょう」  言ったアルン・ラシッドの眼が、さらに斜め下から空海を見あげるかたちになった。 「その具合について、二〜三日のうちに、マハメットの方に連絡を入れておきますよ——」 「お願いします」 「しかし、空海さん——」 「はい?」 「わたしが直接、周先生の居場所を知っているわけではありません。色々と手蔓をたどって話を聴き出すのですが、場合によったら、それに多少の銭がかかるかもしれません」 「はい、もちろんですとも」 「お銭《かね》は、人の口を軽くも重くもしますからね」 「ええ」  空海は、懐に手を入れ、銅銭の束を取り出した。 「失礼とは思いますが、銭が必要ならば、この中からお使い下さい。足らない場合には、まだ用意がありますので——」 「いや、マハメットさんのお知り合いの方から、こういうお金を受け取るわけにはいきませんよ」 「いえ、ラシッドさんが受け取るのではなくて、ラシッドさんが話をうかがう方が受け取るのでしょう。わたしの方こそ、マハメットさんのお知り合いの方に、余計な手間をかけるだけでなく、お銭まで使わせてしまうのは胸が痛むのです」 「しかし——」 「お願いしているのは私の方で、私の方の事情であれこれとしていただくわけですから、受け取っていただかなくては、私の方が申しわけありません」  しばらくそういうやり取りをした後—— 「まあ、ともかくこれはお預かりしておくことにいたしましょう」  そう言って、アルン・ラシッドは、空海が差し出した、ずっしりとした銭の束を懐に収めた。  それで、この日の会見の主要な話は終った。  マハメットを交え、しばらく四方山《よもやま》の話をしてから、空海たちは、アルン・ラシッドの家を出た。 「いや、空海よ、なかなかうまいことを言うではないか。貴妃どのの墓所で襲われた話をするなぞ、なかなかどうして——」  逸勢は、アルン・ラシッドの家からほどよく距離ができてから、空海にそう言った。 「しかも、こちらにも何やらいわくありげで、あれだったら誰でも、これは儲け仕事になるかなと考えてしまうではないか——」 「うむ——」  と空海はうなずいてから、傍《そば》を歩いているマハメットを見た。 「あれで、よかったでしょうか——」 「かまいませんとも。空海さんは嘘をついたわけではありませんし、銭を要求してきたのは、むしろ、むこうの方ですから——」 「少し、心が痛みます」  言った空海を見やり、 「それで、空海よ、どうするのだ」  逸勢が言った。 「どうするとは?」 「このまま、しばらく、アルン・ラシッドからの連絡を待つのか」 「待つには待つが、ただ待つわけではない——」 「どうするのだ」 「もう、手は打ってある」 「どんな手を?」 「じきにわかるさ」  空海は、短く言って、長安の青い天を見あげた。        (三)  空海と逸勢は、むかい合って、酒を飲んでいる。  久しぶりの、胡玉楼《こぎょくろう》であった。  空海と逸勢の酒の相手をしているのは、玉蓮《ぎょくれん》である。  三人が、|※[#「土へん+盧」、第3水準1-15-68]《ろ》を挟んで飲んでいるのは、胡の酒——つまり、葡萄酒《ぶどうしゅ》である。  それを瑠璃《るり》の盃で飲んでいる。 「なあ、空海よ、おれにはどうもわからないことがあるのだが……」  逸勢は、盃の酒を干して言った。  置かれた盃に、玉蓮が葡萄酒を注ぐ。 「何がわからない?」 「平康坊の道観のことだよ。周というのが、そこで色々と道士がやるようなことをやっていたのだろう?」 「うむ」 「しかし、周は、話の様子だと波斯《ペルシア》人ではないということではないか——」 「らしいな」 「そこへ出入りしていたアルン・ラシッドは、カラパンに、色々と頼みごとをするために、あそこに通っていたのだろう?」 「おそらくそうだろう」 「しかし、周はカラパンではないのだろう?」 「ないだろうな」 「本当のカラパンが、周を裏であやつっていたということか」 「うむ」  空海がうなずく。 「何故、そんなことをしたのだ」 「表立ってそんなことをやれば、アルン・ラシッドのような客が行きにくいからだろう。表向きにしろ、道士のところへ、商売の吉凶を占ってもらいに行くのであれば、周囲の目を気にせずにゆけるからな。それに、カラパンはカラパンで、目立つことを避けたかったのだろう」 「なるほど」 「わからないことというのは、それか?」 「いいや」  逸勢は、首を左右に振った。 「そのくらいは、おれにも想像がつく。わからないというのは別のことだ」 「何なのだ?」 「だからだな、もし、そのカラパンが、今度のことをみんなやったとするならばだ——」 「今度のことというと?」 「劉雲樵の猫のこととか、徐文強の畑から、俑《よう》が出てきたりとか、そういうことだ」 「それで?」 「少しおかしいではないか」 「何がだ?」 「何故、予言などしたのだろうかな」 「予言?」 「つまり、徳宗《とくそう》皇帝が死ぬだとか、次は順宗皇帝だとかだ」 「うむ」 「もし、本当に、呪《しゅ》で人が殺せるのなら、わざわざそんなことを猫や俑に言わせずにやればよいではないか。その方が間違いがない。おれには、そのカラパンが、皇帝を脅すのを目的としているというより、目立ちたがっているとしか思えぬ」 「ほう」  空海の声音《こわね》が変化した。 「文才も、呪の才も同じなら、そのカラパンは、自分の才を人に見せたいのではないか。言っておくが、おれはな、空海よ、人が読まぬとわかっていれば、筆はとらぬ。だれかがおれの書を見、さすがは橘逸勢よと、そう言うてくれるかもしれぬからこそ、書を書くのだ。呪も同じだろう。だから、今度の一件についてはそのようにおれは思っていたのだ。しかし、この平康坊のカラパンは、わざわざ周明徳という漢人の道士などをおいて、自分が目立たぬようにしている。今回のことが、同じ人間に因することなら、どうして一方では目立ちたがって、どうして一方では目立ちたがらぬのかな」  逸勢は、ひと通りしゃべってから、空海を眺めやった。  空海は沈黙している。 「なあ、どうなのだ、空海よ。おれには、そこが今ひとつ理解できぬのだ」  逸勢が、空海の顔を覗《のぞ》き込む。  逸勢は、空海の顔を見、一瞬、驚いたように背を後方へ引いた。  空海の顔に、喜悦の色が浮かびつつあった。 「どうした、空海よ」  逸勢の言葉に、 「凄いぞ、逸勢!」  空海が、高い声をあげた。 「そうなのだ、逸勢よ。今度のことで、おれにもよくわからなかったのがそこなのだ。何故、わざわざ予言などをしたのか。それを、おまえに言われて、おれもようやく気がついたよ」 「何に気がついたのだ」 「いや、気がついたというよりは、疑問がはっきりとしたということだ」 「どういう疑問だ」 「おまえが今、言ったではないか、逸勢よ」 「何を言ったのだ?」 「何故、あのように目立つようなことをしたのか、とだよ」 「それがどうしたのだ」 「凄いということさ、逸勢」  空海の唇の両端が持ちあがって、喜びの笑みが浮いている。しかし、逸勢には、空海が何故ここまで悦《よろこ》ぶのかわからない。 「空海よ。おまえも気がつかないことに、おれが気づき、そのことでおまえが悦んでいるというのは、おれも嬉しいが、しかし、おれにはよくわからん」 「逸勢よ、おれにもわからない。しかし、何について考えればよいかはわかっている」 「何だ?」 「だから逸勢よ、何故、あのような予言を猫や俑がしたのか、ということをもう一歩先へ進めて、何故、あのように目立つことをしたのかと、そこを考えればいいということではないか」 「それでいいのか」 「よい」 「よくとも、おれにはまだよくわからん」  空海の前で、まだ逸勢は困惑している。 「そう言えば、わからないことが、まだあった」  逸勢は、思い出したように言った。 「なんだ」 「今日のことだ。おまえ、手は打ってあると言ってたな」 「言った」 「それは、どういう手なんだ」  逸勢がそこまで言った時、扉の向こうに人の気配があって、 「空海さん、いらっしゃる?」  女の声が言った。 「あら——」  と、玉蓮が声をあげたのは、聴こえてきた女の声に、聴きおぼえがあったからである。  扉が開いて、入ってきたのは、若い娘であった。 「牡丹《ぼたん》ちゃん——」  玉蓮が言った。  そこに、牡丹が立っていた。 「お久しぶり——」  そう言ってから、 「空海さんに、お客さまよ」  牡丹が、空海を眺めながら言った。 「お客?」 「ええ。身体の大きなひと。どうせ、わたしこのお部屋へ来るつもりだったから、知らせに来たのよ」 「その大きな人の名前は?」 「大猴《たいこう》さんて言ってたけど——」  それを耳にして、空海は逸勢に向きなおった。 「逸勢。どうやらおれが打っておいた手が来たらしいぞ」        (四)  みしみしと、板を軋《きし》ませて、大猴が部屋に入ってきた。  案内してきた牡丹は、その後ろに立った大猴と比べると、身体の重さは半分もあるかどうか。  華奢《きゃしゃ》な牡丹の身体がさらに華奢に見える。 「いや、空海先生、暮鼓《ぼこ》が鳴り始めた時にはひやりとしましたぜ。しかし、まあ、あいつの行く先が、胡玉楼のある、同じ平康坊だったんで助かりましたよ」  大猴は、そう言いながら、床の上に胡座《あぐら》をかいた。  暮鼓とは、夕刻とともに鳴らされる鼓のことである。  日没近くから鳴らされ始め、八百を数え終わると、各坊の坊門が閉じられる。坊門は、それぞれの坊の、東面、西面、南面、北面に、各ひとつずつあり、これが閉じられると、夜は、坊の外に出ることができなくなる。  八百を打ち終えるのに、およそ三刻から四刻——小一時間ほどかかったと史書にいう。外出して、他の坊にいる人間が、自分の家のある坊にたどりつくには充分な時間である。暮鼓が鳴り止めば、大街《たいがい》への外出はできないが、坊内の行き来は自由である。  しかし、仮に他坊の者が妓楼にいてこの暮鼓の鳴り止むのを聴くと、自分の家に帰れぬわけだから、当然、その妓楼に居続けねばならなくなる。  この時の空海と逸勢がそうである。  西明寺のある延康坊《えんこうぼう》は、長安城の西側にある。  しばらく前に、暮鼓が鳴りはじめた時、 「おい、よいのか」  逸勢は空海にそう問うている。  逸勢は、いずれは、平康坊の西隣りにある務本坊《むほんぼう》へゆかねばならない立場の人間である。平康坊に花柳街《かりゅうがい》があるなら、務本坊には、国立大学にあたる国子監《こくしかん》があるからだ。  なんと、長安城においては、官庁街と学生街に隣りあわせて、色街があったことになる。その学生街——国子監に入って、逸勢は儒学を学ばねばならないのだが、まだその手つづきをせずに、逸勢は空海のもとに居候《いそうろう》をしていたことになる。  空海自身にしてもそれは同様で、いずれは密教の本山である青龍寺に行って、そこで密《みつ》の教えを学ばねばならない身分にある。場合によったら、西明寺を出て、青龍寺に居を移さねばならなくなるかもしれない。  しかし——  遣唐使として唐の文化を学びに行った者は、二〇年、三〇年とそのために時間をかけることになる。空海の前に西明寺にいた永忠《ようちゅう》和尚は、三〇年、この長安にいた。  時間はたっぷりある。  長安城の見聞を広めてから、ゆるりと国子監に入ればよい——逸勢はそう考えていたふし[#「ふし」に傍点]がある。逸勢にしてみれば、当初は、この男も自分と同様の考えを持っているのであろうと空海について考えていたに違いない。  しかし、空海は、逸勢とは違う考えを持っていた。  二〇年はかけられぬ——  空海は、できる限りの短期間で、密を盗もうとしていたのである。  それを初めて知った時は、 �いったいどうなっているのか、この男�  逸勢はそう思った。  しかし、最近では、 �この男はこうなのだ�  逸勢はそう思うようになっている。  空海は特殊なのだ——  西明寺の僧となったわけではないから、西明寺の毎朝毎夕の勤行や行事に、参加しなければならないという義務があるわけでもない。  しかし、それでも、心配になる。  それで思わず、 �よいのか�  と、声をかけてしまったのだ。 「かまわんさ」  空海の返事は、逸勢がひょうし抜けするほど、あっさりしたものであった。  それで、逸勢も、ここへ居続ける覚悟を決めたのだ。  玉蓮が灯火を用意し、腰を据えて空海と話を始めたところへ、大猴がやってきたのである。 「それで、どうだったのだ?」  空海が訊いた。 「いや、空海先生の言う通りでしたよ。先生たちが帰られたあと、しばらくアルン・ラシッドの屋敷の前を見張っていたんですがね、いくらもしないうちに、アルン・ラシッド本人が出てきたじゃありませんか——」 「むむ」  と声をあげたのは逸勢であった。 「でね、空海先生の言う通りに、そうっとおれは後を尾行《つ》けていったんですがね、奴さん、同じ平康坊の、東のはずれにある屋敷に入っていったじゃありませんか。それが、先生、誰の屋敷だと思います?」 「さあて——」  空海は、首を左右に振った。 「李香蘭《りこうらん》という、なんと、王叔文《おうしゅくぶん》先生が囲っている女の家ですよ」 「なんだと!?」  思わず高い声を放ったのは、逸勢である。 「いえね。どうせ、近所の店から、あれこれの魚や小間物は買っているだろうと踏んで、帰りがけにそういう店をまわって、色々と訊き込んできたんですよ。そうしたら、そこに住んでいる女の名前も、その女が囲われものだってえこともわかったってえことなんです。多少、金はかかっちまったけどね——」 「おもしろいな……」  空海は、眸《ひとみ》の中に好奇心に満ちた光を溜めて、そうつぶやいた。 「ま、空海先生から言われていたのは、アルン・ラシッド自身か、その使いの者がどこまでゆくか、それを見届けてこいということだったんで、しばらくその屋敷の前にいて、帰ろうとしたんですがね、そこへ、アルン・ラシッドが出てきたんですよ。ひとりじゃなくて、ふたりでね」 「ほう……」 「連れは、髭をはやした漢人の男で、貧相な面をしてました。で、この男が、件《くだん》の周明徳先生だったというわけで——」 「どうしてそれがわかった?」 「後を尾行《つ》けて、ふたりの話を聴いちまったからですよ」  大猴が後を尾行《つ》けてゆくと、ふたりは、この少し先の、酒房《しゅぼう》に入っていったという。 「安い酒が出て、ついでに女もいる店なんですがね。なにくわぬ顔で、おれも同じ店に入り、近くの席でふたりの話を聴いていたんでさ。しかし、それにしても、あのアルン・ラシッドもせこいじゃないですか。そこそこに金はあるというのに、わざわざああいう安い店に周先生を連れ込むんですからね」 「それで、どういう話をしていたんだ?」  逸勢が、身を乗り出している。 「色々ですよ。その時の、ふたりの話から、李香蘭が、王先生の囲い女《もの》だっていうことがわかったんですけどね」  大猴は、牡丹が用意した水を、ひと息に飲み干し、太い腕で口をぬぐってから、アルン・ラシッドと周明徳の会話について語り始めた。 「あいつら、初めは、ひそひそ声でやってたんですが、すぐに酒がまわって声が大きくなり、聴きとるには、それほど苦労はしませんでしたよ——」        (五) 「周先生……」  と、アルン・ラシッドは、周明徳の盃に酒を注ぎながら言った。  男の下卑《げび》た笑い声や、女の嬌声《きょうせい》が満ちた店内で、ふたりは、女も呼ばずに、顔を寄せあって話をしている。案外、こういう場所の方が、秘密を要する会話にはむいているのかもしれない。  しかし、その会話を、大猴が聴いている。 「本当に、ドゥルジ尊師はどこに行ったかわからないのですか」  問われた周明徳はうなずいて、 「おれにもわからん」  注がれた酒を口に運んだ。 「もしかしたら、これで、なかなかうまい儲け話かもしれないのですよ」 「例の倭人《わじん》の話か」 「ええ」 「その倭人の話なら、おれもドゥルジ尊師から耳にしたことがある。尊師の仕事の邪魔をしているらしい」 「ほほう」 「一度、脅してやろうと、人に金をやって襲わせたらしいが、失敗したようだ」 「言ってましたよ。馬嵬坡で、楊貴妃の墓所を訪ねたおりに、何者かに襲われたと——」 「うむ」 「その時、襲った者たちのうちのひとりが捕われて白状したというのですが、平康坊の道観で、猫に頼まれたのだと——」 「うむ」 「それはつまり、ドゥルジ尊師が頼んだということなのでしょう?」 「まあ、そうだ」 「いったい何故、ドゥルジ尊師は、倭人を襲わせたりしたのでしょうね」  アルン・ラシッドの眼が妖しく光った。 「おれにわかるものか」 「ドゥルジ尊師が姿を隠したのは、そのことに関係があるのでしょうか」 「だから、おれにもわからんのさ——」  そう言いながら、周明徳は、アルン・ラシッドの顔を見、 「おまえ、何か、たくらんじゃいないか」 「たくらんではいませんが、たくらもうとは考えてますよ」 「何を?」 「ですから、儲け話をです」 「ほう」 「うまくたちまわれば、倭人からいくらかの金をまきあげることができるでしょう。何しろ、倭人は、この唐で二〇年は遊んで暮らせるだけの金を持って、この長安まで来ているのですからね」 「それだけじゃないだろう」 「は?」 「おめえ、もしかしたら、ドゥルジ尊師からも、うまいこと何かせしめようって考えてるんじゃあるまいな」  その言葉に、アルン・ラシッドは、唇を吊りあげ、答えるかわりに低い声で笑った。 「おい、それにひと口乗せてくれるんだろうな」  周明徳は、声を低めて言った。 「しかし、周先生、ドゥルジ尊師がどこにおいでになるかわからないんじゃあね——」 「馬鹿。どこにいるかわからないとは言ったがな、連絡をとる方法がないわけじゃあない——」 「どのような方法で?」 「それを、おめえに教えちまったら、おれの取り分が失《な》くなっちまう」 「じゃあ、どうしますか」 「まあ、待て。尊師と会えるように計らってみるから。だんどりがついたら、こちらから知らせるよ」 「どのくらいかかりますか?」 「早けりゃ、今日、明日中でも」 「遅ければ?」 「さあて——」  周明徳の唇の端に、上品でない笑みが浮いていた。        (六) 「まあ、大事な話はそのあたりまででしたけどね——」  大猴は言った。  その後、ふたりはしばらく話をして、店を出たという。  店の前でふたりは別れた。 「どっちの後を尾行《つ》けようかと考えたんですが、どうせ、アルン・ラシッドは家にもどるだけだろうと思い、周先生の方の後を、おれは尾行けたんですよ」  大猴が尾行けているのを知っているのか知らぬのか、周明徳は、李香蘭の家の方にはもどらずに、反対の方角に歩いてゆく。  そろそろ夕刻になろうかという時刻で、その時、暮鼓の最初のひとつが鳴りはじめた。その暮鼓が百を数える前に、周明徳は立ち止まった。  平康坊の東のはずれ——小さな、半分|朽《く》ちかけた、古い孔子廟《こうしびょう》の前であった。  その横にあった石の塔が崩れ、岩が廟の周囲に転がっている。  周明徳は、そういう岩のひとつに立った。  周明徳は、あたりの様子をうかがってから、懐から一枚の白い布を取り出した。  手を伸ばし、周明徳は、その白い布を、崩れた廟の軒先に縛りつけた。  周明徳がしたのは、それだけであった。  岩から降り、周明徳は、何事もなかったように、李香蘭の家へもどっていったのである。  それを確認してから、大猴は、胡玉楼までやってきたのだった。 「白い布をねえ……」  逸勢が、思案気《しあんげ》な顔で、そうつぶやいた。 「何かの合図だろうな」  と、空海。 「合図?」 「周先生が、そうやって、ドゥルジ尊師に連絡をとっているのだろうよ」 「なるほど」 「いずれ、アルン・ラシッドから、その首尾《しゅび》については連絡があるだろうから、それまでは、大人しくしておれということだろうな——」 「何もせずにか」 「いや、何もしないというには、この長安はもったいなさすぎるのでな」 「何だ?」 「おれは梵語を集中して学ぶことにしようか——」 「——」 「よかったなあ、逸勢。ぬしも、儒学のよい師を捜す時間にあてることができるではないか——」  空海が、逸勢に向かって笑ってみせた。 「空海先生。おれが、周先生か、あの白い布か、どちらかを見張りましょうか?」 「いや、時々、様子を見にゆくくらいでいいだろう。べったりとどちらかに張りついていれば、いずれ気づかれるだろうし、そうなったらむこうも、なかなか姿は現わさぬだろうからな——」  空海は、牡丹《ぼたん》と玉蓮に視線をもどし、 「お酒を、もう一杯いただけますか」  そう言った。 [#改ページ]    第二十一章 ドゥルジ尊師        (一)  犬が鳴いている。  細い悲鳴のような犬の遠吠《とおぼ》えが、高く天に昇って、月を隠した暗い雲のあたりにひっかかって、いつまでも残っている。  深夜——  あたりに、起きている者は誰もいない。  風が、ざわざわと槐《えんじゅ》の枝を揺らしてゆくばかりである。  大きく、軒の傾いた道観《どうかん》——  その軒の下の石の段に、アルン・ラシッドと、周明徳は座っている。  蘭陵坊《らんりょうぼう》の西のはずれ——朱雀大街《すざくたいがい》は、すぐ先の防壁の向こうである。 「ほんとうに、ここで待てと言われたのですか?」  アルン・ラシッドの声には怯えがある。 「ああ」  周明徳は答えた。  一昨日の夜——寝苦しいので、周明徳は、夜半に眼を覚ました。  胸のあたりがずっしりと重いので、開けた眼をそこにやると、夜具のそのあたりに、あの黒い猫が座していた。  青い燐光《りんこう》を帯びた眸が、周明徳を見降ろしていた。  猫は、かっ、と赤い口を開き、 「おれを、呼んだか?」  嗄《しわが》れた声で、そう訊いてきた。 「は、はい」  身体を小刻みに震わせて、周明徳はうなずいた。 「何の用だ?」 「絨毯屋の、アルン・ラシッドを覚えておりますか」 「覚えている」 「あの男が、あなた様に、お会いしたいと申しているのですが」 「また、誰ぞを取り殺せとでもいうのか——」 「いや、そうではないらしいのです」 「何だ?」 「わたしも、詳しくはわからないのですが、ドゥルジ尊師さまの行方を知らないかと、アルン・ラシッドのところへ、倭人の坊主が訪ねてきたそうです。その件で話があるとか申しているのですが——」  周明徳が言い終えると、黒い猫は押し黙ったまま、その真意をさぐるように、周明徳の眼を凝《じ》っと見降ろした。 「わかった……」  と、猫は言った。 「明後日の晩に、時間を造る。それで承知なら、また、あそこに黄色い布を結んでおけ——」  猫はそう言って、蘭陵坊のこの場所を指定してきたのである。 「いや、あの猫に、凝っと上から睨まれたのは、恐ろしかったぞ」  周明徳は、アルン・ラシッドにそう言った。  その時、また、どこかで犬が天に吠《な》きあげた。  一頭の犬が吠《ほ》え出すと、その声に誘われて、次々に、別の犬が声をあげる。  まるで、不吉な獣が、闇にまぎれて街の中を通り過ぎてゆくのを、犬の声が追ってゆくようにも思えた。 「しかし、いらっしゃいませぬなあ」  アルン・ラシッドが焦《じ》れたように言った。 「ドゥルジ尊師は、真夜半《まよなか》と言われたのだ。まだ時間はある」 「なんだか、周先生は怯えておいでのようですね」 「その通りだよ。儲け話があるなら、ひと口乗せろとは言ったが、それが、ドゥルジ尊師を騙《だま》すというのはなあ——」 「騙すのではありません。お助け申しあげるのです。お助け申しあげて、その御礼を頂戴《ちょうだい》するというわけでござりますから——」 「しかしなあ——」  周明徳は、気がすすまない様子である。 「心配はいりません」 「おれは、あまり、乗り気ではなくなってきたよ」 「わたしの方も、少しは、ドゥルジ尊師の秘密も知っておりますのでね」 「秘密だと?」 「はい」 「どんな秘密を知っていると?」 「たとえば、周先生が、今、ご厄介《やっかい》になっているお宅——あそこの女は、王叔文先生が囲っているってえ噂じゃありませんか」 「そのくらいは、近所で気の利《き》いた者なら知っているさ」 「じゃ、周先生が、どうして、王先生の女のところになんか、居候《いそうろう》できるんです?」 「——」 「ほら、言葉に詰まった」 「詰まってなどおらぬ」 「では、どうして、周先生があそこのお屋敷にいるのですか?」  問われて、周明徳は口ごもった。 「あ、あそこにしばらく潜《ひそ》んでいろと、ドゥルジ尊師に言われたからだ。あそこが、今は一番安全だからとな。また、用事ができたら働いてもらうからなと、そう言われている」 「だから、何で、それが王先生の女のお宅だったかってえ、ことですよ」 「し、知らん」 「でも、見当はついていらっしゃる」 「——」 「わたしがかわりに申しあげましょう。それは、ドゥルジ尊師が、王叔文先生とお知り合いだからでしょう。尊師と王先生が、一緒に何やらやっていたのではありませんか?」 「——」 「最近、朱雀大街に、おかしな俑《よう》の妖物が出るという話ですが、御存知でしょう」 「う、うむ」 「俑の妖物、何やら、朱雀大街のあちこちに高札を立ててゆくらしいですね」  夜灯りの中で、周明徳の顔色がかわっている。 「徳宗崩じて次は李誦《りしょう》——と、そう書かれている高札だという話ですが——」 「——」 「朱雀大街を騒がせている俑と同じものかどうかはわかりませんが、いつであったか、周先生のお宅にうかがったおり、奥の方に、ちらっと大きな俑の姿を見かけたことがございますがねえ」  闇の中で、アルン・ラシッドは、周明徳の顔色をうかがっている様子である。 「もう、よせ——」  周明徳の声が、堅く強《こわ》ばっている。  アルン・ラシッドは、唇に笑みを浮かべ、 「ドゥルジ尊師は、どうも、王叔文先生と、なにやら企《たくら》んでおられたのではありませんか——」  周明徳が、しきりに喉を上下させている。  唾《つば》を呑《の》み込もうとしているらしいのだが、喉が乾いていて、唾が出てこないようであった。 「どうやら、図星のようで——」 「な、なにをもってそのような」 「いえ、想像でござりまするよ。周先生が、王先生の女のお宅に厄介になっている——これはどうしてかと思いました時に、自然にそう考えたまでのこと——」 「よいか、このわしでさえ、そのあたりのことは、よくわかってはおらんのだ。知ろうとも思ってない——」 「でも、想像はしたことがある——王叔文とドゥルジ尊師のことを——」 「知らん」  アルン・ラシッドは、低く声をあげて笑った。  不気味な笑い声であった。 「しまった。ぬしに声をかけられ、思わぬ欲を出したのが間違いだった——」 「おや、後悔なさっておられるのですか」 「そうだ。こんなところへ来たのが間違いであった。今からでも遅くはない。ドゥルジ尊師が来る前に、おれは帰る——」 「お気の弱いことを——」 「——」 「心配なさいますな。我々は、ドゥルジ尊師のことを嗅《か》ぎまわっている、倭国の坊主のことを教えてさしあげるためにここへ参ったのではありませぬか。王叔文や俑の件で、ドゥルジ尊師を強請《ゆす》ろうなどというつもりではないのです」 「言うな」  周明徳は、両手をあげ、袖の中に顔を埋めた。 「坊主に、ドゥルジ尊師を売った方が金《かね》になるか、ドゥルジ尊師の味方をした方が金になるか、それを値踏《ねぶ》みするつもりで、おまえは、今夜、ここに来たのだろう」  袖の中に顔を埋めたまま、周明徳は言った。 「そう、身も蓋《ふた》もない言い方をされては困りますね」 「ところで、さっき、頭に浮かんだ考えというのは、誰かにしゃべったのか」 「頭に浮かんだ考え?」 「王先生と、ドゥルジ尊師が、何やら企んでいるのではないかと言っていたではないか——」  顔を伏せたままの、周明徳の声が、気のせいか、少し、変化したようであった。  おや——  と、アルン・ラシッドは思ったが、 「そのことなら、まだ、誰にも話してはおりませんよ」 「そうか、それはよかった」  あっさりと、周明徳は言った。  その声が、それまでの周明徳とは違っていた。  声が、嗄れ、低くなっている。 「周先生——」  アルン・ラシッドが声をかけた時、雲が割れ、青い月光が、天から斜めに、その道観の軒下まで差し込んできた。 「なるほど、まだ、誰にも言っていないのか——」  しゅうしゅうと、歯の間から、たくさんの空気が洩れる声だった。 「そうか。それはよかったなあ」  周明徳が、袖から月光の中へ顔をあげ、アルン・ラシッドを見た。  その顔を見て、 「あなやっ!」  アルン・ラシッドは、高い悲鳴をあげた。  袖からあげた周明徳の顔が、あの、黒い猫の顔であったからである。        (二)  アルン・ラシッドの屍体《したい》を発見したのは、毎朝、廃屋同然のその道観の掃除をしていた老婆だった。  いつものように、箒《ほうき》を持って道観の方へ歩いてゆくと、黒い人影が、軒の下に倒れている。  酔っぱらいや、宿無しの人間が、時おりこの道観で夜露をしのいだりしていることがあるのは知っていたから、今度もどうせそういうことだろうと思って歩いてゆくと、どうも様子がおかしい。  寝るにしては、場所も不自然で、仰向けになっているその格好も妙である。  近づいてゆくと、それは、異国の人間——胡人《こじん》であった。  具婆《ぐばあ》さんは、そこで悲鳴をあげた。  その胡人の喉の肉が、犬か何か、獣に喰われたように、ごっそりと無くなっていて、筋や白い骨までが見えていたからである。そこから流れ出した血が、地面に、大きな黒い染みを造っていて、あたりは血の臭いでいっぱいだった。  胡人は、よほど恐いめにあったのか、眼球が転げ落ちそうなほど、大きく眼を見開いており、唇の間からは歯がむき出しになっていた。  さっそく、役人が呼ばれた。  ここで、野宿をしている最中に、野犬にでも襲われ、それで喉を噛《か》み破られて死んだのか。  それとも、別の原因で死んでから、野犬に喉をやられたのか。  そう言えば、昨夜、犬がよく騒いでいたという者が多く現われた。  死んでいた人間が、胡人だというので、何人か人が呼ばれて屍体の見分《けんぶん》をさせられた。  そのうちのひとりが、 「これは絨毯屋のアルン・ラシッドじゃあないかね」  そう言って、屍体の身元が確認されたのであった。  このことを、最初に空海に知らせたのは、逸勢でもなく、大猴でもなく、マハメットであった。  屍体が発見された翌日の昼に、マハメットが、直接、空海のいる西明寺を訪ねてきたのである。  空海の部屋で、空海と逸勢と向かいあってから、 「実は——」  とマハメットは切り出した。 「もう、お聴きおよびかもしれませんが、絨毯屋の、アルン・ラシッドが死にました」  えっ、  と声をあげたのは逸勢である。 「死んだ、ですって?」 「ええ」 「いったいどうして?」 「わかりません」  マハメットは、静かに首を振り、 「しかし、わかっていることがひとつあります——」 「——」 「それは、アルン・ラシッドは殺されたのだということです」        (三) 「こうなってみると、周明徳先生がどうしているかが気になってくるな」  空海が、そう言ったのは、マハメットを門まで送って、自室にもどる時であった。 「なんなら、これからわたしが様子を見に行ってきましょうか」  大猴が、空海の後ろから声をかけた。 「では、頼もうか」 「なら、さっそく」  巨躯《きょく》の後ろに風を巻くようにして、大猴が身を翻《ひるがえ》して歩き出した。  門の向こうに消えてゆく大猴の後ろ姿を見やって、 「ふうん」  逸勢がつぶやいた。  その口元がほころんでいる。 「どうしたのだ」 「どうしたとは?」 「おまえが、そんな風に笑うのは珍しい」 「笑っていたか、おれが——」 「ああ——」 「何故、それが珍しいのだ」  もう逸勢の顔は、いつもの、唇の内側に、苦いものでも含んでいるような表情にもどっていた。いつも、笑う時でも、逸勢の表情にはその苦みがどこかに残っている。  その苦みが無い笑みを、逸勢が浮かべたのを、珍しい、と空海は言ったのである。 「怒るな、逸勢よ。おまえも、そんな風に笑う時があるのだなと、そう思っただけだ」 「だから、どんな風にだ」 「説明させるな。おれは、おまえの今の顔を好もしく思っただけだ」 「それが、どうして、珍しいのだ」  逸勢が唇を尖らせる。 「むきになったおまえの顔も好もしい」  空海が笑みを浮かべて言うと、 「やめた」  逸勢の表情から、あっさりと力が抜けた。 「おまえと言い合うのは損だ」 「何が損なのだ」 「よくわからん。わからぬから損なのだろう——」 「損か」 「ああ、損だ」 「で、さっきのあれは何なのだ」 「おれが笑ったことか」 「そうだ」 「たいしたことではない。大猴を見ていて、ふと思ったことがあったのだ」 「何を思った?」 「いや、空海よ。大猴のやつ、おまえのために働くことが、なにやら楽しくてしょうがないみたいではないか。もし、おれが笑っていたとしたら、そう思ったからだ」  逸勢がそう言っているところへ、あわただしく足音が聴こえ、 「空海先生——」  後ろから声がかかった。  空海と逸勢がふり返れば、そこに、今、門を出ていったはずの大猴が立っている。 「どうしたのだ?」 「どうしたもこうしたもありませんぜ、空海先生。今、門を出たところで、会っちまったんですよ」 「会った? 誰にだ?」 「この前、ここに空海先生をむかえにやってきた、柳《りゅう》先生のところの——」 「韓愈《かんゆ》——」 「そう。韓愈さんが、馬車でやって来るところへばったりぶつかっちまって、声をかけられたんですよ」 「なんと?」 「何でもね。柳先生からの急なお使いだそうで、できることなら、空海先生に、これからすぐに来てもらえねえだろうかってえことらしいんで——」 「すぐに?」 「そう言ってるんですがね」  大猴が、後ろへ流し目をする。  そちらへ眼を転ずれば、西明寺の門の下に、ひとりの男が立って、こちらを見ていた。 「韓愈……」  逸勢が、その男に眼を止めて、その名をつぶやいた。  ふたりの視線に気づいて、韓愈が、慇懃《いんぎん》に頭を下げた。        (四)  空海と逸勢は、木の卓をはさんで、柳|宗元《そうげん》と向き合っている。  しばらく前に、柳宗元と会ったあの、柳宗元の友人の屋敷であった。あの時と同じように、馬車は、あちらこちらの辻を回りながら、この屋敷にたどりついた。  向き合った柳宗元は、沈痛な面《おも》もちであった。頬の肉が落ち、眼の下に隈《くま》ができている。  いつもと同様なのは、人の重さをおし量るような視線のみである。 「何かありましたか?」  挨拶を終えて、先に口を開いたのは空海であった。  柳宗元は、顎《あご》をひいてうなずいてから、 「ありました……」  重い声でそう言った。 「どのようなことが?」 「たいへん重大なことなのです。しかし、その重大なことを相談できる相手が、もはや宮中にはいないのです」 「——」 「我々がやろうとしていたのは、| 政 《まつりごと》の改革です。いつかのように、宦官《かんがん》や、五坊小児《ごぼうしょうじ》が無辜《むこ》の民を苦しめることのない世を造ろうとしているのです。王叔文先生を担《かつ》いだのもそのためです。なすことは山ほどあるというのに、まだ、その、一〇〇分の一も、我々はしていません。宮中の半分以上の者は、我々の改革を快く思っておりません。敵も多いのです。うっかり、相談する相手を間違えたら、それだけで、我々の計画は全て終ってしまうでしょう」 「王叔文先生には、相談されたのですか?」 「いいえ」  柳宗元は首を振った。 「何故?」 「それが、今回の困ったことというのが、その王先生御自身に関わることだからです」  呼吸するのさえ、苦しそうに、柳宗元は言った。 「こういうことを、異国の方であるあなた方に相談しようという私は、どこかおかしいのかもしれません。しかし、わたしは、空海さん、あなたが、あの五坊小児たちの手から商人たちを救ってやった姿を見ています。あなたの不思議な力もこの眼で見てきました。そして、今回、相談できる相手は、あなただけなのですよ、空海さん……」 「わたしだけ?」 「はい。その相談ごとというのが、あなたも関わっている、あの、楊玉環《ようぎょくかん》にも関係したことだからなのです」 「ともかく、事情をお話ししていただけますか?」 「ええ。言うまでもなく、ぜひともこれは内密にしていただきたいのですが——といっても、すでに、近所の者は気づいており、空海さんもすでに御存知のことかもしれませんが、王叔文先生には、以前より内々にその暮らしの面倒などをみてやっている女性がいるのです」 「平康坊の、李香蘭という方ですね」 「おう。すでに御存知でしたか」  柳宗元は、驚きの声をあげ、 「ならば、話ははやい。実は、そこに、ひとりの男が居候をしておりまして、これが、王叔文先生お声がかりであり、男と女がひとつ屋根の下にいるにしても、使用人も何人かいることですし、なにしろ、王先生が御承知のことでしたので、我々も、深くはそのことに関わってはいなかったのです」 「はい」 「ところが、その居候の男というのが、どうやら、空海さんがお捜しの、あの道士らしいのですよ」 「周明徳、そうでしょう」 「驚きました。その通りですよ。どうしてそのことを知ったのですか。いや、その話はあとでお聴かせいただくとして、今は、わたしの話を先にすませてしまいましょう——」  そうして、柳宗元はその話を始めたのであった。        (五)  周明徳が、帰ってきたのは、深夜を大きく過ぎた頃であったという。  帰ってくるなり、李香蘭の部屋へ入ってきて、 「おい、あの文箱《ふばこ》はないか?」  そう言って、李香蘭を叩き起こしたという。 「文箱?」  眠い眼を擦《こす》りながら、李香蘭は灯りを点した。 「そうよ」  そう言って周明徳は近づいてくる。  揺れる灯明皿の灯りが、周明徳の顔を照らし出した。  それを見た時、 「ぎゃっ」  と言って、李香蘭は叫び声をあげた。  周明徳の顔は血まみれで、その血は胸の方まで流れ、襟や袖までも、血で濡らしていたというのである。 「おい、文箱はないか?」  半分、腰をぬかしている李香蘭に、居候でありながら、主人のような口調で周明徳は言った。 「文箱!?」  李香蘭に、思いあたることはある。  しばらく前に、王叔文がやってきた時に、 「これをしばらく預かってくれ」  と言われて、置いていった文箱がある。  螺鈿《らでん》模様の入った美しい文箱だ。  しかし、その文箱のことを、どうしてこの周明徳が知っているのか。 「そ、その文箱なら——」  寝所の横手の壁にある、物入れの奥に入っている。  李香蘭が言う前に、周明徳がそれを見つけていた。  周明徳は、物入れを開け、中のものを次々に外に放り出しながら、 「やあ、ここにあったではないか」  血まみれの顔で、にんまりと笑い、その文箱を手に取った。  蓋を開ける。 「やや、これは、空ではないか?」  中には何も入ってはいない。 「おい、おまえ」  恐い顔で、空の文箱を手に取った周明徳が、李香蘭を見下ろした。 「この中身をどうしたのだ?」 「し、知りません。わたしは一度もその中を見たこともないのです」  両手を突いて言った。 「ふうん……」  何か思案気な表情であった周明徳が、何ごとか納得したように、やがて、うなずいた。 「誰かが持って行ったかよ」  じろりと、また李香蘭を見る。  李香蘭は、生きた心地もない。 「ま、それならそれで、仕方がないな。そのかわりに——」  言うなり、つかつかと李香蘭に歩み寄ってきて、 「おまえを犯してやろう」  その細い手を取った。  周明徳の血まみれの顔が近くにあり、血なまぐさいその息が李香蘭の顔にかかる。  悲鳴をあげる気も、怖さで萎《な》えた。  李香蘭は、そこで、周明徳に二度犯された。 「さっぱりした」  周明徳は、裸のまま立ちあがり、屋敷の中を歩きながら、 「おうい、起きろ、起きろ」  使用人たちに声をかけて起こしている。  李香蘭が見ていると、起きてきた使用人たちに、 「おまえは、庭に薪《まき》を持って来い」 「おまえは、大釜《おおがま》を用意しろ」 「おまえは、水だ」  声をかけている。  使用人たちは、寝ぼけまなこである。  しかし、裸とはいえ、普段から顔は知っている客分の周明徳が言うものだから、薪を用意し、大釜を出し、水を用意しはじめた。  屋敷で宴《うたげ》を催す時には、百人からの料理を造ることもあるから、大釜の用意くらいはある。  周明徳に命じられるままに、庭に薪を積み、それに大釜をかけ、大釜には水を張った。 「では、火をつけろ」  周明徳は言った。  たちまち、薪が燃えあがって、大釜の底を、だいだい色の炎がなぶりはじめている。  その頃には、身仕舞《みじまい》を正して、李香蘭も庭に出てきている。  やがて——  ぐらぐらと、音をたてて水が煮えて、湯が滾《たぎ》りはじめた。巨大な釜が揺れるほど、その中で湯が滾っている。 「ようし、そのくらいでいいだろう」  周明徳は言った。 「それでは、これからぬしらにおもしろいものを見せてやろう」  言うなり、周明徳は、素手を大釜の縁にかけた。じゅっ、という音がして、肉のやけるいやな臭いがした。  そのまま、するりと身体を持ちあげて、煮え滾っている湯の中に、周明徳は、なんと自分の身を投じてしまった。  とめる間もなかった。  大釜の中に人が立てば、湯面からは臍《へそ》から上が出るくらいなのだが、周明徳の身体は、いったん滾る湯の中に全身が沈み、その後で、まっ赤に煮えた周明徳の顔が湯の上に現われた。  湯の中で目を閉じなかったのか、目玉も煮えて、白く濁《にご》っている。 「なかなかよい気持ちじゃのう」  両手で、赤い顔をぬぐった。  すると、べろりと顔の皮がはがれて、そこに、白いような黄色っぽいような、脂肪組織《しぼうそしき》が見えた。次の瞬間、周明徳の身体は湯の中に沈み、そして、死んだのである。  なんと、周明徳は、自らの身体を釜|茹《ゆ》でにして、死んでしまったのであった。        (六) 「つまりですな、空海さん。この件で李香蘭に呼ばれて、今朝、わたしはその屋敷に行ったのですよ」  柳宗元は、困り果てたような顔で言った。 「何故、呼ばれたのですか?」 「李香蘭は、相談相手が欲しかったのです。それで、一番、王叔文に近いわたしのことを思い出したのでしょう」 「それは、つまり、李香蘭さんが、周明徳に犯されたからと、そういう意味を含んでのことなのですね」 「その通りです。そのことを、正直に王叔文に伝えたものか、それとも隠しとおした方がいいのか、李香蘭も、今は動転していて判断ができないのですよ」 「なるほど。しかし、それでは、何故、こんなにも性急に、わたしのところへ柳さんからお呼びがかかったのですか。李香蘭さんが犯された話を知る者は、少なければ少ないほどよいと思いますが——」 「そこなのですがね、空海さん。今日の話の目的は、まだこれからなのですよ。今それをお話ししたのは、これからする話の性格上、空海さんにはあまり隠しだてをするわけにもいかないと思ったからなのです」 「これからの話と言いますと?」 「ですから、わたしは、李香蘭の屋敷に呼ばれてゆき、そこで、あるものを見てしまったのですよ」 「あるもの?」 「さっきも話の出た、文箱ですよ」 「文箱?」 「ええ。その文箱こそ、わたしが、例の、晁衡《ちょうこう》どのの文を入れておいた文箱であったのです」 「それはそれは——」  空海も、そこで声を高くした。  柳宗元が、沈黙した。  沈黙したまま、柳宗元は、袖で額の汗をふいた。 「それは、王叔文先生が、李香蘭さんに預けた文箱だとおっしゃいましたね」 「言いました」 「それは、間違いなく、柳さんが、晁衡どのの文を入れておいて盗まれた文箱と同じものだったのですか」 「間違いありません。紋様だけでなく箱の表《おもて》についた小さな傷まで、わたしの記憶《おぼえ》のあるものでした」 「すると、例の文箱を盗んだ者というのは、王叔文先生と——」 「考えざるを得ないということなのですよ。ですから、わたしは今困っているのです。何か、よい知恵はありませんか」 「その文箱が、柳先生のお宅から盗まれたものであることは、李香蘭さんには伝えましたか——」 「いえ、まだ」 「ならば、まだ打つ手はあるかもしれませんよ」  空海は言った。 [#改ページ]    第二十二章 安倍仲麻呂        (一) 「逸勢《はやなり》よ、おれはなんだか困っている……」  空海は、不思議な言い方をした。  真顔である。  逸勢は、不思議そうな顔つきで、空海を見た。  ひとつ点《とも》しただけの灯火が、赤あかと空海の顔に揺れている。 「どうしたのだ、空海よ」 「思うようにゆかぬ」 「何がだ」 「色々のことがだ」  空海は、溜め息をついた。 「あたりまえではないか」 「そうだ。色々なことがうまくゆかぬのはあたりまえで、うまくゆくことの方が少ない」 「うむ」 「だいたい、おまえは、人よりも能《のう》があり過ぎるのだ。だから、うまくいってあたりまえと思っているのではないか。うまくゆかぬというのは、むしろ、人としてあたりまえのことぞ——」 「だろうな」 「そのように殊勝《しゅしょう》にうなずかれては、おれも困る。空海よ、あまり、殊勝なのは、おまえらしくない」 「うむ」 「何かあったか?」  今度は、逸勢が真顔になっている。 「逸勢よ、おれは、どうやら、人のことがわかったつもりになっていたらしいのだ」 「ほう」 「人が、何をしようが、つまるところ、所詮はこの天地《あめつち》の間のことと考えていたのだが……」 「——」 「なかなかどうして、おもしろい」 「おもしろい?」 「うむ」 「何を言っているのだ?」 「人は、おもしろいと、そう言っているのだよ」 「おれには、わからぬと言っていたように思えたが」 「そうさ。人は、わからぬからおもしろい」 「なに!?」  逸勢は、空海が言っていることを理解しかねている。 「おれはなあ、逸勢よ。色々とつまらぬ細工をしようとしていた。今考えてみれば、それは、人をわかった気になっていたからなのだなあ」 「どのような細工だ」 「たとえばだな、藤原葛野麻呂《ふじわらのかどのまろ》よ」 「あの男に何かしたのか?」 「あの男が、日本へ帰るおりに、ひと言《こと》言うた」 「何と?」 「仮にも、唐の天子《てんし》様が崩御されるおりに日本国の使節が居合わせたのです。まさかこのままにするおつもりではござりませぬでしょうな。日本国の帝に恥をかかせてはなりませぬぞ——とな」 「徳宗《とくそう》皇帝が崩御《ほうぎょ》されたことを言うているのか」 「そうだ。日本国へ帰ったら、衣冠あらため、それなりの礼をもって、弔問《ちょうもん》の使者を立てた方がよろしくはありませぬかと、そういう意味さ」  日本国の遣唐使が、今回やってきたのは、むろんのこと弔問のためではない。  てっとり早く言うなら土産品を持って、唐朝廷のご機嫌をうかがいにきたのであり、留学生に大唐国の文化を学ばせにきたのである。そのおりに、唐の皇帝が崩御した。  遣唐使団の長である藤原葛野麻呂が、葬式に出席をして、弔意を表わしはしたが、それは日本国として正式のものではない。  空海の言うように、あらためて、日本国の朝廷《ちょうてい》から、帝の意を受けた者が、弔意を表わしに来るというのが、この時代の義にかなっている。  しかし—— 「それが、どうかしたのか」 「うまくゆけば、一年後か、二年後かには、日本国から弔問の使者がやってこよう」 「!?」 「そのおり、日本国からやってきた船に乗って、おれは帰るつもりでいたのだ」 「帰るだと?」 「うむ」 「本気か」  逸勢が声を大きくしたのは無理もない。  空海も逸勢も、予定では、二十年、唐に滞在して、それぞれ密教《みっきょう》と儒教《じゅきょう》とを学ぶことになっている。  そのため、それだけの資金を、それぞれに調達して、唐へやってきたのだ。それを、一年や二年で帰ってしまうのは、契約違反であり、場合によっては、帰っても流罪《るざい》になる可能性がある。 「だから、そのつもりであったのだよ」  空海は申しわけなさそうに頭を掻《か》いた。 「密《みつ》の方はどうなるのだ。二年やそこいらで、なんとかなるのか」 「なんとかするつもりでいた」 「どうやって?」 「前にも言ったかもしれぬがな、倭国《わこく》からやってきた空海という僧は、なかなかのものであると、そういう評判をまえもって造っておき、その上で、青龍寺《せいりゅうじ》の恵果《けいか》和尚どのに会いにゆこうと、そう考えていたのだよ——」 「それで、二十年が、二年や三年に縮まるのか?」 「おそらく、な——」 「おそらくだと?」 「逸勢よ、おれは、ちょうど二十年この国で暮らせるだけの金を用意してきた。これを、二年で使ってしまうとしたらどうだ?」 「二年で?」 「もし、恵果和尚どのが、それで密を売るというのなら、それでもいいと思っていた」 「売るだと?」 「おう。二十年分の金をはたいて、恵果和尚から密を買うのよ」 「——」  逸勢は、言葉もない。 「よいか、逸勢よ。金で買うも、己が才によって密を得るも、恵果和尚どのがそれでよいとお思いになり、このおれもそれでよいと思うのなら、本当に、それはそれでよいのだ」 「本当に?」 「せんじつめるところ、密とは、そういうものなのだ。師が弟子に与えると決心すれば、それが、金で買われるのであれ、盗まれるのであれ、それはそれでよいのだよ。もらう方も、自信があればこそ、間に金が入ろうが何が入ろうが、それをきちんともらうことができるのさ」 「むむむ」 「考えても見ろ。もし、二十年こちらで過ごしたとして、その二十年後に、帰ることができるという保証があるか?」 「む」 「安倍《あべの》仲麻呂《なかまろ》どのは、結局、帰ることかなわぬまま、この地で果てたではないか」 「むむ」  現に、この後、翌年の春に、遣唐使船は一度だけ弔問のために唐を訪れただけで、その後は遣唐使というもの自体が、廃止されてしまうのである。  空海は、おそろしく正確に、先を読んでいたと考えていい。 「もし、二十年後に帰ることができたとして、その時、おれは五十歳だ。残りの一生、仮に十年生きることができたとして、どれほどのことが、あの国でできるというのだ。おれのやりたいことの半分もできぬであろうよ——」 「あの国でやりたいこと? 何だ」 「そうさなあ」  空海は、自分の鼻の頭を指先で掻き、 「あの国を、仏国土にすることかな」 「仏国土だと?」 「密をもって、あの国に呪《しゅ》をかけてみたいのだよ」 「それには、十年では足らぬということか」 「足らぬ」 「本気か?」 「まあ、本気さ。これで梵語《ぼんご》を学び終えれば、おれの方の準備はすべて整うことになる。あとは、恵果和尚どのの準備がどこまで整っているかということだな」 「どういうことだ」 「だから、おれが、密を受くるにふさわしい人間かどうかを、恵果和尚どのが知るための準備がさ」 「とんでもないことを言う男だなあ」  あきれる準備さえ、逸勢にはできていないようである。 「空海よ、おぬし、今のようなこと、他人の前では言うなよ。おれだけにしておけ——」 「だから、これはおまえだけに言ったのだ。他の誰にも言ってはおらぬ。これからも言うつもりはない」 「むむむう——」  逸勢は空海を見つめ、 「おれには、どうも、おまえという人間を掴《つか》みきれないようだな」  溜め息まじりにそう言った。 「まあ、ともかく、なんとかはなろうよと、そう考えていたのだ」 「ふうむ」 「それがなあ、逸勢よ、人というものが、なかなかにおもしろいのだ」 「だからどうだというのだ」 「あれこれと、思慮をして細工をするというのは、そのおもしろい人という有様《ありよう》に対してもったいないことではないかと思うのだ。ま、傲慢《ごうまん》ということだな」 「いつかも、そのようなことを言っていたな——」 「つまりだな、むりに早く帰り急ぐこともあるまいと、今は考えているのさ——」 「ほう」 「もし、早く帰れるのなら、それはそれでよかろうよ。逆に、帰れぬのなら帰れぬで、それはそれでよかろうとも思うているのだ」 「——」 「この長安《ちょうあん》は、人の坩堝《るつぼ》ぞ」  空海は、力を込めて言った。 「この長安の、おもしろい人の坩堝の中で、一生を終えるというのも、それはそれでおもしろかろう」  空海は、澄《す》ました顔で言ってのけた。  そこまで空海が言った時、 �ぼとり�  と、天井から何やら床に落ちてきた。  逸勢がそちらへ眼をやった。 「種か」  空海がつぶやくと、何かが落ちたはずの床のその場所から、小さな緑色をしたものが伸びてきた。  植物の芽であった。  その芽が、するすると伸びてゆく。  葉が、一葉、二葉、三葉と増えてゆき、なお、大きくなってゆく。  さわさわと葉が繁《しげ》ってゆき、見ればその葉影に、花の蕾《つぼみ》がある。その蕾が見る間にふくらんでゆき、 「おう、見ろ……」  逸勢が声をあげた時には、もう、花びらがほころび、息を数度吸った時には、しずしずと、しっとりとした花びらが、大きくその艶《あで》やかな赤い色を広げていた。  重そうな、大輪の赤い牡丹《ぼたん》の花が、そこに開いていた。 「空海、人がおるぞ!?」  逸勢が、高い声をあげた。  見れば、開いたばかりの花びらの中に、ひとりの、指一本ほどの大きさの老人がちょこんと座して、空海と逸勢を見上げているではないか。  空海は、うやうやしくその老人に頭を下げ、 「お待ち申し上げておりました。丹翁《たんおう》どの——」  静かにそう言った。 「丹翁だって?」  逸勢が、あらためて花の中を覗《のぞ》き込むと、そこで、あの丹翁が、ふたりを見上げて、にこにこと笑っている。 「もう、やつの幻術にかかっているのか——」  逸勢が怯《おび》えた声をあげる。 「逸勢よ、ここはひとつ、丹翁どのの趣向を楽しむことにしようではないか——」  空海もまた、微笑して、丹翁に顔を向け、 「こちらからうかがいましょうか。それとも、こちらへお来《こ》しなされますか」 「来るか、空海」 「喜んで——」  空海は、ゆっくりと立ちあがった。 「お、おい……」  逸勢は中腰になっている。 「逸勢よ、ぬしも来い。めったにできぬ体験ぞ——」 「来いといったって、おれにはどうしたらよいかわからぬ」 「立ちあがって、おれの横に並んで、眼をつむれ」  空海が言うと、おそるおそる逸勢は立ちあがり、空海の横に並んだ。  その手を、空海が握る。 「眼をつむれ」 「お、おう……」  逸勢は眼をつむった。 「よいか、ゆくぞとおれが言ったら、何も考えずに、おれと共に二歩、足を前に踏み出せばよい」 「むう……」 「よいか、ゆくぞ……」  空海に手を牽《ひ》かれるまま、一歩、二歩、逸勢は足を前に踏み出した。 「眼を開けてもよいぞ」  空海に言われて、逸勢が眼を開くと、そこはもう、あの花びらの中であった。  家ほどもある巨大な牡丹の花の中央近くに、空海と逸勢は立っていた。  ふたりの前方、蕊《しべ》の花粉が散っているその上に、丹翁が座して、ふたりを眺めていた。  ふわりとした赤い光が、ふたりを包んでいる。  あちらに、さっきまでいた、空海の部屋の様子が見えていた。  空海は、丹翁の前に、おもむろに座した。  逸勢も、空海を真似て、その横に腰を下ろした。 「今晩あたりかと、思うておりました」  空海が、丹翁に向かって言った。 「ほう、何故?」 「李香蘭《りこうらん》の屋敷から、晁衡《ちょうこう》様の文《ふみ》が消えていた件、あれは、丹翁どのの仕業《しわざ》ではありませぬか」 「はは——」  丹翁は楽しそうに笑って、 「気づいておったかよ」 「周明徳《しゅうめいとく》が、文箱《ふばこ》の中身が失くなっていたのを知って、驚いたとあれば、あとは丹翁どのが仕業と考える以外にはありませぬでしょう——」 「いかにも、あの文、このわしが手にある」  丹翁は、懐に右手を差し込んで、ひと巻きの巻子《かんす》を取り出した。 「これよ」  丹翁は、それを空海に向かって差し出した。 「約束どおり、これを、ぬしに読んでもらおうと思うてな」  その言葉に、逸勢は、驚いたように空海を見た。 「お、おい。空海、約束とはどういうことだ?」 「丹翁どのが、晁衡どのの文を手に入れたら、それを読んで差しあげるという約束をしていたのさ」 「なに!?」 「あとで、ゆっくり、詳しいことは話してやる」  空海は、逸勢から、再び丹翁にその視線を向けた。 「さあ、空海——」  丹翁が差し出してきたその巻子を、空海は手を伸ばして受け取った。  巻子に紙が張りつけてあり、そこに、大和言葉で文字が記されていた。 [#ここから1字下げ] �玄宗皇帝の命によりて倭国の遣唐使安倍仲麻呂太真殿を倭国へお連れ申しあげること� [#ここで字下げ終わり]  漢字を、発音記号として使用する万葉仮名《まんようがな》で、そのように書かれていた。  横から、空海の手元を覗き込んでいる逸勢にも、当然その文字は読める。  巻子の上に、紐《ひも》が結んである。  空海は、ゆっくりとその紐をほどき、 「では——」  おもむろに巻子を開いていった。  そして、空海は、そこに記されていた、玄宗《げんそう》皇帝と楊貴妃との、奇態なる物語を、あかあかとした意識で読み始めたのであった。        (二)    安倍仲麻呂の手紙  李大兄《りたいけい》。  浅学菲才《せんがくひさい》の身にも拘《かか》わらず、私がこのことを書き記しておこうと思い立ったのは、他でもありません。  ただただ、これから述《の》べる私の体験が、記すに足る奇異不可思議なる物語であるということと、私が書き残さねば、このことが、これに関わった者たちの死と共に、やがて歴史の闇の中に葬《ほうむ》りさられてしまうと考えたからでございます。  これは、大唐帝国という、巨大《おお》きなる花の影に隠れた、一朝の秘事に関わることであり、私ですらも、この話の全貌《ぜんぼう》を知っているわけではないのでございます。  ただ、わかっていることは、すでに書いたように、私が書き記しておかねば、この驚嘆すべき物語が、この世から消え去ってしまうということです。全貌については、今は想像するしかないにしても、たとえ、この物語の一部なりとも文のかたちにしておくことは、意義あることと私は考えているのです。  もっと正直に書いておくなら、私は、どうしてもこのことを書かずにはおれないのでございます。この大唐国、この地上において、最高の権力を持つ方の秘事に関わってしまった人間にとって、それを誰にも語らずに、朽《く》ち果ててゆくというのはとても我慢できることではありません。  この感情は、李大兄、あなたになら理解していただけるでしょう。  あなたが、これを読む機会がどれだけあるのか、私にはわかりません。たとえ、機会があっても、あなたに日本国の文字が読めるかどうか。おそらく、読むことはできないでしょう。それでも、私は、この文を、あなたに宛《あ》てるかたちで記しておきたいのです。  これを、すでに、忘れかけた、私の国の文章で書くことをお許し下さい。これは、大唐国の秘事を、このように記してしまわずにはおれない私の、せめてもの言いわけです。これは、記さずにはおれないから記すのであり、誰かに読んでもらいたいがためではないのだと——  おそらく、この文を読める人物は、大唐国には少ないでしょう。たぶん、あなたのおられる当塗《とうと》には、誰もいないと思われます。それでも、この文は、あなたに宛てられたものなのです。  これが、日本国の言葉で書かれるのは、こじつけておくなら、我が日本国にも、あながち関係がない話ではないからです。  そして、李白《りはく》大兄、あなたにも、ささやかながら、関係はあるのです。  玄宗前皇帝も、粛宗《しゅくそう》皇帝も、この年に死に、あの高力士《こうりきし》も今はこの世の人ではありません。この事件の当事者のみならず、あなたや私に、ささやかながら関係のあった知人たち多くも、次々にこの世を去ってゆきます。  私はすでに、齢六十二歳を数えます。  私も、そう長くはないでしょう。  ああ——  こうしてこの文を書き出してみると、なんととりとめなく私の中から言葉が溢れ出てくることでしょう。  一度は、日本国に帰ろうとして、それを果たせず、再びこの地にもどってきたというのも、あるいは、天が、私にこの文を書かせるべく謀《はか》ったことであるのかもしれません。そのおり、大兄の記された「哭晁卿衡」の詩は、長安にもどってから、眼にいたしました。  あなたと私が出会ったのは、いつだったでしょうか。  確か、天宝《てんぽう》元年のことであったと記憶しています。  あなたが、高力士とうまくゆかず、長安を去られたのが天宝三年——数えてみれば以来十八年も、目見《まみ》えておりません。  数えてみれば、あなたと共に長安で過ごしたのは、合わせても二年に足らぬ長さのことであり、それが、今なお、こうして文のやりとりができる関係を続けることができたというのも、私にとっては僥倖《ぎょうこう》なことでありました。  あなたがおられた頃の長安は、まさに、花なら大輪の真っ赤な牡丹《ぼたん》が、いっぱいに開いて今を盛りと咲き匂っているのにたとえられたでしょう。  天宝二年の暮春、興慶池《こうけいち》の沈香亭にあなたが呼ばれ、いともかろやかに「清平調詞」を書いてのけたおり、玄宗皇帝五十九歳、私は四十三歳で、あなたも四十三歳でした。  楊貴妃様は二十五歳、我々から見ても、妖しいほどの美しさを持った方でございました。あなたの詩《うた》ではありませんが、私も花の譬《たとえ》で貴妃様を愛《め》でるのではなく、貴妃様の譬えで花を愛でるのが、比喩《たとえ》としては正しいのだと思うのです。  二十年前といえば、多くのことどもが忘却《ぼうきゃく》の彼方のこととなって、記憶もさだかではなくなってくるのですが、あなたの「清平調詞」に合わせて舞った、あの貴妃様の姿だけは、今も、あかあかと鮮明に思い出されます。  私が、これから記そうというのは、その貴妃様の死に関わることなのです。  その文を、こうして、あなたに馴《な》じみのない、日本国の言葉で記すことを、重ねてお許し下さい。  日本国を出てから四十五年、もはや、祖国で過ごした年月よりも、この国で過ごした年月の方が、三倍近くも長くなってしまっているのです。すでに我が父母も死に、私を想い出す者など誰もおらぬであろうに、老いて私の心を占めているのは、あの国のことなのです。  もはや、生きて、あの国に帰ることはないでしょう。  あるいは、この文に記すことが、私が日本国へ帰る最後の機会であったのかもしれません。  私が、もはや忘れかけた日本国の言葉でこれを記すのは、そうすることによって、せめて、あの国のことをしみじみと思い出すためのよすがとしたいからなのです。  あなたが、仮に、もしもこの文を読んで、これをどこへ知らしめようと、それはあなたが、心のままにされればよいことです。この文に関して、私は、どのようなこともあなたに望みません。  読まれぬまま、あるいは読まれた後、これを焼き捨てようと、他人に売り払おうと、かまいません。  このことを書き記し、それをあなたに送ったということで、それを私の満足といたしましょう。        (三)  安禄山《あんろくざん》の乱について、そのいきさつを、ここでくどくどと申しあげる必要はないでしょう。  それは、私のような人間よりも、史家《しか》がいずれはきちんとしたかたちでまとめることだからです。その陰で、どのようなことがあったのかを、私は、記すにとどめましょう。  安禄山が、自らを大燕皇帝と称し、年号を聖武と改元したのは、天宝十五|載《さい》の正月でした。  この知らせを受けた時の玄宗皇帝の激怒は、並のものではございませんでした。御歳《おんとし》、七十二歳の身体を、激しくぶるぶると震わせ、 「あの男を殺して、首を晒《さら》し、肉を塩漬けにし、犬に喰わせよ」  玉座から立ちあがって、そう叫んだそうでござります。  これまで、自らの手で恩寵《おんちょう》を与えてきた雑胡《ざっこ》が、皇帝を名のり、国名や年号まで変えることを天下に触《ふ》れたのです。もはや、安禄山は、ただの叛乱軍の首謀者ではありません。玄宗皇帝を倒し、それにとって代ろうとする、一方の雄となったわけですから、皇帝のお怒りも、私は理解できました。  私は、その頃、秘書監《ひしょかん》をやっており、皇帝ともお会いする機会はありましたから、直接、その怒りをこの眼で見たこともあります。 「あの男——」  と、皇帝は、安禄山のことを、そのように呼びました。 「このわしの養子になりたいなどとぬかしておった男ぞ」  現に、安禄山は、楊貴妃の養子となり、皇帝とも睦《むつ》まじい時期があったのは、私も知っております。 「彼奴《きゃつ》め、養父に仇《あだ》をなすつもりか」  自ら剣をとって立ちあがりそうな気配もあり、久しぶりに楊玉環《ようぎょくかん》様に会う前の皇帝がもどってきたかのような感がありました。  一月の終り頃には、安禄山が病《やまい》に伏したとの知らせが入り、これは、この乱れもいずれは治まるかとも思っていたのですが、そうはゆきませんでした。  六月十日、哥舒翰《かじょかん》に率いられて潼関《どうかん》を出た二十六万六千人の兵が、霊宝県の西原で禄山|麾下《きか》の、崔乾祐《さいかんゆう》の軍と出会い、戦いとなりました。  しかし、会戦わずか一日にして、哥舒翰の兵二十万人余りが、潰《つい》えてしまったのです。  この知らせが、長安の都を震えあがらせたのでした。  玄宗皇帝が、長安を棄《す》てて、遠隔の地である蜀《しょく》へ落ちる決心をされたのは、その後でした。  私が、その知らせを受けとったのは、十三日未明のことでした。  使いの者が、やってきて、あと一刻ほどの後に長安を出て蜀へゆくから、準備せよというのです。  必要なものだけを持ち、誰にもこのことを知らせず、極秘のうちに行動せよと——  一行は、玄宗皇帝、楊貴妃をはじめとして、その姉の|※[#「埒のつくり+虎」、第3水準1-91-48]《かく》国《こく》夫人、宰相|楊国忠《ようこくちゅう》、高力士、韋見素《いけんそ》、魏方進《ぎほうしん》、親王、妃、公主《こうしゅ》、皇孫たちであり、それに、竜武将軍|陳玄礼《ちんげんれい》が近衛《このえ》の兵と共に護衛にあたるため、三千人余りになると、使いの者は言いました。  王宮の外に住んでいる者については、たとえ皇族であってもこのことは知らせず、全てを秘密裡に運ぶのだと。  まだ、暗いうちに、私たちは延愁門《えんしゅうもん》前の広場に集まりました。  玄宗皇帝は馬に乗り、楊貴妃は輿《こし》に乗っていました。  私自身は馬に乗りましたが、徒歩の者がほとんどでした。  皇族の他、その侍女、その家族、宦官《かんがん》、そして、兵士たち。  小雨の中の出発でした。  皆、一様に不安の色を顔に浮かべていました。王宮内部にいる宮人以外に、この出発のことを知る者はありません。その仲間に、倭国からやってきた私が混じっているということが、なんとも不思議に思われました。  馬の背に揺られながら、王宮を出てゆく私の心にあったのは、不安よりも、残してきた人々に対するうしろめたさでした。残された人々の中には、私の知人や、世話になった人たちも多くいます。  その時間もなく、しかたのなかったこととはいえ、そのことが私の心にはひっかかっていました。  もし、たとえ、再びこの長安にもどって来ることがあったとしても、これまで通りのつきあいを彼等とすることは、もうできないでしょう。  朝に、王宮へやってきた者は、そこに誰もいなくなっていることに驚くでしょう。  事実、その通りだったのですが、私にも思いもよらぬことが、その日、王宮であったのです。  これは、後になって人から聴いたのですが、もぬけの殻となった王宮から、略奪《りゃくだつ》していったのは、安禄山でも、その兵でもなく、最初のその我らの関係者たちであったというのです。  見捨てられた怒り、不安にかられた彼等が、宝の山を前にして、自分の欲望を抑えきれなくとも、私たちは誰も恨むことはできません。  私たちが、最初に、彼等を見捨てたのですから——  我々は、渭水《いすい》にかかった便橋《べんきょう》を、渡り終えました。  その時—— 「追手が来ぬよう、この橋を焼き捨ててしまいましょう」  楊国忠宰相が、兵にそれを命じようとしたのですが、それを止めたのは、玄宗皇帝御本人でした。 「焼き捨てれば、たしかに追手は来ぬかもしれないが、人民たちが災を逃れてこの渭水を渡ろうとした時に、橋がなければ彼等はどうなるのだ——」  皇帝のそのひと言によって橋は焼かれずにすんだのですが、乱にあって、ようやく皇帝にもかつての仁慈《じんじ》の心がもどってきたようでござりました。  しかし——  ゆくにつれ、ひとり、ふたりと、人の数が減ってゆくのです。いずれも、皇帝を見捨てて、勝手に逃がれようとする人々でした。  その中には、皇帝の遠縁の者も、兵も混じっておりました。  宦官の王洛卿《おうらくけい》という人物は、行列に先行して、皇帝の一行が通過する郡県に、置頓《ちどん》の手配をすべきところ、逃げ出してしまったため、我々のみならず、皇帝も、正午になっても一片の食物も口にできないという状態になってしまいました。  ついに、宰相の楊国忠自らが町の市場に入り、胡餅《こべい》を買い求めてきて、袖の中に入れて持ちかえり、それを皇帝に献上するというようなこともあったのでした。  これを聞きつけて、咸陽《かんよう》地方の人民たちが、相集まって糲飯《れいはん》を献上し、麦、豆などをあわせて持ち寄ってきました。  皇子、皇族、皇孫たちまでもが、争うようにして、手でとってはそれを食したのです。  それも、たちまちにして尽きてしまい、誰も満足には食べられなかったのですが、それでも、皇帝は、それ等の食物を持ってきた人々に、それぞれの代価を支払われ、心から厚く彼等を慰労したのです。  その光景を見て、いたわしさに涙する者も多数ありました。  行列からは、さらに多数の脱落者が出、我々は、倒れそうになる身体をどうにか支え、その日の夜半に、ようやく金城《きんじょう》県にたどりついたのです。  しかし、そこの長官は、すでにどこかへ逃げた後であり、県民もまた、多く、逃げ出していました。逃げた農民の中には食事中の者もあったとみえ、食器の中にまだ、食べ残した食べ物が残っているものもありました。  皇帝を始めとして、多くの皇族たちは、そのような食べ残しのものまで、その口にされたのでした。  このことからも、いかに、我々が、突然に長安から逃げ出したかおわかりかと思います。  そして、あの、馬嵬駅《ばかいえき》の悲しむべき事件がおこったのです。  かの、楊貴妃様の、死にまつわるお話は、実はここからなのでございます。        (四)  兵たちの様子に、不穏なものが感じられるようになったのは、金城駅に着いてからでございました。  深夜に、金城駅には着いたのでございますが、我々の一行を安禄山の軍と勘違いしたのか、県民は誰ひとりとして残っておりませんでした。  あちらこちらの民家に分散し、ありあわせの食料を調達して、わずかに腹に収めはしたのですが、まことに、皇帝もそのご一族の有様も、見すぼらしいものでございました。  それにいたしましても——  京城から金城駅まで、わずかに四里、五里でございます。暗いうちから深夜にまで歩んだにしても、いかほども進んではおりません。  多くの者が、また、この間に逃亡し、皇帝のお側《そば》近く仕えていた内侍監《ないじかん》の地位にあった袁思藝《えんしげい》どのまでも、姿を消しておりました。  まことに、一国の滅亡かという時、その王が味わう悲哀というのは、いかばかりでございましょうか。  私自身は、この難に遭遇して以来の、皇帝の態度には、あらためて胸うたれることばかりでございました。  楊国忠宰相と皇帝が、便橋を焼く、焼かぬで議論をあそばされたことは、すでに書きましたが、実は、出発前にも、これと似たようなことがあったのでございます。  京城を出発しようとしたおり、土蔵の前を行列が通ったのですが、楊国忠宰相が、その時—— 「この蔵を焼いてしまいましょう」  いきなり言い出したではありませんか。 「むざむざ、この蔵の中にある品々を、これからやってくる安禄山の手に渡すこともないでしょう」 「待ちなさい」  やはり、これに反対なされたのも、玄宗皇帝でございました。  皇帝は、愀然《しゅうぜん》として、顔を淋しげにあげて蔵をご覧になられ、 「この蔵を焼くことはたやすい。しかし、賊が、掠奪《りゃくだつ》しようとして、城に入ってきた時、掠奪すべきものがなかったとしたらどうなる。彼等は都に攻め上《のぼ》ってきて、ここに求める財貨がなかったら、市中の人民から掠奪をするであろう。人民と言えば、わが子も同じ。そのわが子を苦しませることが、どうしてできようか。宮中に残っている財貨はそのままにしておき、掠奪されるにまかせなさい」  そのように申されました。  結局、蔵は焼かれずに済んだのでございますが、皮肉なことに、その宮中から、安禄山が来る前、最初に掠奪をはじめたのは、皇帝が守ろうとした人民たちであったのは、哀しいことでした。  ともあれ、玄宗皇帝の態度は、あのように京城を落ちられる時にあってなお、その威厳を保っておられ、むしろ、難に遭われて、かつての皇帝のご本念が出てきたように私には思われたのでございます。  金城県では、灯火もなく、人々は皆互いの身を枕とし、藉《しきもの》として眠りにつき、貴賤《きせん》の区別ももうつかぬほどでございました。  その夜——  潼関の王思礼《おうしれい》という者が、この金城県まで使者としてやってまいりまして、 「哥舒翰さま、安禄山の軍に捕われの身となりました」  官軍の総大将であった哥舒翰どのが捕虜となったことを、皇帝に告げたのでございます。  皇帝は、王思礼を、河西《かせい》、隴西《ろうせい》、両道の節度使とし、任地におもむいて、離散した軍を再び集め、それで、安禄山の軍を東に討つことを命じられたのでございました。  どうも、その頃から、皇帝に付き従っていた将士たちの様子が、今思えば少し怪しくなっていたのでございます。  眠らずに、隅に集まり、闇の中でひそかに密談などをしている様子であったのですが、別の場所で眠っておられる皇帝には、それは、あずかり知らぬことでございました。  翌、六月の丙申《へいしん》の日、我々は馬嵬駅に到着いたしました。  将士は、飢え、疲れて、皆不満を洩らし、ついにそこにとどまって、動こうとしなくなってしまいました。  その後のことの一部始終を、私は見ていたわけではございません。後になって、人づてに聞いたりしたこと、また私自身がその場に立ち合っていたことも含めて、これから先のお話を、続けることにいたしましょう。  将士たちを引率していたのは、竜武大将軍の陳玄礼と申す者でございました。  彼は、不平を洩らす将士たちの前に立ち、次のように申したそうでございます。 「よいか、逆胡《ぎゃくこ》は長安の宮禁を指し、宰相の楊国忠を誅殺《ちゅうさつ》することを反乱の名目としている——」  楊国忠は、つまり、楊貴妃様の義理の兄上にあたられる方で、今回の反乱がおこったのも、原因はといえば、楊国忠と安禄山の反目があったからでございます。  このことは、宮中にいた者であれば、誰もが承知していることでございます。 「しかし、楊国忠に反感を抱いているのは、何も逆胡の安禄山ばかりではない。朝廷の内外においても、多くの者が、あの男を嫌っておるのは、皆も承知であろう」  ここで、将士たちの間から、喊声《かんせい》があがったと言われておりますが、これは私自身が耳にしたものではありません。  楊国忠が宰相になるために、いえ、宰相になってからも、自分の権力を伸ばしてゆくため、また、それを守ってゆくために、様々な非道なことをしていたことは、私は耳にしております。  宮中での敵を、地方へ追いやったり、あるいはつまらぬ罪で死罪を申しつけたり、毒殺という手まで使ったと、私は聴き及んでおります。  騙《だま》し合いと、自分の権力をいかに守るかで、皆々がやっきとなっているのが、宮中であるということは、李白大兄には、申すまでもなくお分かりのことと思います。  その中で、楊国忠が、様々に人に恨みを買ってきたことは事実です。  楊国忠が、何故、宮廷でそのように権力を伸ばしてゆくことができたのかというと、それは、むろん、貴妃様の兄君であられたからであり、皇帝が、| 政 《まつりごと》の座から降りて、多くを楊国忠にまかせてしまわれたのも、貴妃様がいたからでございます。  貴妃様に、皇帝がお気持ちを寄せている間に、自然に政がおろそかになっていったわけで、これは、貴妃様の責任というよりは、むしろ玄宗皇帝の方に責任があったということでしょう。  しかし、皇帝に、その責任を問えるものではありません。むりに問うのなら、それは反乱を意味することになるでしょう。  こと、ここまでに至ってしまったら、責任を取るというのなら、楊貴妃様と、楊国忠、そして、その親族に、責任を取れと迫るしかありません。 「今、唐の国は混乱しており、また、皇帝の運命も安易なものではなくなった。よろしく群情に従い、さらには国家百年の計のためにも、貴妃らと、楊国忠らは、法に照らして処分されるべきではないか」  将士たちは、口々にそうだそうだと言いながら立ちあがり、拳《こぶし》を振りあげたのでございました。  陳玄礼は、それと同じことを文書にし、東宮《とうぐう》づきの宦官、李輔国《りふこく》を介して皇太子に渡し、皇太子を通じて玄宗皇帝に奏上しようとしたのでございました。  皇太子は、その奏上文を手にし、さて、どのようにしようかと思案しておりましたが、おりしもその時、吐蕃《とつばん》から唐の朝廷に使者としてやってきた二十一名が、偶然にも通りかかったのでございます。  ちょうど、吐蕃の一行も、おりからの乱で食物が手に入らずにいたため、そのことを訴えようと、たまたま楊国忠の馬を呼びとめました。  それを将士たちが、好機とばかりに利用したのか、それとも、おさえにおさえてきたものが、そこでとどめきれなくなったものか、立ちあがり、 「楊国忠、胡虜《こりょ》と共に叛を謀《くわだ》つるぞ!」  そう叫んで、ある者は剣を抜き、ある者は弓に矢を番《つが》え、騒ぎ出したのでございます。  そのうちのひとりが射た矢が、楊国忠の乗った馬の鞍に突き刺さり、反乱が始まってしまったのでございました。  剣を抜いた将士たちの一団が、わっとばかりに楊国忠に襲いかかってゆきました。  驚いた楊国忠は、馬を疾《はし》らせ、馬嵬駅の西門の内に駈け込んだのですが、そこで将士たちに追いつかれ、馬からひきずり下ろされてしまいました。  楊国忠は、そこで生きたまま腹を割《さ》かれ、首を刎《は》ねられて殺されてしまったのです。  同時に、楊国忠の子供たちも将士たちによって殺され、貴妃様の長姉の韓国《かんこく》夫人、次姉の秦国《しんこく》夫人も、泣きおめいて逃れようとするのを捕えられ、無惨にも首を刎ねられて殺されてしまいました。  それを見ていたのが、御史大夫《ぎょしたいふ》の魏方進《ぎほうしん》でございました。  魏方進は、大声で、 「将士たちよ、汝ら何故に宰相楊国忠を殺したるか」  叫んだのですがその声が終らぬうちに、もはや自制心を失った将士たちが取り囲み、これまた惨殺《ざんさつ》してしまったのです。  将士たちが去った後には、人とも何とも判別のつかない肉塊が横たわっているばかりであったということでございます。  この異変に驚いたのが、知門下省事の官に就任していた韋見素《いけんそ》でございました。  韋見素が駅舎から出てゆくと、彼もまた、たちまちに将士たちに取り巻かれ、剣で襲われました。  韋見素は地に倒れ、頭の傷からは脳血までが流れ出していたのですが、誰か、 (その男を殺すのはならぬ)  と叫ぶ者があったため、生命だけはとりとめました。  将士たちは、そのまま、馬嵬駅を取り囲んでしまいました。  玄宗皇帝は、駅舎の中にいたのですが、さすがに外の騒ぎが気になって、左右の臣下にそれを問いました。 「陳玄礼が、反乱を起こし、楊国忠宰相を殺しました」  左右の者は、ありのままを答えました。  その時、私も駅舎の中にいたのでございますが、それで初めて、外で何が起こったのかを知ったのでございます。  皇帝は、杖を突きながら駅門を出、将士たちに包囲を解くことを命じられたのですが、陳玄礼率いる六軍は、包囲を解こうとはしませんでした。  門の外を見やれば、将士のひとりが持った槍の先に、楊国忠宰相の首が刺し掲《かか》げられているではありませんか。  さらには、貴妃様の姉上様たちの首も、槍の先に刺し掲げられておりました。  韓国夫人の首を掲げた劉栄樵の姿もありました。  おそらくは、どこからか、貴妃様もこの光景をごらんになったことと思われます。  駅舎の中では、不安と動揺が渦巻きました。 「我々も、皆、殺されてしまうのではないか——」  誰の心の中にも、その思いが去来いたしました。  私にいたしましても、ついに、倭国に帰ることならず、異国の内乱に巻き込まれ、この地に果つるのかという思いを胸に抱き、数奇な自分の運命を、嘆息いたしました。  玄宗皇帝は、貴妃様と別室に入っておられたのですが、再び出て来られ、陳玄礼のもとに高力士様をやって、反乱の意図をお訊ねになられたのでございました。 「楊国忠が、叛を謀りし上は、その係累である貴妃殿を、すみやかに法に照らしてご処分願いたい」  これが、陳玄礼の申し入れでございました。  駅舎の中にいた誰もの心に、貴妃様を皇帝がご処分なされれば、自分たちの生命は助かるのだという思いが生まれましたが、誰も、そのことを自ら口にする者はおりませんでした。  玄宗皇帝は、杖にすがっているのもやっとという有さまで、いまにもその場に頽《くずお》れてしまわれそうでございました。背を柱にあずけ、長い間、苦悶の表情を浮かべて思案されておりました。 「どうすればよい?」  顔をあげて、救いを求めるような眼で、我々をごらんになりました。 「いや、聴くまでもない。そちたちの心のうちは、よう分かっておる……」  この時、側近として仕えていた官吏の韋諤《いがく》という者が、勇をふるって前に出、どうせよとは言わず、 「ご決心を……」  これもまた、悲痛な声で申したのでございます。  韋諤は、平伏し、地に頭をこすりつけ、ついにはその額から血が滲《にじ》み出てまいりました。  これには、皇帝も、おおいに心を動かされたご様子でございましたが、皇帝の貴妃様に対する愛情には、並ならぬ深いものがおありのご様子で、そのお顔は、ますます濃い苦悶に歪《ゆが》むばかりでございました。 「貴妃は、常にわが深宮の内にあった。どうして、国忠の謀叛《むほん》を知り得ようか。貴妃に罪はない……」  皇帝は、韋諤にそのように訴えました。  誰も、答える者はございません。  その時、静かに前に歩み出たのが、宦官の高力士様でございました。 「玄宗様……」  おもおもしい、低い声で、高力士様は申されました。  高力士様は、これまで、誰よりも長く、誰よりも身近く、皇帝にお仕えしていた宦官でございます。  玄宗皇帝のお心の痛みも、お苦しみも、誰よりも理解している方でございます。  そのことは、皇帝ご自身もよく理解しておいでです。 「ことはすでに、貴妃様に罪があるのか、ないのか、ということではございません」  高力士様の眼からは、涙が流れ出ておりました。  玄宗皇帝も、高力士様も、すでに齢《よわい》七十を越えております。  かく申す私も、この時、五十六を数える身でございました。 「あるのかないのかということであれば、貴妃様に罪はないでしょう。しかし、陳玄礼たちは、すでに、貴妃様の兄や姉上である、楊国忠、韓国夫人、秦国夫人たちを殺してしまっているのです。自分たちが殺した人間たちに、もっとも近かった楊貴妃様が、皇帝のお側に仕えているとなれば、ここで包囲を解いて、この場を許されたとて、どうして彼等が心を安んじていられましょうか。このことを、つまびらかにお考え下されば、おのずとどうすればよいのかは、お分かりになるでしょう。どうか、将士たちが、安心するようなご決断をなさることが、皇帝が心を安んずることができる道とお考え下さい……」  血を吐くような声で、高力士様が言ったのでございました。  その言葉が途切れた後、長い沈黙が続きました。  貴妃様は、むこうのお部屋におられるのでしょうが、ことのなりゆきは、全てご存知でおられるのでしょう。 「おお……」  皇帝が、低く呻いて、皆の前で、静かに静かに、嗚咽《おえつ》の声をお洩らしになりました。  こらえてもこらえても、その歯の間から、慟哭《どうこく》の声が洩れ出てまいります。  その場にいた者の多くが、思わずもらい泣きをいたしました。  その時でございます、どこからか、低い、啜《すす》り泣きとは別の、くっくっという声が響いてまいりました。  それは、啜り泣きではございませんでした。  まぎれもない笑い声であったのでございます。  その声の方へ、眼をやりますと、貴妃様のお部屋へ通ずる出口のところに、細い、背の低い、ひとりの老人が立っておりました。  道士の、黄鶴《こうかく》でございました。        (五)  黄鶴は、その名の通り、小柄なくせに、頸《くび》が鶴のように細《ほ》っそりと長く、そして小さな頭をしておりました。  多分に、胡《こ》の血が混じっているか、おそらくは胡人《こじん》であったのか、実のところは誰もそれを知らぬのですが、黄鶴は、高《たか》い鼻梁《びりょう》と、瑠璃《るり》のごとき碧《あお》い眸《め》をしていたのでございます。  李大兄には、すでに御承知のことと思われますが、ここで、黄鶴という道士について説明申しあげることをお許し下さい。  そもそも、この黄鶴という道士が、玄宗皇帝のお側近く仕えるようになったというのは、貴妃様の一件からでございます。  楊玉環様が、貴妃となられたおりのことは、皆さま御存知の通りでございます。  楊玉環様は、はじめ、玄宗皇帝の皇子であらせられた寿王《じゅおう》の妃《きさき》でございました。それを玄宗皇帝が見初《みそ》められて、寿王から楊玉環様を奪ってしまわれたのです。  しかし、さすが皇帝の権力をもってしても、自分の息子の妻を、いきなり自分の妃にするわけにもまいりません。一時は、皇帝も、あきらめかけていたのですが、そのおりに、おそれながらと進言をしたのが、黄鶴であったと聴きおよんでいます。 「おそれながら、楊玉環様を、皇帝のお側にお仕えさせる手だてがないわけではございませぬ」  ただ命じて、自分のものにするだけであるなら、この世に皇帝の思いのままにならぬことなどございません。どのような法も、皇帝を罰することはできぬからです。命じられた者は、その通りにするか、死を選ぶか、そのどちらかを決めることができるのみでございます。  命ずれば、たとえ、自分の息子の妻であろうが、皇帝は自分のものにできる力を持っているのです。  それを命ずる勇気があるかないか、皇帝にとってはそれだけの問題でございます。しかし、皇帝は、さすがにそれを命ずることができませんでした。  それが、人の道に、大きくはずれてしまう行為であるからでございました。 「はて、どのような手だてがあるというのか——」 「楊玉環様に、いったん俗界を離れていただきます」 「ほう——」  思わず身を乗り出された皇帝に、黄鶴は次のようなことを申したそうでございます。  いえ、これはあるいは高力士様がおっしゃられたとも言われておりますが、それにしても、その裏に、この黄鶴という道士がいたというのは間違いございません。 「寿王様と、楊玉環様とは、おそれながら離縁をしていただく。その理由は、楊玉環様が、仙の道に入るためということがよろしいかと思われます。仙の道に入り道士となるために、いったん俗界を離れる——これについては、どういう問題もございません」 「それで」 「いったん道士となられた楊玉環様が、ほどよき年月を重ねられて後、再び俗界におもどりあそばされても、これもまた、どういう問題もございません」  その上で、正式に、楊玉環様を、我が元へおむかえなされたらよろしいではありませんか——  これに、皇帝が心を動かされ、そのようにことが運ばれていったのは、皆さま御存知の通りでございます。  楊玉環様は、道士となり、老子の霊をまつる温泉宮中の太真宮に迎え入れられ、太真と号されることになったのでございます。  そのおりより、この黄鶴という道士が、皇帝のお側近く仕えるようになったのでございました。  皇帝は、かねてより、道家、道教、神仙道に興味をもたれ、老子を道家の祖としてあがめておられました。そのような、黄鶴という道士が、皇帝に近づくための事情が、皇帝の方にもあったのです。  この黄鶴が、高力士様と並んで、常に皇帝の傍に控えておりまして、この度の、蜀《しょく》へ落ちのびる旅にもついてきていたのです。その黄鶴が、我々一同を見て、低い、ひきつれたような笑い声を洩らしていたのでございました。 「玄宗様、お話がござりまする」  黄鶴が申しました。  玄宗皇帝は、顔をあげて、すがるような眼で黄鶴を見つめ、 「おう、黄鶴、朕《ちん》はどうしたらよい?」  力の抜けきった声で言われました。 「こちらへ——」  黄鶴は玄宗皇帝の手を取り、 「それからお人|払《ばら》いを……」  囁《ささや》くような声で言ったのでございました。  玄宗皇帝は、黄鶴と共に、別室へ姿を消し、おふたりで、何やら話をしている様子でございました。  ほどなく、おふたりがもどって来られ、我々の前に立ちました。  気のせいではなく、玄宗皇帝の血の気のなかった頬には紅《あか》みが差《さ》し、眼に光がもどっておりました。別室で、黄鶴とどのような話があったのか、ともかく、その話が、玄宗皇帝に、わずかながら力をもどさせたのでしょう。 「晁衡《ちょうこう》様、高力士様。これへ——」  慇懃《いんぎん》な口調で、黄鶴が言いました。 「我らのみで、話をいたしたく……」  黄鶴が頭を下げました。  否も応もありません。  私と、高力士様は、黄鶴と皇帝のお傍に寄りました。 「よいか。皆のもの、我らは、これから、今後のことについて、しばらく話をすることになる。その間、外の者たちには待つように伝えてくれ——」  皇帝は、しばらく時間をもらうため、外の将士たちと交渉する役の人間をお決めになり、 「ゆこうか——」  奥の間へ、我々をうながされたのでございました。        (六)  奥の間には、すっかり怯えきった貴妃様が、椅子に座られておりました。  窓は、外から見えぬように閉めきって板でふさいであるため、その部屋にはわずかの光しか差し込んでおりません。  その闇の中で、静かに貴妃様は座していらっしゃるのですが、それでも、顔の表情は見てとることができます。  李大兄、お笑い下さい。  その時私は、その、かつて、この地上で一番権力を握っていた女性であり、今は、猟師の矢にねらわれた牝鹿《めじか》よりもあやうい存在となられている美しい妃《ひめ》に、強い恋情さえ覚えたのでございます。  そのお顔の色から察すると、外でおこったことの全ては御承知で、楊国忠の首がさらされているのも、もの陰からごらんになられたのでしょう。  そして、将士たちの要求しているものが、御自分の生命であることも、充分に承知されている御様子でした。  椅子に座った貴妃様の左右に、ふたりの男が立っておりました。  私も、見覚えのある男たちでございます。  黄鶴の弟子の道士、丹龍《たんりゅう》と白龍《はくりゅう》でございました。  玄宗皇帝のお姿を見て、貴妃様が立ちあがろうとするのを、玄宗皇帝が優しく制せられて、自らも、貴妃様の横の椅子にお座りになられました。 「玉環や、大丈夫じゃ。そなたを死なせはせぬ」  皇帝は、手を伸ばし、貴妃様の手を握られました。 「さて——」  声をあげたのは、黄鶴でございました。 「これから、わたしがお話し申しあげることは、一切、他人に口外することはなりませぬ——」  黄鶴は、我らを見回し、私や、高力士、そして、玄宗皇帝、貴妃様までがうなずくのを確認してから、 「今も、玄宗皇帝にはお伝えしたばかりなのですが、それを、あらためて、ここでもう一度お話し申しあげましょう」  細い頸を、いよいよ細く前へ伸ばし、碧い眸を鋭く光らせました。  私は、どうして、自分のような立場の人間が、このような大事の時、このような場所にいるのか、見当もつきませんでした。私は、異国の、倭国の人間であり、この国の者ではございません。  しかし、わざわざ、この場に呼ばれた以上は、それなりの理由があるのでしょう。  むろん、やがて、私はそれを知ることになるのですが、まだ、その時には何が何やらまるで見当がつきませんでしたから、ただただわたしは、黄鶴の次の言葉を待ったのでございます。 「まず、申しあげておきたいのは、貴妃様のお生命をお救い申しあげる方法は、あるということでございます」  外に洩れぬよう、声は低めておりましたが、はっきりと、そのように黄鶴は申したのでございました。 「本当に?」  貴妃様の声に、 「はい」  黄鶴はうなずきました。 「今が夜であれば、我ら三人が、貴妃様おひとりくらいであれば、いったんは、無事に外へ落ちのびさせることはできるでしょう。しかし、今は、昼でございます。夜まで、将士たちが待つとも思えません。たとえ、夜であって、いったん貴妃様をここから逃れさせても、蜀への道はまだ遠く、都にはもどれず、しかも、将士の数は三千以上。いずれは、どこかで捕えられることと、あいなりましょう」  思えば、貴妃様は、我らが落ちようとしている、蜀の地でお生まれになった方でございます。  蜀州の司戸という官吏をつとめていた|楊玄※[#「王+炎」、第3水準1-88-13]《ようげんえん》という者の娘として生を受けたのですが、幼くして、父母が死に、やむをえずして、叔父である|楊玄※[#「激」の「さんずい」に代えて「おうへん」、420-4]《ようげんきょう》にひきとられ、そこで成長されて、寿王の妃となられたのでございます。  楊国忠にしても、韓国夫人にしても、|※[#「埒のつくり+虎」、第3水準1-91-48]《かく》国夫人にしても、秦国夫人にしても、実の兄上、姉上ではなく、義理の兄上、姉上であったのでございます。 「では、どうやって助けると言うのだ」  高力士様が、黄鶴に訊《き》きました。  すると黄鶴は、黄色い歯を見せて微笑し、 「まずは、貴妃様に、一度死んでいただきます」  そう申しました。 「なんと!」  高力士様は、声をあげました。  貴妃様は、眉をおひそめになり、もどりかけた血の気が、また、そのお顔から去ってしまわれました。 「貴妃様には、一度、死んでいただくことが必要なのです」  その黄鶴の言葉に、動揺を見せなかったのは、黄鶴のふたりの弟子と、玄宗皇帝でございました。 「仮に、もし、貴妃様ひとりをこの場からお助け申しあげたところで、将士たちはおさまらぬでしょう。玄宗皇帝を含め、ここにいる主だった者は、皆、殺されてしまうことになりましょう」 「む……」  高力士様が、声を殺してうなずきました。 「玄宗皇帝と、貴妃様を、蜀の地まで落ちのびさせても、ここにいる将士たちは、もうただの暴徒です。数を増やして、安禄山《あんろくざん》の軍に合流することは、火を見るより明らかでござりまするな」 「——」 「つまりは、貴妃様には、ひとまず死んでいただかねばなりませぬ」 「何が言いたい?」 「よくお聴き下され。貴妃様、高力士どの。わたしは今、ひとまず、と申しあげました——」 「なに?」 「死んでいただいた後、貴妃様には生き返っていただきます」 「死んだふりをせよということか——」 「いいえ」  黄鶴は、首を左右に振りました。 「貴妃様が死んだと伝えれば、必ずや、将士の中から、その屍体を検分にまいりましょう。おそらくは、竜武大将軍の陳玄礼がじきじきにその役をすることになりましょうな——」 「で——」 「かの陳玄礼、これまでに見た屍体は、百や二百ではござりませぬ。どんなにうまく死んだふりをしようと、たやすく、その嘘を見破ってしまわれるでしょう」 「さては、よい、貴妃様の身代りとなる娘でも見つかったと——」 「まさか、このような時に、そうたやすく身代りとなって死ぬにほどよい娘が見つかるはずもござりませぬ」 「いったい、何を考えておる!?」 「高力士殿。我らをいったい何と心得ておいでか」 「ぬしらを?」 「我らは、呪法に仕える者にてござります」 「呪法——」  むろん、高力士様とて、貴妃様とて、この私にしても、それは承知しております。  黄鶴は、あらたまって、ここでいったい何を言おうとしているのでしょうか。 「我ら道士は、すなわち、不老長寿、人の不死に関わる人間でござるよ」  黄鶴が言いました。 「いや、確かに、仙道の徒が、そのようなことの秘事に通じておるのはわかっておる。しかし、不老長寿や不死などということが、この世に本当にあるとは思えぬ。かの、始皇帝《しこうてい》でさえ斉《せい》の方士|徐福《じょふく》や、燕《えん》の方士|廬生《ろせい》らに、不老不死の仙薬や、その造り方を知っている仙人を求めさせたが、かなわず、死に至ったのだぞ」  高力士様は、ひとしきり司馬翁《しばおう》の『史記』の記述のひとくだりを、黄鶴に語ってきかせました。  その高力士様の言葉を、黄鶴が途中で遮《さえぎ》り、 「むろん、承知のこと——」  諭《さと》すように申しました。 「我らとて、絶対に人が死なぬ法が、この世にあろうとは思うておりませぬ。古《いにしえ》の聖人が、仙人となって不老不死となり天へ昇っただの、火で焼かれても死ななかったなどと言われておりまするは、実は、あれは皆伝説の類《たぐい》。不死に憧《あこが》れる人の心が造り出した物語にすぎませぬ」  ここに至っては、横から口をはさむよりは、この黄鶴の語るにまかせた方が楽と判断されたのでしょう。高力士様は、ほとんど、途中から口を挟まなくなりました。 「しかし、歳をとらぬという方法はありませぬが、ゆっくりと歳をとるという方法はあるのです」 「どのような?」 「高力士殿、このわたしが、幾つに見えまするか?」  問うた高力士様に、逆に黄鶴が問うたのでございます。 「ぬしが?」 「はい」  黄鶴がうなずきました。  高力士様が、しげしげと黄鶴を見つめました。  どう見ても、五十代の半ばでございますが、それは外見上のことであり、実際は私が頭の中で考えているのとは違うお歳《とし》なのでしょう。 「六十歳?」  高力士様が言いますと、黄鶴が、違うと首を振りました。 「四十歳? それとも逆に八十歳か——」 「いいえ、このわたくし、今年でちょうど、百と三歳になりますな」  この言葉に、高力士様も、私も、そして貴妃様も、玄宗皇帝御自身も、驚いた表情になりました。 「よろしいですか。人は、自分の意志で、他人の十分の一の遅さで、歳をとることができるのです」 「——」  高力士様は、言葉もございません。 「尸解仙《しかいせん》、というのを御存知でござりまするか——」  黄鶴は言いました。        (七)  ——尸解仙《しかいせん》。  仙道に御興味のあった、李大兄なら、当然お読みになっていると思われますが、私も、葛洪《かっこう》の著《あら》わした仙道書『抱朴子《ほうぼくし》』は眼にしておりましたから、天仙《てんせん》、地仙《ちせん》、尸解仙の違いくらいは、存じております。  しかし、そこであえて口を挟んで話の腰を折るわけにはまいりません。 「うむ」  うなずかれたのは、玄宗皇帝でございました。 「仙人と申しましても、まず、大きく三つに分けられます。天仙、地仙、尸解仙がそれでございます。生きたまま、生身の身体で不老不死となり、天へ昇る——これが天仙でござりまするな。地仙もまた、生きたまま仙人となったものでござります。さて、ではこの最後の尸解仙でござりまするが——」  黄鶴は、一同をぬめりとした眼で見回して、 「これは、仙人のうちでも、一番|位《くらい》が低うござりましてな。修行がいたらず、生身の肉体を抱えていては、生きたまま仙《せん》となることかなわぬ者が、ならば、魂だけでもと、死して天へ昇り、仙人となったものが尸解仙でござります——」  私の聴き及びましたところでは、死して後、尸解《しかい》して仙人になった者の屍体は消えてしまうということでござります。  葬《ほうむ》って後、棺を開いて見ても、その衣装や持物が残っているだけで、骸《なきがら》は、魂魄《こんぱく》とともに何処《いずこ》かへ飛び去ってしまっているとか。  それを、黄鶴は、一同に語り、 「ま、それもこれも、ひとつの方便でござりましてな。天仙であろうが、地仙であろうが、はたまた尸解仙であろうが、人が死なぬということは、この世にはあり得ませぬ。しかし、先ほども申しました通り、寿命を延ばすことは可能でござります。それが——」  と、黄鶴は、玄宗皇帝を見つめ、 「尸解の法でござります」 「尸解の法とな!?」  玄宗皇帝が、身を前に乗り出されました。 「はい」  黄鶴は、その眼を、貴妃さまに向け、 「この法を施《ほどこ》せば、呼吸は止まり、血流は止まり、心の臓の鼓動までが止まり、肌の温《ぬく》もりまでもが消え去って、もはや、屍体となんらかわるものではござりませぬ。呼吸は、一日にただ一度、心の臓が打つのも、一日にただ一度。この法を施しているうちは、他人の、およそ千分の一ほどしか歳をとりませぬ——」 「——」 「貴妃様に、この尸解の法を施し、仮死状態にしてから、その身を陳玄礼に検分させれば、よろしかろうと思われます」 「ばれぬか」  と、玄宗皇帝が言いました。 「そのおそれはござりませぬ」 「しかし、検分したあとはどうする?」 「いったん、貴妃様を、土中に葬ることになりましょう」 「なに!?」 「そうせねば、怪しまれまするでな。屍体がどこかへ消えてしまったというわけにもゆかず、かといって、蜀《しょく》の地まで貴妃様の身体を御一緒にお運び申しあげるわけにもいきますまい。貴妃様のお身体、むろんのこと、何日経っても腐りませぬ。腐らぬ身体を連れてゆくのでは、陳玄礼も怪しみましょう——」 「——」 「葬った後、ほどよき頃あいを見計らって、貴妃様の身体を土中より掘り出します」 「いつじゃ」 「はて、この状況では、それがいつになるとは申せませぬ。ひと月後であるか、三月《みつき》後であるか、はたまた、一年後、二年後であるか——」 「二年!?」 「おそらく、三年、四年はだいじょうぶであろうかと——」 「その後は?」 「貴妃様のお身体に、どれだけの力がそなわっているかでござりまする」 「——」 「一日に一度の呼吸と申しましても、それでも、少しずつ、貴妃様のお身体の精気を消耗してゆくことになります。この間、貴妃様は、お水もお食事もとることかないませぬ。もっても七年、八年のうちには、お身体はお痩せになり、お眠りになられたまま、真の死に至るかと思われます」  貴妃様のお顔は、青く血の気を失い、唇は微《かす》かに震えておられました。 「わたしほどの修行を積んでおられれば、呼吸法をもって、夜、眠る時に自ら尸解となり、朝も、自ら蘇生《そせい》することができまするが、貴妃様には、それはできぬこと。他人が尸解の法を施し、他人がその法を解かねば、蘇生することかないませぬ」 「尸解の法とは、いったい、どうするのじゃ——」 「はい。人が仙となるにも、天丹法《てんたんほう》、地丹法《ちたんほう》とござりまするが——」  天丹法というのは、呼吸により、天地の陽気を体内に取り入れ、それを体内で練りあげて、仙に至る法のことでございます。  地丹法と申しますのは、仙薬をもって、人の身が仙となる法のことでございます。 「この場合は、言うなれば、地丹法をもって行うことになりましょうな」 「地丹法とな?」 「はい。わが秘薬に、尸解丹《しかいたん》と申しまする丸薬がござります。これを貴妃様にお飲みいただき、しかる後に、針を数本、貴妃様のお身体に、刺し入れます」 「針を——」 「お話し申しあげるより、実際にお見せ申しあげた方がよろしいでしょうな。これ、白龍——」  黄鶴が声をかけますと、声をかけられた白龍という若い方士が、 「は」  ゆらりと立ちあがりました。  白龍と丹龍という、ふたりの若い方士は、これまで、部屋の隅に片膝を突き、無言でそこに座していたのですが、それで、ようやく私は、このふたりがこの場にいたことを思い出したのでございました。 「服を——」  黄鶴が申しますと、するすると白龍は帯を解き、着ていた道服を脱いで、そこに一糸まとわぬ裸体となって立ったのでございました。  白い肌、よくひきしまった身体は、惚れぼれするほどでござりました。 「よろしゅうござるかな」  黄鶴は、一同に向かってそう言い、白龍に向かって近づいてゆきました。  いつの間にか、黄鶴の右手には、五本の長い針が握られておりました。  この間《かん》、白龍は、その黒い瞳を、凝《じ》っと貴妃様の方に向けておりました。  まず、黄鶴は、一本目の針を、すうっと白龍の臍《へそ》の下あたりへ潜り込ませてゆきました。  針の長さ、およそ五寸。  そのほとんどが、全て白龍の腹の中に入ってしまったのです。  次が、背中側の背骨と背骨の間——  次の針は、心の臓の真上あたり。  次の針が、喉《のど》。  いずれも、ほとんど痛みを感じていないのか、白龍の表情は変りません。  その間も、白龍は、ただ、貴妃様を見つめておりました。  貴妃様もまた、白龍を見つめておりました。  そして、最後の針が、頭の後ろでございました。  後ろの、頸《くび》の付け根あたりの髪の中へ、鋭い針が沈んでゆきます。  それが、沈み終えたと見えた時、ふいに、白龍の身体から力が抜け、床にその身体が崩れました。  黄鶴が、その身体を支えるようにして、床の上に寝かせました。 「お確かめ下さい」  黄鶴に言われるまま、玄宗皇帝と貴妃様は、白龍の鼻の上に手をかざしたり、心の臓のあたりに耳をあてたりしていましたが、やがて、立ちあがり—— 「息もしておらん。心の臓も止まっておる……」 「肌の温度までが冷たく——」  玄宗皇帝と貴妃様は、誰にともなくつぶやかれました。 「この針は、人の身体を尸解の状態にするもの、その前に飲む尸解丹は、尸解の状態にあるその身体を守るためのもの。この尸解丹なくば、人の身体、ひと月ともたずに、心の臓より遠い場所から、腐れてまいります。身体のどこかに傷でもあれば、そこからも腐れてゆきましょう」        (八)  先ほどとは、逆の順序で黄鶴が、針を抜いてゆきますと、息も止まり、心の臓の鼓動も止まっていた白龍の胸が、静かに上下し始めたではありませんか。  白龍が呼吸を始めたのでございます。  玄宗皇帝が、白龍の胸に耳をあてますと、 「おう、心の臓も動いておる」  顔に赤みが差し、ほどなく、白龍が閉じていた瞼《まぶた》を開いたではありませんか。 「奇跡だ……」  立ちあがった白龍を見、玄宗皇帝は、賛嘆《さんたん》の声をあげました。 「いかがでござりまするか?」  黄鶴が、低い声でつぶやきました。 「貴妃や、これならば——」  玄宗皇帝は、貴妃様を御覧になりましたが、しかし、貴妃様、いかに窮地《きゅうち》にあるにしても、すぐさま返事ができるものではございません。  その様子をうかがっていた黄鶴が、 「貴妃様には、まだ、お心をお決めあそばされるにはおよびませぬ……」  そのように言うではありませんか。  この頃には、白龍も、すでに再び服を着終え、元の場所に、丹龍と共に、静かに片膝を突いて、事のなりゆきを見守っております。  黄鶴は、貴妃様を見、 「何故なれば、まだ、話は全て済んだわけではないからでござりまする」  あろうことか、この私、安倍仲麻呂に、ぬめりと、視線を向けてきたではありませんか。  いよいよ、私が、何故この場へ呼ばれたのか、それを知らされる時が来たのでしょう。 「おう、そうであったな——」  玄宗皇帝がうなずかれました。 「ここで、問題になるのは、貴妃様をお助け申しあげたその後のことでござります」 「うむ」 「この安禄山の反乱が、きちんと平定されておればよし、問題はそうでない場合でござりますな」  黄鶴の言うことは、私にもわかりました。  何年後かに貴妃様をお助け申しあげた時、安禄山の軍が平定されておれば——  おそれながら、今回の反乱を起こした陳玄礼以下の責任ある者たちを処罰することになりましょう。それは、あまり、得策とは思えませぬが、御家族を目の前で殺された貴妃様が、陳玄礼たちを放っておくとも思えません。  陳玄礼たちに知らせずに、貴妃様をお助けし、陳玄礼たちを捕えてから、貴妃様を表に出さねばなりません。  そうでなければ、陳玄礼たちが、あらためて反旗を翻《ひるがえ》すことになりかねないからでございます。  しかし、それよりももっと問題になるのは、安禄山の乱が、平定されていなかった時でござります。  貴妃様、生きて、再び玄宗皇帝のもとにありと聴けば、陳玄礼たちは、心安んずることができずに、いずれは、安禄山の軍に加わることになりましょう。仮に、陳玄礼たちを処分することになれば、人心が玄宗皇帝から離れてゆくことになるでしょう。  もし、その時まで、玄宗皇帝が生きておられれば、それは、このおりに陳玄礼が能《よ》く働いたということに他ならないからであり、玄宗皇帝が、この後、蜀《しょく》まで落ちのびることができたとすれば、それは、陳玄礼の働きによるところが大きいということだからでございます。  そのような、陳玄礼を、処分しようとすれば、人民のみならず、皇帝陛下とり巻きの重臣たちの心までも離れてゆくことになりましょう。  これは、どうあっても避けねばなりません。  ということは、つまり、せっかく貴妃様をお助け申しあげても、それを、誰にも知らせることがかなわないということでござります。  人知れず、どこかの土地で生きていただくにしても、玄宗皇帝は会わずにはおられぬでしょうし、会えば、いずれは、貴妃様存命のことは知られるでしょう。そうなれば、唐の国は、内部から自ずと崩れていってしまうでしょう。  私が考えたことと、ほぼ同様のことを、黄鶴は低い声で説明し、 「では、いかがすればよいか——」  そう言って、私をまた見たのでございました。 「晁衡《ちょうこう》殿、ここで、あなたさまのお力が必要になってまいります」 「はて、どのような?」  私には、黄鶴が、何を考えているのか見当もつきませんでした。 「私でお役にたてることがあれば、どのようなことでもいたしますが、何をすればよろしいのでしょう?」  その時、黄鶴は、深ぶかと息を吸い込み、私を見、それから玄宗皇帝を見、さらに貴妃様に眼をやって、再び私のもとにその視線をもどしました。 「晁衡殿。あなたさまにしていただきたいことというのは、お助け申しあげた貴妃様を、あなたのお国である倭国《わこく》まで、無事にお連れすることでござりまする——」  吸った息の全部を使い、一語ずつ、聴きとれぬ言葉がないように、ゆっくりと黄鶴は言ったのでございました。  にもかかわらず、私、すぐにはその言葉の意味が飲み込めませんでした。 「倭国に……」 「はい。倭国の朝廷に、貴妃様をお預《あずか》りいただき、ほとぼりの醒《さ》めた頃、再び貴妃様を、唐におむかえ申しあげようというのが、この黄鶴の肚《はら》づもり……」  そこまで黄鶴が言ってから、ようやく私にも、何を言われているかがわかってまいりました。 「なんと——」  それにしても、なんということを、この黄鶴という人物は想いついたのでしょうか。 「貴妃様、倭国におられるということであれば、仮に、このことが陳玄礼に知れたとしても、なんとか、玄宗様、無事に乗りきれましょう——」  私は、口の中が乾いておりました。  何度か唾を飲み込もうとしたのですが、それができませんでした。 「も、もし、倭国に着いてから、唐よりの使者が参らぬ時は——」 「そのおりには、貴妃様に御不自由なことのないように、よろしく、面倒を見てやってはくれませぬか」  それを耳にした時、ぞくりと、怪《あや》しいときめきが、私を襲いました。  もし、  もし、乱がこのまま治まりが着かず、使者も来ぬ場合には、貴妃様の無聊《ぶりょう》をおなぐさめできる相手といえば、この私しかおらぬではございませぬか。        (九)  結局、黄鶴の申し出を、貴妃様は受けたのでございました。  たいへんなお覚悟であったと思われますが、何分にも、その時は、時間がございませんでした。  誰かに他言はできません。  おざなりにというわけにもいかず、ともかく、形ばかりにしろ、貴妃様を、どうやって亡きものにしたか、やってのけねばなりません。  その役に選ばれたのが、高力士様でございました。  まず、高力士様が、尸解丹を飲ませてから貴妃様を外へ連れ出し、裏庭の仏堂で、その首を締めて、形の上でいったん殺したことにいたします。  その後に、貴妃様のお身体に、あの針を刺して、貴妃様を仮死状態にしてから、陳玄礼に、屍体の検分をするよう、うながし、声をかけることになったのでございました。        (十)  ああ——  なんという、あやしい運命のもとに、私は生まれたことでしょう。  倭国の地に生まれ、若くして、何万里という波濤《はとう》を越え、海を渡り、大唐国の皇帝に仕え、国に帰らんとするもならず、ついにこの地にて齢《よわい》をまっとうして果つる身かと覚悟したのですが、いよいよの最後になって、再び祖国の土を踏むことができるやもしれぬことになったのでございます。  しかも、大唐国の秘事中の秘事、楊貴妃様を、彼《か》の秋津島《あきつしま》までお連れ申しあげるという役目を、私は担《にな》うことになったのでございます。  その秘儀に立ち合うことができたのは、楊貴妃様御本人と、そして玄宗皇帝、高力士様、黄鶴、その弟子の白龍、丹龍、そして、私の七名のみでございました。  これ以外の人間の誰ひとりとして、この秘儀のことを知る者はございません。  李大兄、もしあなたが倭国の言葉を読むことができるなら、あなたが八人目の人間となることになります。  正直に申しあげましょう。  あの、貴妃様の、眩《まぶ》しい白い肌に、光る鋼《はがね》の鋭い針が刺し込まれるのを見て、やがて六十歳になんなんとする身でありながら、私は、ひそかに欲情しさえしたのでございます。  尸解となられた貴妃様に服を着せ、準備がすっかり整いましたところで、 「貴妃様が、亡くなられた」  高力士様は、高い声で叫びながら、次の間へ入ってゆかれました。 「このわたしが、貴妃様のお首を、縊殺《くびり》申しあげた——」  手に持った、絹の布を打ち振りながら、両眼から激しく涙を噴《ふ》きこぼしながら、高力士様はそう叫んだのでござります。  しかし、陳玄礼らは、それでも包囲を解きません。  そのおり、南方地方からたまたま届いた茘枝《れいし》を、貴妃様の仮の遺体に添《そ》え、それを寝台に乗せ、その上を刺繍した夜具で覆い、駅庭の中央に置いて、玄宗皇帝は、それを陳玄礼等に検分させたのでございました。  貴妃様の仮の遺体は、石の棺に入れられ、馬嵬駅より西方へ半里ほど進んだところにある、道の北側の丘の地中に、埋められたのでございました。  ひとまず、このようにして、貴妃様は葬られ、我々は、蜀の地に落ちのびることができたのでございました。  陳玄礼以下、反乱を起こした将士たちには、お咎《とが》めなし——  それが、玄宗皇帝のお裁《さば》きでござりました。        (十一)  貴妃様を掘り出す機会は、なかなかにございませんでした。  蜀へ逃れてゆく途中で、玄宗皇帝は、皇太子に皇帝の位を譲りました。  玄宗皇帝の第三子の李亨《りこう》様が、こうして粛宗《しゅくそう》皇帝となり、玄宗様は、上皇とおなりになったのでございます。  粛宗様は、北西の霊武《れいぶ》で即位され、回紘《かいこう》など、胡人《こじん》を含む城外諸族の援兵を集め、翌年には、長安、洛陽を回復したのでございます。  賊軍《ぞくぐん》の長であった、安禄山はと言えば、その前に、息子の安慶緒《あんけいちょ》に暗殺されてしまっておりました。  この安禄山もまた、はかない泡《うたかた》のごとき身でございます。  長安を手にしたおり、すでに安禄山は、眼が見えず、失明寸前であった由。身体は、いくつもの病魔に侵されており、性格は狂暴となって、手がつけられぬ有様であったと聴き及んでおります。  疽《そ》を病んでいたという噂でございましたから、身体の一部は腐れかけていたのでありましょうか。  安禄山は、若い段《だん》夫人の生んだ、安慶恩《あんけいおん》を太子にしようとして、息子の慶緒に憎まれ、それで殺されてしまったのです。  粛宗皇帝が、考えたよりも早く国都を取りもどすことができたというのも、安禄山側に、そのような事情があったからでござります。  さて、玄宗上皇が、長安にもどられたのは、長安を落ちたその翌年、至徳《しとく》二年のことでございました。  玄宗上皇のお心にかかっていたのは、ずっと、貴妃様のことでございました。  本来であれば、すぐにも、貴妃様の墓地を掘って、貴妃様を救い出したいところなのでございますが、当初、我々が考えていたことと、いくつか事情が変化していることがございました。  そのうちのひとつは、玄宗皇帝が上皇となられ、李亨様が、粛宗皇帝となられたことでございます。  当然ながら、粛宗皇帝は、貴妃様が、まだ、あの、地中に埋められた石棺の中で、生きておられることを御存知ありません。  貴妃様が、生きておられ、これを掘り出すということを、粛宗皇帝が快《こころよ》く思うわけもございません。  せっかく、都に治安がもどろうとしているのに、貴妃様が生きておいでとなれば、また、唐が乱れてしまいます。  陳玄礼も、おとなしくしているとも思えません。  もうひとつには、まだ、安禄山の息子の安慶緒が、生きていたからでござります。  李大兄も御存知の通り、父である安禄山を暗殺した安慶緒も、その三年後には、安禄山の副将であった史思明《ししめい》に殺されてしまうのですが、玄宗上皇が長安にもどられたこの時期には、まだ生きていたのです。  貴妃様の報復《ほうふく》を怖れ、陳玄礼が蜂起《ほうき》すれば、大唐国も、再びどうなるかはわかりません。  さらに申しあげておけば、史思明は、大燕《だいえん》皇帝を称していたのですが、三年目には息子の史朝義《しちょうぎ》に殺されて、帝位を奪われております。  ともあれ、国の内外は乱れ、大唐国そのものも、まだどうなるかわからぬ時期でございました。  玄宗上皇より、粛宗皇帝の方が、現在、力を持っており、粛宗皇帝の意にさからってまで、貴妃様を掘り出すことは、できないことでございます。  そのことを、粛宗皇帝が知れば、貴妃様を死んだことにし、埋めたままにしておくようにと言うに違いありません。  方法があるとすれば、誰にもわからぬように、貴妃様を掘り出し、これまた、誰にもわからぬように、私が倭国までお連れ申しあげることでしょう。  しかし、誰にも知られぬよう、そのようなことができましょうか。  それは、日を追って、難しくなってゆくばかりでございました。  貴妃様の墓所には、常に、数人の墓守りが詰めておりますし、人知れず掘り出すことができたとしても、その土の表面から、土を掘り出した跡までを消すことはできません。墓守りたちが、土の表面に、掘られた跡を発見すれば、それをいぶかしく思い、あらためて石棺を掘り起こすことでしょう。  そのおり——その石棺の中に、貴妃様のお身体がなければすぐにわかってしまうでしょうし、そうなれば、まず第一に疑われるのは、玄宗上皇でございます。  これは、よほどうまく立ちまわらねば、その裏に、玄宗上皇がおられること、わかってしまいます。  密《ひそ》かに、誰にもわからぬよう、貴妃様の棺を掘り出してことを運ぶには、高力士様のお力がどうしても必要になってくるのでございますが、この時、高力士様、馬嵬駅の頃に比べ、お気持ちに変化があったようでございました。  どうやら、高力士様、貴妃さまを掘り出して、この世に甦《よみがえ》らせること、心の中で反対されているようでござりました。  黄鶴は、高力士様の意見に関係なく、貴妃様の石棺を掘り出してしまうこともできると玄宗上皇に申しあげていたのですが、玄宗上皇は、 �高力士に内緒でことを運ぶわけにはゆかぬ——�  と、堅く決意されているご様子でした。  あたらしく、倭国まで渡る船の用意もしなければなりません。  ある晩、私は、玄宗上皇に呼ばれ、宮中にある玄宗上皇のお屋敷に、密かにうかがいました。  私がゆくと、すでに、そこには、あの、馬嵬駅での顔ぶれが、みんな揃っておりました。  玄宗上皇。  高力士。  黄鶴。  白龍。  丹龍。  そして、私、安倍仲麻呂でございました。  人|払《ばら》いをして、話はすみやかに始まりました。  そろそろ、貴妃を掘り出す時期が来たのではないか——  玄宗上皇は、皺《しわ》の深くなった顔で、そう申されました。  燭《しょく》の灯りが、玄宗上皇のお顔に揺れるのを見ながら、そのお声を聴くと、もはや、上皇には、かつてこの大唐国を繁栄に導いた頃の面影はございませんでした。  我がことのみに心を奪われたひとりの老人が、私の前にはいたのでございます。 「いつ、掘り出すか、今夜はその相談をしたいのだ」  と、上皇は申されました。 「どうだ、黄鶴、明日の晩にでもできるか——」 「命ぜられれば——」  黄鶴は、そう言って、頭を下げました。 「おう、ならば——」  上皇がそう言いかけたところへ、 「おはやまりになりませぬよう——」  そう言ったのは、高力士様でございました。 「はやまるとな?」 「はい」  高力士様は、深ぶかと頭《こうべ》をお下げになり、 「まだ、その時期ではございませぬ」  そう言って、私が、先に記したようなことを、訥々《とつとつ》と、上皇に申されたのでございます。 「ならば、いつだ。いつならばよいと、そちは言うのか?」 「まだ、何とも申せません」 「言えぬとな」 「いつとは言えませぬが、今が、その時期ではないという、それはわかります。上皇様、御短慮《ごたんりょ》あそばされますな」  言われて、上皇は、私に視線を向けました。 「どうだ、晁衡。そちはどうじゃ。そちはどのように考えておる」 「おそれながら——」  と、私は、頭を下げてから、申しあげました。 「上皇様のお心は、痛いほどにお察し申しあげまするが、また、高力士様の言われることにも、うなずけるものがあるように思われます」 「いったい、どっちなのだ」  玄宗上皇は、声を高くして、恨めしい眼で私を睨みました。 「仮に、貴妃様を、誰にも知られずに掘り出し、誰にも知られずにどこかへお隠しし、誰にも知られぬよう、倭国へお連れ申しあげる方法がござりますれば、今、貴妃様を地中よりお救い申しあげるというのは、ありうることではないかと思われます」  私は言いました。 「あるのか、そのような方法が!?」  上皇はお叫びになり、頭に両手をあてて、 「あるのなら申せ。わしは、一刻も早く、貴妃を、あの土中から出してやりたいのじゃ。あの土中に、貴妃が埋められたままになっていると思うと、気が狂いそうになる——」 「その方法については、はっきり申しあげられるものは、今の私にはございませんが、可能性があるものとしては、いくつか——」 「あると申すか!?」 「はい……」  私は、深ぶかと頭を下げて、うなずきました。 「どのような方法だ!?」 「おそれながら、それを申しあげる前に、確かめておきたきことがござりますれば、それを上皇様にうかがって、よろしうござりまするか?」 「なんなりと申せ——」 「貴妃様を、無事、地中より掘り出し申しあげた後、上皇様は、いかがあそばされるおつもりでござりましょうや——」  意を決して、私は申しあげました。 「なんとな!?」 「貴妃様生き返られた後、昔通りに、一緒にお暮らしなさりますのか?」 「…………」 「お気が変わられていて、人知れず、貴妃様を匿《かくま》い、逢瀬を重ねるおつもりでしょうか。あるいは、かねてよりの計画通りに、貴妃様を、倭国まで私がお連れ申しあげるということでありましょうか——」 「——」 「もし、たとえ、内緒にしろ、貴妃様と逢瀬を重ねていれば、いずれは、事は露顕《ろけん》いたしましょう。そのおりに、どのようにするおつもりか、お覚悟があるのでござりましょうか。いずれにいたしましても、掘り出した後、貴妃様をどうするのか、それを、ここでお決めいただかなければなりません。もし、匿うつもりなら、それなりの準備が、掘り出す前に必要となりましょう。倭国へお連れ申しあげる場合も、それは同じでござりまする」 「——」 「私は、上皇様に、どうせよと言っているのではござりませぬ。どうするかをお決め下されませと、申しあげているのでござります。いつ掘り出すにしろ、それなりの準備をしてからでなければなりませぬ」  むう——  と、上皇様は、太い溜め息をおつきになり、 「まず、そちが申せ。どうするかは、それを聴いてから決めようではないか——」  そう申されました。  私は、覚悟を決め、口の中に湧いてきた唾を何度も呑み込んでから、上皇様に申しあげました。 「秘密裡《ひみつり》に、ことを運ぼうとすることが、そもそも話を難しくしているように、私には思われます」 「なんとな——」 「いっそ、公の行事として、衆目の見守る中で、ことを運べばよろしいのです」 「ほほう!?」 「まず、上皇様におかれましては、粛宗様に、貴妃様の墓所を、別の場所にお移し申しあげる旨、お話し下されませ——」 「なんと——」 「もともと、馬嵬駅《ばかいえき》が貴妃様の墓所となったのは、たまたまあそこで、反乱があったればこそのこと。墓所にしても、言うなれば、あれはまにあわせでござります。あらためて、貴妃様の葬儀の儀、きちんと取り行ない、別の、もっと貴妃様に相応《ふさわ》しい、立派な墓所をお造り申しあげ、そこへ貴妃様の御遺体をお移し申しあげるのであれば、どこからも文句の出る筋あいのものではござりませぬ——」 「むう——」 「その、貴妃様の御遺体を移すおりに、石棺から、貴妃様をお出しして、別の、ほどよき遺体と掏《す》り替えてしまえばよろしいのです」 「——」 「いかがでござりまするか」 「しかし、問題がある。いつ、どのようにして、遺体を掏り替えるのじゃ——」 「まず、貴妃様の入った石棺を掘り出したおりに、棺を開けずに、そのまま、近くに用意させた、天幕《てんまく》の中にお運び申しあげなされませ——」 「それで?」 「そこで、おひとばらいを——」 「いかような理由で?」 「貴妃様の遺体と、対面したいと、上皇様が申せばよいのです。遺体は、すでに腐乱が進んでおりましょうから、そういう遺体を他の者には見せとうないと——」 「むむう」 「それで、高力士様、黄鶴、わずかの人数のみがいる場所で、棺を開き、遺体を掏り替え、その遺体を、貴妃様として、別の場所へ葬《ほうむ》りあそばされればよろしいのです」 「むむ、むむむう……」  上皇の声が、興奮しているのが、私には手に取るようにわかりました。 「新しい墓の場所は?」 「華清宮のある、驪山《りざん》の辺《ほと》りがふさわしかろうと——」 「上出来じゃ!!」  歓喜の声を、上皇様はおあげになられました。  そのような会話があって、表むきは墓所をお移しするということで、貴妃様をお救いするということになってしまったのでございました。        (十二)  乾元元年の、牡丹《ぼたん》の頃でございました。  貴妃様の墓所の周囲には、牡丹の花が咲き乱れ、細い枝もたわわに紅い色をふくらませた紅玉《こうぎょく》、純白の白王《はくおう》、紫雲《しうん》、彩風《さいふう》——様々な色の牡丹が、とりどりに、風に花びらを揺らしておりました。  玄宗上皇は、木陰に設けられた御椅子に座し、その左右に、高力士様、黄鶴、白龍、丹龍、そして私が並んでいます。  さらに、三十人余りの兵や、宦官《かんがん》や、侍従の者たちもそこにはおりました。  貴妃様が、ここに埋められてから、すでに二年近い月日が流れておりました。  すでに、墓所の上には、手に鍬《くわ》を持った男たちが四人、上皇の合図を待つばかりでございました。  玄宗上皇が立ちあがり、鍬を入れよ、と言いかける寸前、 「あ、いや、しばらく——」  声をかけて、それを押しとどめたのは、かの道士、黄鶴でござりました。  玄宗上皇は、怪訝《けげん》そうな面《おも》もちで、 「どうしたのじゃ」  そう申されました。 「しばらく、しばらく……」  黄鶴はそう言って歩み出て来ると、墓所の土の上に立って、思案気な顔で足元の土を睨《にら》み、ほどなく、玄宗上皇に顔を向けて、 「こたびの、貴妃様の石棺をこの土中より掘り出すお役目、この私と、白龍、丹龍の三名にお申しつけ下さりませ」  黄鶴はそう言ったのでございました。  その日の予定にはなかった言葉でございます。  予定では、何人かの兵に棺を掘り出させ、向こうに設けられた天幕の中にそれを運ばせ、その上で、我等のみが天幕の中に入り、すでにそこに用意してある女の屍体と貴妃様とを取り替えて、ひそかに、宮中に運び込むつもりであったのです。  それが、どうして——  黄鶴のことでござりまするから、本日の予定を失念しているわけもなく、わざわざ自分たちで掘り出したいと申すからには、何やら仔細があるのに違いございません。  同様の想いを、玄宗上皇も抱《いだ》かれたらしく、 「かまわぬ。なれば、そちら三人がせよ」  そう申されたことでござりました。  四人の男たちに代って、老道士の黄鶴、白龍、丹龍が鍬を持ち、 「始めよ」  という、玄宗上皇の声と共に、まず黄鶴が鍬を振りあげ、それを、ざっくりと土中に打ち降ろしました。  と——  打ち降ろされた、その鍬の刃と柄《え》に、土中より、何匹もの黒い蛇がふいに鎌首をもたげ、からみついたと見えたは、私の眼の錯覚でござりましたでしょうか。  黄鶴が、刃先で土を掻き、そこをひと鍬分掘り返した時には、しかしもう、その黒い蛇と見えたものは消えておりました。  続いて、白龍、丹龍が鍬を入れはじめました。  今しがたのことが、嘘のように、何ごともなかった風で、三人は黙々と土を掘り始めました。  しかし、今、まぎれもなく、黒い蛇が、鍬の柄にからみついたと見えたは、錯覚とは思えません。  まさか——  もしかしたら、今、私が眼にしたもののあることを、黄鶴が予想していたということでござりましょうか。  だからこそ、掘り手を代ると言いだしたのでしょうか。  もとより、それを、この場で訊ねるわけにもゆきません。  三人の男たちは、無言で土を掘り続け、やがて、  かつん、  と、白龍が打ち降ろした鍬の刃が、土中の堅いものにぶつかる音がいたしました。  その時には、もう、玄宗上皇は、いても立ってもいられない御様子で、御椅子から立ちあがり、掘っている穴の縁まで歩み寄っておりました。 「おう……」  果たして、それは、石棺でありました。  石棺の周囲の土を、穴を広げながらくつろげると、すっかり、石棺がそこに姿を現わしました。  およそ十人掛りで、その石棺を穴から取り出し、天幕の中に運び入れたのでござりました。        (十三)  すでに、人払いは済んでおります。  あの日と、同じでござりました。  馬嵬駅の駅舎の中の一室で、集まった顔ぶれが、全てその天幕の中に集まっておりました。  貴妃様も、石棺の中とはいえ、この場にいるのでござります。 「黄鶴道士……」  と、私は思わず声をかけておりました。  すでに、他の兵士や侍従たちは遠くへやって、この天幕を囲むように背を向けさせております。  小声であれば、まず、聴かれる心配はございません。 「あなたが最初に鍬を打ち下ろしたおり、土中より、何やら太い蛇のようなものが這い出てきて、鍬の刃や柄にからみつくと見えましたが——」 「ほう、あれが見えもうしたか——」  と、黄鶴は申します。 「おう、それならば、わしには、人の手が土中より出てきて、柄を握ったと見えたが……」  玄宗上皇が言いました。 「やはり……」 「やはりとは?」 「我等が、掘り起こす作業を代ってようござりました」 「なに!?」 「もし、あのまま、兵士たちに掘らせていたら、最初のひと鍬で、逃げ出したことでござりましょう」 「なんと?」 「貴妃様の墓所を中心にして、大地の気が、いちじるしく歪んでおりました。あのまま掘れば、何かあると判断をして、我等に掘らせていただいたのですが、やはり、それでよかったようですな——」 「いったい、何があった?」 「さあて——」  黄鶴は、そう言って、横手の石棺を見やったのでござりました。  黄鶴の話では、墓所の地に、異形《いぎょう》の気が宿っていて、その気が、鍬を入れた途端に、その鍬にまとわりついてきたというのです。それが、見る者によって、腕と見えたり、蛇と見えたりするのだと——  掘っている間中、黄鶴や白龍、丹龍には、色々の凶《まが》まがしいものの姿が、土の中に見えていたというのでございます。 「貴妃の身に何か?」  玄宗上皇の顔に、色濃い不安が立ち昇っておりました。 「白龍、丹龍——」  黄鶴が、短い声で名を口にすると、ふたりは、幕の透き間から、周囲をうかがい、すぐにもどってまいりました。 「だいじょうぶのようでござります」  ふたりが、黄鶴に告げました。 「では、玄宗様、棺の蓋《ふた》を開けまするぞ——」  黄鶴、白龍、丹龍の三名が、石棺の蓋を、ゆっくりと横へずらせてゆきました。  じわじわと、棺の中の光景が、露《あらわ》になってゆきました。  玄宗上皇は、気を弱くされたように眼を閉じかけたのですが、意を決したように身を乗り出し、開いてゆく縁の間から、中を覗き込んだのでござりました。  我々全員も、ほぼ同時に、その棺の中を見ることとなりました。 「お……」  玄宗上皇は、声を呑み込みました。  そこに……  貴妃様は、いらっしゃいました。  確かに貴妃様はいらっしゃったのでございます。  しかし、何という変りようであったことでしょう。  髪が、全て、白くなり、あの白くてふくよかであった肌は、木乃伊《みいら》のように、茶色く、かさかさに乾き、縮んで、紙のようになっておりました。  しかも、何という痩せ方でござりましょうか。  頭の——髑髏《しゃれこうべ》のかたちが、それとはっきり見てとれるほど肉がおち、乾いた肌ばかりが、薄い紙のように、骨の上に張りついているだけでござりました。  眼を、大きく見開き、我々を見上げておりましたが、生きているのか、死んでおられるのか——  それにいたしましても、なんという凄まじいお貌《かお》であったことでしょう。  顔全体が恐怖で醜《みにく》く歪み、唇はめくれあがって、歯が剥《む》き出しになっておりました。  石棺の中で、貴妃様が、お出しになられたのか、乾いた糞尿の臭いまでもがこもっておりました。  誰の眼も、張りつきましたように、貴妃様のそのお姿から、しばらくそらすことができませんでした。 「おう……」 「おう……」  玄宗上皇が、掠《かす》れた声を、低く、低く、あげておられます。 「貴妃よ、貴妃よ、なんという……」  そして、玄宗皇帝は、その顔をそむけられたのでございました。 「なんということだ……」  黄鶴も、信じられぬといった面もちで、貴妃様の姿を見降ろしておりました。  ちょうど、胸の上に、貴妃様の手が乗っておいででござりました。  その両手の指先を見た時、私は、危《あや》うくその場へ、吐きそうになってしまったのでござりました。  貴妃様のその指先には、どれにも、一枚の爪も、まともには生えていなかったので、ございます。  指先は、血まみれでござりました。  その指先に、めくれあがり、裂けた爪がこびりついております。  血だらけの指先——  血こそ乾いておりましたが、指先の形状は、どれもまともではござりませんでした。  両の人差し指は、肉が削れ、骨までがのぞいておりました。  ちょうど、棺の蓋は、横へずらされて、棺の横の地面に置かれていたのですが、棺の内側だった部分が、上を向いておりました。  そこに眼をやった時、またもや私は、吐きそうになりました。  なんと、その、蓋の内側の表面に、無数の血の筋が走っているのを見たからでござりました。  そこには、爪の一部や、乾いた肉の一部と見えるものが、乾いた血と共にこびりついていたではありませんか。  何がおこったのか、わたしは理解しておりました。  貴妃様は、この棺の中で、眼覚めてしまわれたのでござります。  眼覚め、すぐに、自分が、どういう状況にあるか、御理解なされたのでござりましょう。  恐怖に、叫び、声をあげ、なんとか、地中のこの棺から脱出しようと、石蓋に、内側から爪を立てたのでござりましょう。その、華奢《きゃしゃ》な指先で、石の表面を掻き毟《むし》ったのでござりましょう。 「どういうことだ……」  黄鶴が、茫然としてつぶやきました。 「生きておいでです」  その時、言ったのは、丹龍でありましたでしょうか、白龍でありましたでしょうか。  一同がはっとなって、棺の中を見降ろすと、 「指が……」  これは、丹龍が申しました。  胸の上の手に、あらためて視線を向けますと、貴妃さまの、左の人差し指の指先が、ぴくりと、微《かす》かに動いたではありませんか。 「おう……」  信じられないことに、貴妃様は、生きておいでだったのでございます。  そして、その時、貴妃様の眼が、動いたのでござりました。  その眼は、何かをさぐるように、右へ、左へ、そして、皆を見回すように、ゆっくりと動いたのでありました。 「おう、玉環《ぎょくかん》や、玉環や、このわたしがわかるかえ、わかるかえ……」  玄宗上皇が、貴妃様のお手をお取りになりましたが、貴妃様の表情には、変化はございませんでした。  歯をむいた口をそのままに、ただ、眼だけを、宙にさまよわせているのでござります。  その眼が、誰か知った顔を捕えているとは思えませんでした。  貴妃様の手を握りながら、 「やめじゃ。もう、何もかもやめじゃ……」  上皇様が、つぶやかれました。 「貴妃を、ここより出せ。出して、余の宮殿へ、一刻も早く……」  そう言いました。 「新しい墓などは、もう、どうでもよい。貴妃を出し、この棺を埋めもどせい。そして、二度と、何人も、この棺を掘り出せぬようにせよ……」  上皇様は、つぶやき続けておられました。 「玄宗は、貴妃の変り果てた遺骸《いがい》を見、どのような、儀式をする意欲も失せたと、皆には伝えい。貴妃の墓は、ここじゃ。このままじゃ——」  幕の内には、この度の式に使う、さまざまな、法具や、台、それ等を入れる箱などが用意されておりました。そういう箱のひとつに、石棺の中から出された、貴妃様の身体が隠されました。  石棺には、再び、蓋がかけられ、それは、埋めもどされました。  その埋めもどすおりに、黄鶴が、さまざまな呪《しゅ》をその地に施して、簡単には、棺が掘り出せぬようにいたしました。  それから、都へもどるまでの玄宗上皇様は、まるで、生ける屍《しかばね》でございました。  どのような気力も、言葉すらも、その口からは出てまいりませんでした。  高力士様と、そして、道士の黄鶴だけが、むっつりと黙りこくったまま、無言でござりました。  黄鶴も、高力士様も、長安へ着くまで、ほとんど馬上で、声を発しなかったのでござります。  黄鶴にとっては、あれほど自信をもって臨んだ、尸解《しかい》の術が、どうして効かなかったのか、それを、考え続けていたのでござりましょう。  都へもどり、玄宗上皇に、気力がもどられた時には、どのような沙汰が、黄鶴に待っているか——  それについて、黄鶴は考えているようでもござりました。  私自身は、これで、貴妃様を、倭国へお連れする仕事が、遥か彼方に遠のいてしまったと、そんなことを考えていたのでござりました。        (十四)  我々が、再び、玄宗上皇のもとに集まったのは、ふた月後のことでございました。  場所は、驪山《りざん》の華清《かせい》宮でございます。  誰も、他の者は寄れぬように手配をし、信用のおける者たちばかりでやってきたのですが、もちろん、何のために集まったのか、それを知っているのは、我々のみであり、ひそかに、黄鶴たちが、馬車で貴妃様をこの地までお連れ申しあげていることも、他の者は知りません。  池のほとりの離れでございました。  外からは見えぬように、窓という窓は全て閉じられ、声すらも小さくひそめて、我々は玄宗上皇に御挨拶を申しあげました。  周囲の樹々の緑はうるわしく、鳥の囀《さえず》りも聴こえてくるのですが、玄宗様のお顔は、死びとのような、石の色をしておられました。  玄宗上皇。  高力士様。  黄鶴。  白龍。  丹龍。  私。  そして、楊貴妃様は、玄宗上皇のお座りになっている椅子の隣に用意された、螺鈿《らでん》の椅子に、魂を失われた者のように座っておいででした。  今は、さすがにあの時のお姿のままではなく、以前に近いお身体にもどっておいででしたが、それでもかつてのみずみずしい白い肌は、もうそこにはございません。  肌は乾いてかさついており、白くなった髪も、もとにはもどっておりません。  十歳近くも老け込んでしまわれたようであり、そして何よりもそのお心が貴妃様のお身体を離れ、どこかへ行ってしまったもののようでございました。  眼は、あらぬ彼方《かなた》を眺め、おめしになられているものが、かつてのように、美しい絹のおめしものであることが、かえって、貴妃様を傷々《いたいた》しく見せておりました。  貴妃様は、時おり、誰かがお声をかければ、小さく声をあげてうなずかれる時もございましたが、ほとんどの時間を、声を発せずにおし黙っているのみでございます。  貴妃様が、棺《かん》の中から助け出された時の臭い——  棺の中で垂れ流しとなった糞尿の濃い臭いを、私は、一生、忘れることはないでしょう。  以前の、お美しい姿や立ち居振るまいを知っている者には、とても正視できる状態ではございませんでした。  その臭いを、忘れさせようとでもいうように、貴妃様のお身体には、香《こう》の匂いが|※[#「火+(麈−鹿)」、第3水準1-87-40]《た》き込められておりますが、それとても、記憶の中に残っているあの臭いを消すほどではなく、かえって、その時の臭いを想い出させてしまうのでした。 「どうじゃ……」  玄宗上皇は、力ない声で、誰にともなく言われました。  高力士様が、おまえのことだと言うように、黄鶴を見やりました。 「はい——」  黄鶴は、頭を下げてうなずき、 「貴妃様におかれましては、ようやくお心おちつかれました御様子ですが、未だ、魂魄お身体にもどられておられない様子でございます——」  顔を伏せたまま、そう言いました。 「おまえ、あの時、このわしに何と言った。大丈夫と言ったではないか。うまくゆくと申したではないか……」  玄宗上皇は、黄鶴を、恨むような眼つきで睨み、 「なんとか、貴妃の魂魄をもどすてだてはないのか——」 「玄宗上皇様……」  低い声で、黄鶴は、低い声で言い、 「そのお話の前に、ひとつお話し申しあげたきことがござりまするが、それを申しあげてよろしうござりまするか——」  深ぶかと頭を下げました。 「何!?」 「ぜひ」 「許すから、申してみよ」 「はい。そもそも、わたしが貴妃様に施した尸解《しかい》の術にてござりまするが——」 「何だ?」 「誰《たれ》か、わたしの術を、邪魔した者がいるということです」 「何とな!?」 「あれは、そもそも、あのようなかたちでしくじることは、めったにあることではござりませぬ……」 「というと?」 「しくじりましても、途中で眼覚めるよりは、眼覚めることなく、朽ち果つるということになる場合がほとんどでありますれば——」 「つまり、誰かが邪魔をしたと?」  玄宗上皇様が、かっ、と大きく眼を開いて黄鶴を見つめました。 「そう申しあげております」  黄鶴が、上眼遣いに、視線を上皇様に残しながら、顔を伏せました。 「尸解丹《しかいたん》を、別のものに掏《す》り替えられたか、あるいは、貴妃様に刺し込んだ針を、誰かが、浅く抜いていたか……」 「くむむう……」 「尸解丹を、別のものに掏り替えるは、あの場の誰もできることではござりませぬ。つまり、できたのは、わたしめの刺した針を、いじることだけでござります」 「誰じゃ。いったい誰がそのようなことを——」  上皇様の声が大きくなりました。 「あの時、それをやったとすれば、ここにいる誰かということになりましょうな。もし、あの後で、土を掘り返し、針の深さをかえた者があるにしても、それは、この中にいる誰かか、あるいは、その誰かよりこの話を知らされた者ということでござります。我らより他に、このことを知る者が、他に、この世にいない以上は——」  怯《おび》えたように、上皇様は、我々のひとりずつに、視線を放ちました。  しかし、すぐに、その怯えは怒りにとってかわり、 「誰じゃ、誰がやった!?」  上皇様は、激しく叫んだのでございました。  私には、まったく身に覚えのないことではありましたが、上皇様の視線が、私の顔に、しばしとどまった時には、生きた心地がいたしませんでした。 「お気をお静め下されませ……」  そう言ったのは、高力士様でござりました。  さすがに、高力士様の声は、このような場合にも落ち着いております。 「事を急がれまするな。このこと、たやすく決められることではござりませぬ」 「なに!?」 「まず、今度のことについては、黄鶴が申しましたように、黄鶴の失敗であったやもしれぬ可能性が、まだ、充分に残っているということがひとつ——」 「むむ」 「今ひとつは、己れの失敗を知りながら、それを隠すために、黄鶴が虚言《きょげん》を言うておるやもしれぬことでござります」  高力士様が言い終えた時、 「ほほう」  黄鶴が、声をあげました。 「高力士様におかれましては、このわたしが、失敗を隠すために、虚言を申していると言わるるか」 「言うたと申しているわけではありませぬ。そのようなこと、あるやもしれぬと言うたまで——」 「わたしには、虚言を言うたと聴こえ申したがの?」 「それを言うなら、そなたが先に、我らを疑うてきたわけではありませぬか。なるほど、あの場で、誰が貴妃様の針の深さを変えることができたかと言えば、我々全員が、それをできたということではありませぬか。しかし、玄宗様が、それをされるはずもなく、それを言い出した黄鶴本人や、白龍、丹龍がやったということもまた、あるわけはなかろうと考えるのが人情——」 「——」 「すると、この私か、はたまた晁衡《ちょうこう》殿か、ふたりのうちどちらかがやったのではないかと、矛先《ほこさき》が向けられることとなります。ここにいる方々は、むろん承知と思われますが、わたしなどは、貴妃様を、陳玄礼に差し出されよと、あの時、玄宗様に申しあげた身でござりますれば、まず、一番に疑われることでござりましょう」 「むう……」  と、玄宗様は、高力士様を見、喉の奥で、言葉を噛み殺しました。  堅い、石のような沈黙が、その場を支配いたしました。  御自分のことが話題になっていると、知ってか、知らずか、貴妃様は静かにあらぬ彼方を見つめたまま、ふくよかな唇を閉じているばかりでござりました。  と、その時——  部屋の外から、男の声が響いてまいりました。 「玄宗様、玄宗様……」  外に、人払いのために立たせておいた、兵士のひとりでござりました。 「何用じゃ」 「はい。ただ今、外に、青龍寺《せいりゅうじ》より、不空《ふくう》様がお見えでござりますれば——」  部屋の外から兵士が言いました。 「何、不空だと?」 「ぜひとも、上皇様にお眼にかかって、お話し申しあげたきことのあれば、お眼通りをお許し下されたく、と申しておりまするが」 「用件は?」 「そう訊ねたのですが、不空様は、上皇様に直接申しあげると——」 「今は、忙しい。帰れと申せ——」 「はっ」  その兵士の足音が遠ざかってゆきました。 「しかし、どうして、この場所が——」  と、上皇様は、つぶやかれました。 「お忍びではござりまするが、特別、誰にも言うなと申し伝えてきたわけではありませぬ故、不空様くらいの方になれば、御自分で、このこと、知ることはできましょう」  ううむ、と、玄宗様が声を洩らされた時、また、先ほどの兵士が部屋の外までやってくる気配がございました。 「不空様、どうしても玄宗様にお眼にかかりたいと、申しております。会えぬと言われたら、尸解仙の話などゆるりとお話し申しあげたければ、ぜひお仲間に加えていただきたくと、そうお伝え申しあげてくれと言われましたが——」  玄宗様、はっとなって、宙を睨みました。  尸解仙、ということは、不空様が、我らがここで何を話しているか、知っておられるということでございます。  むろん、それを伝えに来た兵士も、貴妃様のことは知らぬはずでござりますから、貴妃様の名を出さずに、わざわざ尸解仙などという遠まわしな言い方をしたのは、この兵士に何も知らさぬよう、不空和尚が気を遣われたということでござりましょう。  ということは—— 「知っておるのか、不空——」  思わず、玄宗様は、声に出しておりました。 「は?」  と兵士が外でとまどいの声をあげました時、 「そうまで申されるのであれば、よろしいのではござりませぬか」  高力士様が申されました。  玄宗様が、黄鶴を見やると、黄鶴が、顎《あご》を引いてうなずきました。 「よ、よし。ここへお通し申しあげい」 「承知いたしました」  兵士の足音が遠ざかり、しばらくすると、ゆっくり、人の気配が、むこうから近づいてくるのがわかりました。  やがて、その気配が、扉のむこうで立ち止まり、 「不空様、これに、お連れ申しあげました」  兵士が言いました。 「玄宗様、お久しう。不空にてござりまする……」  私も知っている、柔らかみのある声が響いてまいりました。 「入るがよい」  玄宗上皇が言われると、ゆっくり扉が内側に開き、僧衣の不空様が、入ってこられました。  そして——  不空様の横には、まだ、十三〜四歳かと思える子供の僧が、利発らしい顔を上にあげて、静かにそこに立っておりました。  不空様の背後で扉が閉まり、去ってゆく兵士の足音が、ゆっくりと、遠くなってゆきました。 「不空——」 「御無沙汰でござります」  不空様が、静かに頭をお下げになりました。        (十五)  李大兄。  あなたが、まだ長安におられたおり、不空和尚とは、一度か二度、お会いになっていたのではありませんか。  大兄が、長安に入られて、私と知己《ちき》の間となったのは、天宝元年のおりのことであったと記憶しております。  その翌年の天宝二年の春に、例の宴《うたげ》が催されました。貴兄が、あの「清平調詞《せいへいちょうし》」を、皇帝の前でさらさらと作詞をして、李亀年《りきねん》が唄い、貴妃様が舞ったあの日の宴のことは、今もあでやかに、心の裡《うち》に蘇《よみがえ》ってまいります。  思えばそのおりに、貴兄は、高力士様とうまくゆかぬ因をお造りになってしまったわけですが、あの宴の席に、不空様もおいでになっておられたと思います。  あのおり、私が四十三歳。貴兄も四十三歳。不空様は、三十九歳という若さでございます。  貴妃様は、二十五歳。玄宗皇帝は五十九歳。高力士様は六十歳でございました。  不空様にとっては、天宝二年のその年は、最初に天竺《てんじく》にゆかれることになる年であり、もう、何日か先には御出発という時期に、あの宴に、まいられていたのではなかったかと思われます。  不空様は、さらにもう一度、天竺へお出かけになり、もどられてからは青龍寺にずっとお住まいになられておいででござりました。  この安史の乱のおりも、長安を離れず、青龍寺にお過ごしであったお方でござります。  確か、御歳は、五十四歳になっておられたかと思います。  その不空和尚が、いったい、何用があって、ここまで参られたのでござりましょうか。  いえ、そもそも、この地に、玄宗上皇がおいであそばされることを、何故に知り得たのでござりましょうか。  ひと通りの挨拶を交わされて、不空和尚は、傍《かたわら》の僧へ、 「おまえは、しばらく外で待っていなさい」  そう言いました。  その歳若い僧は、慇懃《いんぎん》に礼をして、外へ出てゆきました。  あらためて、不空和尚は一同を見回してから、上皇の横の、空の椅子に眼をやりました。  すでに、この時、貴妃様は、丹龍と白龍の手によって、別室に連れ出されております。  この時、部屋に残っていたのは、私と、玄宗上皇様、黄鶴、そして、高力士様の四人でござりました。 「何用じゃ、不空」  と、上皇様が申されました。 「はい」  うなずきながら、不空和尚は、そこに膝を突かれました。  その姿を、横から、黄鶴が、睨むように眺めておりました。そのような、怖い眼をする黄鶴を、私は、その時、初めて眼にいたしました。  これまで、黄鶴は、どちらかと言えば、何を考えているのやら、とんと見当のつかぬところがあり、めったに、自分の感情を面《おもて》に出すような人物ではありませんでした。  たまに、その口元に笑みを浮かべることはございましたが、それとても、実際には、黄鶴が何を考えているのか、理解する手だてとはならぬものでございました。  その黄鶴が、今、それとわかる憎悪の光を、その眼に溜めているのでござります。  黄鶴の、そのような視線に、気づかぬわけはないはずなのに、不空和尚は、静かに上皇様を見上げ、 「お人払いを、上皇様……」  そう言ったのでござります。 「人払いとな」 「はい」 「この者たちがおっては、できぬ話とぬしは申すか」 「おおせの通りにてござります」 「ここにおるは、いずれも、余《よ》が、深い信を置く者たちばかりである。申せ——」 「お人払いを——」  そう言って、再度、不空和尚は、深々と頭《こうべ》を下げ、同じ言葉を繰り返しました。  上皇様は、さすがに、むっとした表情となり、不快の思いを、その顔に立ち昇らせました。 「上皇様。ふたりきりで、これから貧道《ひんどう》が申しあげることを、お聴きくだされませ。その上で、まだお腹立ちとあらば、このわたしの生命《いのち》、いかようにもして下されませ——」  不空和尚がそう申しあげると、玄宗上皇様は、助けを求めるように、黄鶴に眼をやりました。  黄鶴は、不空和尚から、視線を離さないまま—— 「不空殿、お生命《いのち》かけられておいでか——」  そう言いました。 「いかにも」  迷わずに、不空和尚が答えます。  不空和尚の様子は、何かに、毛ほどももの怖じしているということがないように見えました。  その姿に押されたか、上皇様は、 「よろしい。不空よ。なれば、ともあれ、ここにて、ぬしの話を聴こうではないか。しかし、もしも、ぬしの話が、このわしの気に入らぬところのものであれば、即座に死を申しつけるが、よいか——」  このように申されました。 「はい。仰せの通りに……」 「時間は、およそ半刻。よいか——」  不空和尚は、そこでまた、深々と頭を垂れたのでござりました。  結局——  その部屋を出てゆくことになったのは、我々であったのでござりました。  部屋に、玄宗様と不空和尚を残し、黄鶴、高力士様、そして私の三名は、いったん部屋の外へ出たのでござりました。  いったい、あの部屋で、何が語られているのか、不安な気持で、我々は別室で待っていたのでござりました。  我々は、ほとんど無言で、溜め息をついたり、顔を見合わせたまま、そこで、上皇様と不空和尚の話が終るのを待っていたのでござります。  約束の、半刻という時間が過ぎ、さらにもう半刻くらいの時間が経ったと思われる頃——  話が済んだ旨《むね》の知らせが、我々の部屋に届いてまいりました。  我々は、いそいそと、立ちあがり、もとの部屋にとって返したのでござりました。  そこに、暗い面《おも》もちで、玄宗上皇様が、椅子に座っておいででした。  その前に、たった今、話が終ったばかりのような様子で、不空様が立っておられたのでございます。  我々が入っていっても、それに気づかぬように、玄宗上皇様は、宙の一点を、ただ見つめておいででした。 「いかがあそばされましたか、どのようなお話でござりましたか」  高力士様が、玄宗上皇に、お訊ねになりました。 「終《しま》いじゃ——」  玄宗上皇様は、聴きとれぬほど小さな声でつぶやかれました。 「何と申されました?」 「終《しま》いと申したのじゃ。終ったのじゃ、もう、何もかも……」 「貴妃様を倭国へお連れ申しあげる件は、どうなさるおつもりですか?」 「どうもこうもないわ!」  玄宗上皇様が、声を大きくされました。  腹の底からしぼり出すような、大きなお声でござりました。 「あのようになってしもうた貴妃に、いったい何をしてやれるというのか。貴妃はの、貴妃はの——」  上皇様は、立ちあがり、そのお身体をぶるぶると震わせました。  怒り!?  憎しみ!?  そのふたつながら、同時にそのお身体を襲ったように、上皇様は、その皺の浮いたお顔を赤くふくれあがらせて、 「ええい、貴妃め、貴妃め——」  叫んで、どっと、倒れるように、また椅子に腰を落としてしまわれたのでござりました。  それを眺めていた黄鶴が、貴妃様を隠しておいた隣の部屋へ、そっと様子を見にゆきました。  と—— 「おらぬ!」  黄鶴の声があがりました。 「貴妃がおらぬ。そればかりか、白龍も丹龍もおらぬ。三人が姿を消しておる!」  眼をらんらんと輝かせて、黄鶴がもどってまいりました。 「忘れよ……」  玄宗上皇が、申しました。 「皆、忘れよ。何もなかった。何もおこらなかった。貴妃は、馬嵬《ばかい》の駅で死んだのじゃ。あとのことは皆、夢《ゆめ》、幻《まぼろし》よ——」  なんと、悲痛な声であったことでしょう。  そして、その上皇のお言葉通りに、ことはそのままになってしまったというのが、私の見たこと、知ったことの全てでござります。  華清宮の警備をしていた兵士のふたりが、死んでいるのが、ほどなく発見されました。  貴妃様か、あるいは白龍か丹龍が、この華清宮から逃げてゆくおりに、殺していったものなのでしょうか。  それきり、三人の行方は、杳《よう》として知れません。  そればかりでなく、知らぬ間に、あの黄鶴も華清宮からその姿を消してしまっていたのです。  あれから四年——  年も宝応元年とあらたまり、私はまた鎮南の地より長安にもどってまいりました。  しかし、そう先でない頃に、わたしはまた長安を離れ、遠く、安南《あんなん》の地に赴任することとなっております。  そうなれば、もう、生きて再び、この長安の地に帰りつくことはないでしょう。  安南の地で、老いの身を果つる覚悟ができました。  それにつけましても、心にかかっているのは、あの、貴妃様の一件でござります。  おそらく、不空和尚が、その全てを存じておられるのでしょうが、問うても何も語りはしないでしょう。  いったい、何があったのでしょうか。  私には、いまだにそれがわからないのです。  もはや、あきらめかけていた、倭国への帰還の夢を、もう一度見ることができたということだけでも、幸福とすべきなのでしょう。  ともあれ、朽ち果てる前に、このこと、どうしても記しておきたく、筆をとった次第にてござります。  誰に、読ませるあてというのがあるわけではありません。ただ、書き記しておきたいというのが私の望みでありますれば、倭国の言葉で、これをしたためさせていただきました。  宛名は、李大兄でござりますが、もとより、この一件は、李大兄とは、何も関係のないことにてござりますれば、もし、お読みになったのなら、李大兄よ、これを、倭国恋しさのあまりに、晁衡《ちょうこう》の見た、夢としてお笑い下さい。  また、もし、別の方がこれをお読みならば、以上のごとくに、李白大仙とは関わりなき、夢の話故、責《せき》を負うべきは、もっぱらに、この晁衡であるということ、お知りおき下されたく。  この不可思議なる、事件に関われたこと、本当に、この身の僥倖《ぎょうこう》にござりました。  もはや、日本に帰る望み断たれた今、倭国の言葉にて、この文したためんことを、我が恨《うら》みとす。 [#地から1字上げ]宝応元年 倭国の使者、       [#地から1字上げ]安倍仲麻呂 長安にて記す  こうして、長い手紙を、空海は読み終えたのであった。 [#改ページ] 底本 徳間書店 単行本  沙門空海唐《しゃもんくうかいとう》の国《くに》にて鬼《おに》と宴《うたげ》す 巻ノ二  著 者——夢枕 貘  2004年7月31日  第一刷発行  発行者——松下武義  発行所——株式会社 徳間書店 [#地付き]2008年12月1日作成 hj [#改ページ] 修正  肉休→ 肉体  安薩宝《あんさつぼう》・安薩宝《あんさつぽう》→ 安薩宝《あんさつぽう》に統一  言うに及ばす→ 言うに及ばず